第六章・お釈迦様の悟りと霊界

 お釈迦様は菩提樹の下で、悪魔達の囁きを通して悟られたのは、人には仏
性が宿り、その仏性は慈悲の心だと悟られたのではありませんでした。悪魔を
通して知ることが出来たのは「良心」神。

 このことは、大本教神諭が予告した「誠」印の三六九(みろく)でない限り、誰
をもってしても、紐解けなかったでしょう。祇園精舎の御守護は牛頭天王。大本
教のウシトラ(牛虎)で、その「謎」も解けたでしょう。

 日本の仏教には御題目を御本尊とする宗派もありますが、釈迦牟尼仏を御
本尊とする某禅宗の総本山が出した機関誌に、お釈迦様は菩提樹の樹の下
で、悪魔は実態を持たない表れであり、人には良心と呼ぶ神が内在すると悟ら
れたとあるように、人には[良]心と呼ぶ神が内在することを悟られていたので
す。

 良心と慈悲は同じものではありません。慈悲は愛と同様に悪をも許す心。良
心は悪は反省しないと許さない心。良心は正義と誠。悪魔とは正反対に位置
する心のことなのです。
 しかし、人に内在する良心が神だと云われた時、その意味が解る者が居たで
しょうか?。居ないことから、違った解釈に走って行ったのです。

 大本教神諭が予告した、九つ花に咲く一輪の言霊の経綸。それは、お釈迦
様の悟りを言葉で成る[誠]が解き明かせました。しかも、三六九(みろく)の仕
組み。
 何神かが、お釈迦様より昔から言葉(日本語)によるこの仕組みを考えておら
れたことになります。それは、何神なのでしょうか?。当然に「牛頭」天王。
 日本では牛頭天王は素戔嗚尊とされて来ました。大本教出口王仁三郎さん
の演技は「素戔嗚尊」でした。でも。皆さん方向違いを見ていたのです。

 考えられるのは唯一の神。仏教の祇園精舎の守護神[牛虎の神]で、イスラ
ム教世界でアラーの神と敬われている神。旧約聖書の神。すなわち、万物の
創造神。それ以外の神に出来る仕組みではないでしょう。



お釈迦様の悟りと三六九(みろく)花

 丹波の片田舎綾部で発祥した大本教。その大本 教は言霊と呼ぶ存在。節分の鬼は外で艮金神を出 しました。そして、みろく神をも教義の前面に出しま した。そこにはそれだけの意味があったのです。
 大本教神諭が予告した九つ花とは、お釈迦様の 悟りを得る道中に立ちふさがる九の魔王陣のこと でも、その真ん中には人の魂に[良]心を意味する 神が在ることが隠されていたのです。その場所を [空く間]にすれば、人は誰でも悪魔と化す。
 悪魔とは実態を持たない表れで、自分の魂の中 の良心神の存在を忘れただけ。失っただけ。
 しかし、この仕組みは日本語の誠印でみろく(三六 九)花を紐説かないと解らないことです。さらに、この 仕組みが[五六七]の意味をも語るのです。
 おまけに、旧約聖書に隠されていた秘密も含め ているのです。
悟りとは、吾が心の中に在る物を知る。九つ 花の第五番目の口にある心が吾(五口)の 心。良心神の席を[空く間]にすれば悪魔とな る。

良心を失えば悪魔となる



お釈迦様が悟られた良心神とは?

 私達は一般的に良心と言えば、万人の人が良いと思う心のことだと思ってしまいます。
 だが、お釈迦様が悟られた良心神とは、そんな単純なことではないのです。単なる心の持ち方で
はなく、それ自身が神そのものであることに気付かれたわけです。
 大本教神諭予告、この世の[閻魔大王]として現れる。この世の閻魔とは良心のこと。○(円)の
真の円真。

悪魔や獣でも[愛]はあるが
悪魔や獣に[良]心は無い

 人は誰でも自分が間違った道に入った時、良心の目覚めがない限り、間違った中に何時までも
居ます。
 そうした事例の典型としてオーム真理教があります。本当の空中浮揚を見たこともない信者達は、
おかしなおかしな蛙飛びを空中浮揚などと信じていました。そんな教祖が言う言葉を全て正しいと信
じました。そうした時、自分の魂の良心が目覚めないと何時までも騙されの中に置かれるのです。
別に、それはオーム真理教だけの問題ではなく、幾多の教団で見られることです。

 魂に良心神がないと改心が出来ず
 魂を更生させて後世甦(更生)
 輪廻転生を司っているのがの神



良心神とは、魂の心棒を指す

 お釈迦様が悟られた人には良心と呼ぶ神が内在する。その良心神とは、誰もが考える様なあいま
いな意味の良心のことではなく、魂の中に出来る[心棒]が良心と呼ぶ神の働きそのもである
とを悟られたのです。
 日本神道で神霊のことを[柱]と呼称します。諏訪大社における御柱(おんばしら)の行事は奇
祭として知られていますが、何故に神霊を大木の棒(柱)に見立てるのか?。太く逞しい心棒は神の
柱だからです。
 大本教神諭、人には神とも成れる魂を授けてあるにも関わらず・・・・。人の魂の中にはラ神論で説
く創造神からの分魂が入っているのです。そのこと自体は日本神道で天の神からの[直霊]として
既に説かれてはいます。しかし、その段階では良心と呼ぶ神の働きはしないのです。魂の中に[心
棒]が出来て、初めて神と呼ばれる柱が立つのです。

 一般的には霊能力がないと[魂]を見ることは出来ません。ただ、最近テレビカメラの性能がよくな
ったのか、超常現象を捉える番組の映像に人の目には見えていなくても、映像には[オーブ]と呼ば
れているが魂が写し出されるようにはなっては来ました。ただ、こうした魂は不成仏霊とか浮遊霊と
呼ばれるような魂であって魂そのものも小さいのです。神霊と呼ばれる存在になると魂も大きいので
す。当然に[柱]たる心棒も太いわけです。

 霊能者と呼ばれる者の中に魂までは見ることが出来る方はありますが、魂の中の心棒まではさす
がに見れない人が多いでしょう。見えても、それが何であるかは解りにくいのです。何故に魂に心棒
が存在するのが解るかと云いますと、[蛇]霊との関係なのです。
 旧約聖書、人類の祖とされるアダムとイヴに囁いた蛇。人類が神の御国から追放される原
因を造った蛇霊は、良心神を意味する魂の心棒に巻き付こうとするのです。その蛇が見えた
時、魂の心棒の存在が見えて来るのです。
 お釈迦様は菩提樹の下の瞑想で、お釈迦様を襲った悪魔の囁きや幻影。そうした中で蛇霊を見ら
れたのでしょう。そうでない限り、人には良心と呼ぶ神が内在するなど悟ることは出来ないかと思い
ます。不可能に近い話です。



良心神とは破邪の剣(ミカエル)

 破邪の剣と云う言葉を聞かれたことがあるでしょうか?。たぶん、無いかと思います。辞書を引い
てもそうした言葉が載ってはいません。
 しかし、どこかで聞いたことがあるような気がする言葉かと思います。

 アダムとイヴに囁いた蛇。蛇霊が囁いた程度ならまだいいのです。その蛇霊が魂の心棒に巻き付
いてしまいますと、大変なことになるのです。
 魂の心棒は、正義とか誠とか善を働かせる善悪の判断をしています。その心棒が蛇霊に巻き
付かれしまいます善悪の判断が出来なくなるのです。蛇霊の囁きで邪(悪)を犯すことになります。
 破邪は、良心の剣によって邪(蛇)の教えを破ることです。

 すなわち

邪(蛇)を退治(対峙)する良心(正義や誠)は神剣
良心はミカエル(巳帰る)の働き


 私達の魂の心棒は、良心(正義や誠)と呼ばれる神の剣

 蛇(邪)霊は最終的に、この破邪の剣を飲み込もうとするのです。蛇(邪)に破邪剣が飲み込まれ
てしまったならば、もうその魂は邪(蛇)の管轄下になってしまいます。

 こうした図を、どこかで見かけられたことがあろうかと思います。くりから(倶利迦羅・倶梨迦羅)龍
王不動剣です。黒龍神が不動明王の智剣に巻き付いて、その剣を飲み込もうとしている様です。ヤ
クザ屋さんの背中の入れ墨として見られたことがあろうかと思います。

 ヤクザ屋さんにとって、正義や良心など糞喰らえなのです。ヤクザ屋さんにとって邪悪は常に勝つ
なのです。悪は正義に勝たなければならないのです。

魂を磨くと玉は丸くなり、心棒が育つ
研がれた破邪剣に蛇は巻きつけない




良心神の存在を知らなかった神々

 仏教を開かれたお釈迦様は菩提樹の樹の下の瞑想で、お釈迦様を襲った数々の幻影や悪魔の
囁きを通し、悪魔とは実態のない表れであり、人には良心と呼ぶ神が内在すると悟りを開かれまし
た。

 大本教神諭が予告した、九つ花に咲く一輪の言霊の経綸を誠で紐解くなら
ば、なるほどそうだったのかと解ることではあっても、誰もこんな不思議な仕組
みが存在していること自体に気付くこともなかったわけです。
 誰も仏教の81体の仏達で描く曼茶羅絵を見ても、まさかそれが日本語として
使われる言霊と結びついているなどと考えも出来ないことです。

 確かに、悪魔とは魂から[良心]を失った存在であり、良心を取り戻すならば、そこには悪魔
(空く間)は存在しないことになります。しかし、この良心神の存在を大本教神諭予告、九つ花に
咲く一輪の言霊の経綸以外で説いたとしたならば、誰一人として聞く耳を持たないでしょう。ま
た、理解することも出来ないでしょう。

 日本には八百萬の神々と云うほど多くの御神霊が存在します。こうした神々に、私が良心が一番
大切ですよと説いて回っても、神々の返事は決まっています。
 良心が大切なことぐらい、何もあんたに教えて貰わなくても知っている。
 如何なる大社の御神霊であろうとも、如何なる大寺院の御本尊霊であろうとも、返って来る返事は
それのみ。それは、例え○○天と呼ばれる様な大神霊をしても同じことなのです。どなたも、良心と
は単なる心の働きとしか思っておられなかったのです。
 大本教神諭、この大望な経綸がしてあること(九つ花に咲く一輪の言霊の経綸)を世界に一人
知りておる。誠の人はこしらえてあるから、この誠の人が出てこんと解らんぞよ(大正3年旧7月
11日)

誠でないと、みろく(三六九)は説けない
 
 諸天と呼ばれる御神霊でも、誠(言葉で成る神)を御存知なかったわけです。
 まして、その良心神が神々や魂の[心境]を獣や虫類で表現する言葉で写し出す主の神の働きで
あったなど、誰も言葉そのものを見ていなかったことで解らなかったし、御存知なかったのです。



九の魔王陣と悟空(空の悟り)

 お釈迦様の菩提樹の樹の下の悟りとは、悪魔とは実態がない表れで、人には良心と呼ぶ神が内
在するでありましたが、それとは別の空の悟りがあります。それは、日本人ならほとんどの人が知っ
ている般若心経の色即是空・空即是色の一切が空。これは、頭で理解しようとしても出来るもので
はありません。
 この意味が真に解るには、自分の魂の中に良心神があると解ってからになるのです。

 西遊記の三蔵法師がお釈迦様の悟りを得る為に天竺に旅する道中、その道を通して欲しければ
この問題を解けと出されたのが九の魔王陣(大本教神諭では九つ花)。だが、その問題が解けな
い。そこで、観音様の元に答えを聞きに行ったのが悟空(空の悟り)。

お釈迦様の悟りを得る旅のお供に悟空

 空は何も無いと言う意味ではなく、簡単に言えば無我無欲。
 良心がある人達は、決して過度の我や欲には走らないのです。

無我無欲であれば、悪に走ることなどない
 人は誰でもそうだが、どうしても自分が自分がと[我]を張ってしまいます。人よりも得をしょうと
[欲]を出すのです。
 大本教神諭、我があっては行けない。と言って、我がまったく無いでは行けない。
 適度の我と欲がなければ人に進歩はありません。人は常に無我無欲の状態では動けないので
す。それこそ動けぬダルマになってしまいます。しかし、中庸の無我無欲を保てるならば、そこにあ
るのはその人の色(質)のみ。魂に出る色は、その人の質を表現するのです。悪魔は実態の無い表
れであると同様に、私達が見ているのは単なる色を見ているだけです。人は色々。人生も色々。



良心神論は、宗教としは成りがたい

何故、大本教から良心神論は出なかったのか?

 もし、大本教が最初から良(ラ)心神論を出していれば、そんな宗教は今頃影も形も無くなっていた
でしょう。[ラ]神論の良心神の教えでは人は誰も付いては来ません。大本教が今日まで残れ
たのは[ス]の神論だからなのです。

      ス神ならば霊的奇跡力を振るえるが
      ラ神(良心神)は奇跡で無く、誠で説く
 良心神のラ神論、悪いことをしては行けません。悪いことをすれば、エンマ様に叱られますよ。地
獄に墜ちますよ。そんな教えは、誰も耳にタコが出来るほど聞かされているのです。

 それよりも、我が宗派に入信すれば天国に救われる。お題目を一生懸命上げれば幸せが得られ
る。そんな甘い教えに蟻は群がるのです。蟻は義の経など無視(虫)します。誰も真理の追求をし
ょうとはしないのです。真理を学ぼうとはしない。真理を説く宗教など存在していないのです。

 私はヒンズー教のヴェーダ典。【人の中に眠るコブラが目覚めて走り上がる時、人は真理に目
覚める】を体験をしたことから真理とは何か?。
 眼鏡蛇(コブラ)?。人類はメガネ違いを起こしているのではないか?。お釈迦様とイエスの教えの
違いに真理が隠されていると見て、お釈迦様は何を悟られたのだろうかと、お釈迦様の悟りだけを
求め続け来ました。
 宗教家は仙人ではありませんので霞を食べて生きるわけには行きません。自分の生活費や宗教
活動をする資金を支えてくれる信徒さん達を必要とします。
 そうした時、真理の教えである良心神を説いていたのでは、自分の良心神など自分に[苦]を与
えるだけの存在ではないか!。あれをしてはいけない。これをしてはいけない。それでは良心
神など鬼だ!。
 それよりも、自分に現世御利益を授けてくれる神が好いで、信徒に成る者は出ず。宗教の教えとし
ては成りがたいのです。人々が求めるのは蛇神や狐神が与える現世御利益信仰誰も蛇や狐
の神が獣(\)の[獄]界には気付かないわけです。
 お釈迦様の悟りが人に内在する良心神であっても、そうした教えは何時しか人々の心から忘
れ去られたのです。



人は性善なる者か、性悪なる者か

 宗教と云うか哲学と云えばよいのかは解りませんが、宗教世界で人は性善なる者か性悪なる者か
が論議され来ました。
 性善説は人は生まれながらには善であるが、この世の置かれた環境で悪に走る。これが性善説。
ところが、どんなに恵まれた環境の元に生まれ出て高等教育を受けても、悪にしか走れない人達が
います。
 性悪説は、人は生まれながらには悪であるが、この世で善を学んで行くことで悪から洗われる。
 だが、驚くほど劣悪な環境の元に生まれ出て、何一つ教育を与えられなかったにも関わらず悪に
走らない善の人もいるのです。
 性善説、性悪説のどちらも無理があります。それは、魂の論理を見ていないからです。死後
の世界と呼ばれる霊界は、全ての霊能者が指摘するように想い(思い)の世界。

 常に心が正しく、人に親切で優しい魂が集まった世界は争いがなく平和の国を造っていま
す。俗に天国と呼ばれるのはこの世界のことです。
 ところが、自己勝手で自分本位の魂が集まった世界は、やりたい放題で力の強い者が勝つ
獣の世を造っています。俗に云う地獄界を造るのです。

天国を創るのは、住む住人の心(魂)
地獄を創るのも、住む住人の心(魂)

 霊界は魂の想い(思い)の違いで[界]層が違っており、地獄界の者が天国界には進めません。俗
に天使と呼ばれる魂を導く教導職の者だけは霊界の階層を越えられますが、それ以外の魂には出
来ないのです。その天使も地獄界に降りてまでは導きはしません。その手前まで。
 地獄界に墜ちていた魂に教えが出来るのは、この世だけ。

 この世は魂の修業場として創られたものであり、許されて地獄界から生まれる出た者、より上級天
国界に進む為に生まれ出た者。そうした魂が入り交じっているのです。

 時には、魂の世界の教導職であった者がこの世で教えをする為に宗教家として出ます。イエ
スやマホメットや弘法大師がそうした魂の典型で、神の子と呼ばれて来たのです。



天国界と中有界と地獄界の三途で三途川

三途川の意味を知りながらも説かぬ僧侶

 私達日本人は江戸時代のキリシタン信仰禁止令で、どこかの寺院を檀那寺とする宗門人別帳の
中に組み込まれました。そうしたことから、ほとんどの日本人は先祖からの仏教徒になります。その
仏教において死者がこの世からあの世に渡る時、三途の川を渡ると教えられて来ました。
 この三途の意味は、死者がこの世からあの世に渡るに当たって、三つの途があると教えたも
のです。死んだから天国・極楽に渡れる等とは教えてはいないのです。
 死後の世界においては俗に云う天国(極楽)界と地獄界に、天人と言うのにはほど遠く、地獄界に
落とすには忍びない様な魂。そうした魂は中有界(一般的な霊界)にと渡っているのです。こうしたこ
とは仏教で[三つ瀬]の教えとして説かれ、僧侶が三途川の本当の意味を知らない等はあり得ない
ことです。
 何故、僧侶達はそうしたことを檀徒に教えないのか?。高いお布施の戒名を付ければ自分の御経
で極楽に行ける等と金儲けに走る為なのでしょうか?。

神の御国に渡るまで、魂は修業の為に何度も生まれ出る

 仏教とは同じバラモン教を親とする兄弟教に当たるヒンズー教においても、人は生まれ変わるの
[輪廻転生]論が説かれます。一方、旧約聖書を母胎とするキリスト教・イスラム教・ユダヤ教の三姉
妹教には輪廻転生の教えがありません(グノーシス派の一部を除く)。
 これは、旧約聖書を母胎とした宗教は魂そのもの理論を見落としたからであり、旧約聖書には魂
論は書いてないからです。



金持ちは天国に行けない?、三ツ瀬の教え

 イエスの有名な教えに、金持ちが天国に入るのはラクダが針の穴を通るようなものだがあります。
イエスは金持ちでは絶対に天国には行けないと説いたのです。
 一方、私達仏教徒が普段口にしている三途川の元となる[三ツ瀬]の教えも、金持ちでは地獄に墜
ちると説いたものです。しかし、金持ちならば無条件で地獄に墜ちると説いたものではないのです。
 人は人生と呼ぶ川を渡るに当たって、渡る方法には三つの方法があると説かれたのです。川を渡
るに当たって、金持ちは自分が着ている立派な服を濡らすまいと浅瀬を探して渡り地獄行き。貧乏
人は着ている服が濡れるのもかまわずに危険な荒瀬を渡って現界に差し戻し。思慮ある者は服を濡
らすまいと裸(ラ)になって流れが緩やかな深瀬を渡って天国行き。

 誰が考えても、服を濡らすまいと浅瀬を探して渡るのが当然と考えられます。まして、流れがいくら
緩くても裸になってまで深瀬を行くでは一般的には意味が解らないことです。
 ただ、この裸(ラ)になって三途の川を渡るが、三途の川には脱衣婆がいて、六文の銭を渡せ
ば死者を裸(ラ)にして極楽に送ってくれると云う説話につながるのです。
 この服を単に肉体が着る服と考えてしまうと意味が解らなくなります。魂が着る服の肉体と考える
ならば、金持ちは常に自分の肉体を汚さないように生きる楽な道を歩きます。貧乏人は自分の肉体
が汚れることや命の危険も省みずに、何事にもせっかちに苦労だけの道を行きます。思慮ある者は
自分の肉体(魂の服)を汚さないように、常に自分を飾らない裸(ラ)のままの心であり、流れが緩や
かな深瀬を渡るは、その魂の性格が思慮深く穏やかであることを意味して来ます。 

 霊界に金銀財宝で輝いた世界が存在します。金持ちばかりが集まった霊国です。この国の住民
達は、他の住民に「己」の財宝を取られまいと蛇(巳)の姿に変化して他の者を威嚇するのです。

蛇に成ってまで財が欲しければ蛇に成ればよいこと

 しかし、それではいくら金銀財宝に囲まれていても「心に安らぎ」はないでしょう。心に安らぎを求
める人。心の安らぎよりも金銀財宝に執着する人。様々なのです。
 お釈迦様の説話、

蛇に成った長者

 日本の狂言、成った成った者(ジャ)に成った。当家の長者は蛇(ジャ)になったがあります。それ
すら知られなくなったようです。



霊界は何層界なのか?

 仏教であの世(霊界)に渡ることを三途の川を渡ると云います。三途の川とは、前稿で死後の世界
では天国と地獄に一般霊界(中有界)と呼ばれる三つの途があることを示していると説明しました
が、天国界・中有界・地獄界の三界はおおまかな区分けであって、もっと細かく分類されるべきで
す。
 ほとんどの霊能者が支持しているのは、スウェーデンの哲学者で霊能者(神秘主義者)であったス
ウェーデンボルグ(西暦1688〜1772)が霊界を探訪して、霊界は第1.2.3天国界と中有界と第
1.2.3地獄界の七層あると云った説がもっとも有力とされています。ラッキーセブンの元。仏教の
六道輪廻は、天国三界と地獄三界の六界で中有界が抜けているのです。また、立体的論理ではな
いのです。

 大本教の出口王仁三郎聖師は、西洋人では一人だけが霊界を探訪していると言い。このスウェー
デンボルグの七層説に更なる天国界が存在すると云って、霊界八層説を説いています。
 私個人の見解としては中有界は一層に見えていても、中有界そのものにも天国的な世界と地獄
的な世界が存在しており、第1.2.3天国界や第1.2.3地獄界のような厳密な階層ではないにし
ても、上級中有界、中級中有界、下級中有界の三界に分けて、第1.2.3天国界の上にある天国
界を含めて十階層ではないかと推察しています。
 そうでないと、霊界に現れる神を示す[十]記号の意味が言葉の仕組みとして整合性を持たな
いのです。一.二.三.四.五.六.七.八.九.十。
 それと、魂には点数が出て来るのです。30点に到達していないと地獄界行き。60点を超えている
と天国界にと入って行けます。
 魂の輪廻転生の卆業である九十(卆)点を越えると、名実共に神(十)の界にと進むことが出
来るようです。囲碁や将棋で十段位は一人でも九段位は目白押し。棋士の最終目標は九段位にあ
ります。軍人の魂が神と上がる靖国神社も九段の坂の上。



霊界の階層図式(私の個人的推論)

一般説 スウェーデンボ
ルグの説
出口王仁三郎の説 私の説(魂に出る点数説) 性格(魂)の主な特徴
最上級天国界 神の御国界(90〜99) ・輪廻転生を起こさない卆(九十)魂
天国界 第1天国界 第1天国界 上級天国界(80〜89) ・性格が穏やかで誰にでも親切
・世の為に社会の為に尽くす
・自己犠牲を払うことをいとわない
・公正を知り、悪事には走らない
・過ちを犯せば悔いて反省する
・自分を向上させようと学ぶ
第2天国界 第2天国界 中級天国界(70〜79)
第3天国界 第3天国界 下級天国界(60〜69)
中有界
(輪廻転生を起
こす主たる界)
中有界
(仏教では、現界差
し戻し界とまで云う)
上級中有界(50〜59)
中級中有界(40〜49)
地獄界 ・短気、大声でわめく、暴力的
・自己本位、自分で偉い者と思う
・犠牲(自分を殺す)心を知らない
・公正を知らず、不正に走る
・恥じるとか反省する心がない
・自分を向上させる気がない
下級中有界(30〜39)
第1地獄界 第1地獄界 上級地獄界(20〜29)
第2地獄界 第2地獄界 中級地獄界(10〜19)
第3地獄界 第3地獄界 下級地獄界(0〜9)
 
 魂は輪廻転生の回数で大きさが違い、個性(性質)で魂の色も違います。魂の大きさや色だ
けでは、その魂がどの段階に進むのかが見えては来ません。だが、魂に点数(閻魔帳に基づく)が
出れば、どこの界に行くのかは見えては来るでしょう。

この世は魂の学びの場、学びの成績に点数はある
 この世が魂の修業場であれば、そ修業によって成績の点数が付けられるのが本筋ではないので
しょうか?。無いと主張する方が難しいでしょう。



ラ(螺)神論による6道の輪廻

 仏教やヒンズー教には魂は生まれ変わるの[輪廻転生]論が存在します。仏教においては、その
輪廻転生は三つの天国界と三つの地獄界の六つの界を巡るとされています。ここに[六道輪廻]の
教えが発生しているのです。その六道輪廻だと中有界の存在が抜けてしまい、三途の川と示してあ
りながら天国か地獄の二途の川しかない二元論になってしまいます。

 私達はアラビア数字の[6]と[9]の数字を見た時、それは単に反対の形になっているとしか思い
ません。何故に反対なのかを誰も考えなかったわけです。
 日本では万物を創造した神を六(6)合大神と呼びます。天上世界では禄(6)を授ける神でも、地
上世界では人類に苦(9)を与える災いの神とか祟りの神と呼ばれて来たのです。苦(9)役の神。

陰陽の玉(魂)

 万物は全て陰(マイナスのエネルギー)陽(プラスのエネルギー)から成り立ちます。



 この陰陽で現されるものをよく見ますと、ある数字が頭に浮かぶかと思います。
 それは、アラビア数字におけます[6]と[9]なのです。


 創造神は宇宙のエネルギー(火水)であり、全ての生命体は火水(神)たる渦巻き(螺旋)形のエネ
ルギーから生み出されて来ます。すなわち、数字の[6]形は、火水(神)たるエネルギー(渦巻き)を
表しているのです。


 この[6]と[9]の数字は、不思議なことに「ある言葉」を意味します。冥途の土産に「6文銭」と云わ
れたように[6]は「霊界」を意味します。
 お釈迦様は、この世を「苦界」と告げられましたが、苦界とは[9]界なのです。為に、日本では[9]
の数字は「苦」を意味すると嫌われるわけです。

天界(霊界)は[6]で、この世は[9]界


 日本神道でも、渦巻き印 で[神]を表す事例はママあります。アインシュタイン博士、宇宙は円筒形
と云われています。円筒形は有限でも無限に進む螺(ラ)旋道。



ラ神の螺(ラ)旋と波動

 岡本天明氏が自動書記で日月(ひつき)神示を表した時に万物を創った神を表す形として「」の
記号が使われました。
 何故に万物を創った神の記号に渦巻きの形(螺旋)が使われたのか?。日月神示の解読者にとっ
てもそれは大きな謎でした。渦巻きの意味が解らなかったからです。ここに大本教神諭が予告した
九つ花に咲く一輪の言霊の経綸、日月神示における神一厘の仕組みがあるのです。

 アインシュタイン博士は宇宙は円筒形であるが故に、無限であり有限であると云われたと伝えられ
ています。宇宙は螺旋状で進化を遂げていることになります。

宇宙は螺旋「」運動の中にある
 
 そして私達の魂も螺旋状で進化をしているのです。為に、そこには輪廻転生が生じて来るのです。

下記の図を参考にされるとより解りやすくなります。


 この螺旋を横に平面的に表すと「波動」形になります。

螺旋=波動(流)


 私達の魂は生まれて死んで、生まれて死んでを繰り返しています。その生まれて死んで、次に生
まれて来るまでが「一スパン」と云うことになります。私達の今生における一生とは、その波動の
一スパンの生(この世)の部分に過ぎないのです。魂はそうした波動を繰り返しながら生き続けて
いるのです。
 今生で起きた出来事は、半永久的に生きる魂の波動波の中の一つのスパンの瞬間の出来
事でしかないのです。その瞬間の出来事にとらわれて、物事の本質を見誤っては行けないわけで
す。
 私達は何故に過去世のことを覚えていないのか?。覚えていることが無意味なことだからであり、
過去の自分に囚われては行けないからです。

 私達は心臓の働きを見て貰う為に「心電図」検査を受けます。心電図は波動を表しています。波動
が止まった時、私達は御臨終(死亡)ですの判定を受けます。
 私達の魂(心)が宿るところ、心臓と呼ばれる場所になります。魂も波動(螺旋運動)の中にありま
す。その螺旋運動を停止した時、魂も死亡なのです。

輪廻の意味を正しく捉えていないと、誤った理論に入ってしまう



(平成17年12月追加分)



先の者が後に、後の者が先に

 全ての霊能者が指摘するように、霊界は想い(思い)の世界で想い(思い)が違っている者は同じ
世界に住むことが出来ません。それが結果的に天国とか地獄と呼ばれるような世界を創り出す
わけです。
 霊界は厳密に区分された階層界である為に、霊界の中で階層を進めることは出来ません。魂には
越えられない壁が存在しているからです。魂が霊界で上級界に進もうとすれば、魂の修業場たる
この世に降りて来なければならないのです。
 ただ、中有界のみは一層という説が出されるように、中有界の中では階層を進めることが出来る
(霊界の中で修行が可能)と見るわけです。輪廻転生が一番激しく起きるのが中有界で、仏教では
現界(この世)に差し戻しの界とまで説かれて来た世界。

 例えば、その魂がこの世に出る前は上級地獄界から許されて出て来たような魂であっても、この
世でその魂が一生懸命に努力して大成すれば、その魂は一気に天国界にと進むことが出来ます。
ところが、この世に出る前は例え上級中有界に在って天国界に入る一歩手前の段階の魂であって
も、今世では遊び呆けていたとすれば地獄界に墜ちる可能性が出て来ます。
 すなちわ、輪廻転生の過程の中においては、先(上)にいた魂が後(下)にもなり、後(下)に
いた魂が先(上)にもとなるのです。それが、この世が魂の修行場と云われる最大の理由。
 天国界に居た魂がこの世に出るのを嫌うのは、今世で道を誤ってしまえば地獄界に墜ちる危険性
も非常に高いからです。
 何故に、改心することが大切とされて来たのかと云いますと、改心をすることで当然に魂は向上
を始めます。自分が過去にこの世で犯した罪の償いを終わらせて、更なる上への霊界へと進める
のです。誰か(羊の者=善人)に自分が犯した罪や汚れを着せて、自分の罪が消えると考えている
と、いくら愛の行を積んでいても上級天国界には進めないのです。



この世を[浮]世と云う

 俗に、この世を[浮世]と云います。

     この世は魂の修行場、魂を上級界に浮かせる世
     浮かれて遊ぶ為の世ではない
 この浮世とは【憂(うれ)いの世】の憂世から来たもので、つらい世の意味。魂の修業はつらい。

     憂世は[つらい]世でも、憂いの人は[優]の人
     この世の卆業試験に[優]の印は欲しいもの

 最近の若者は[日本語]を知らなくなりました。日本語か何語かが判別出来ない調子の歌を歌って
います。また、[ラ]抜き言葉を連発しています。その点、演歌は日本語がはっきりしています。特に
股旅ものは、流転とか浮世とか[魂]の世を教える歌詞が込められているのです。少し前までは、ま
だ仏教の教えに救いがあったとは云えるでしょう。
 この世を現世(うつしよ)と云います。何故、現世と書いて[うつしよ]と読ませたのでしょうか?。こ
の[うつしよ]とは、この世があの世の写し世(模写)とか、あの世を移した世の[移し世]から来て
いるのです。為に、この世で幸せで無ければあの世でも幸せでないとも論じられて来たわけです。

しかし、9(苦)と6(禄)の回転までは読み切れなかった 

 日本語は国文学者の解説ではなく、言葉を創った創造神の意図を読まないと何が語られてい
たのかが解らないのです。狂信的な神秘主義者達は日本古来の古代文字を云われますが、中国
に漢字を創らせた主の神(創造神)の意図が解っていなかったわけです。



不成仏霊(霊界の手前で迷う霊)

 テレビ等で霊現象が放映される時、登場した霊能者がこれは不成仏霊だという言葉をよく口にしま
す。この不成仏霊と云う言葉はキリスト教やイスラム教やユダヤ教には存在しません。無論、日本
古来の神道系にも存在しないのです。
 そこで、霊能者は仏教系でなくても不成仏霊と云う言葉を口にします。仮に日本神道系の教団に
所属していた霊であっても、不成神霊では言葉の使い方としてはおかしくなります。霊能者が神と呼
ぶ存在を口にする時、一般の仏と呼ばれる霊より遥かに高度の霊を指しているのであって、神の位
を受けていない霊に対して不成神霊と云う言葉は使えません。神の位は自分が信仰する宗教宗派
とは関係なく得られるのですが、簡単に授かるものでもないのです。

 不成仏霊とは未だ仏には成ってはいないと云う意味で、死後の世界に渡っても未だ三途の川を渡
っていない霊を指します。

  不成仏霊とは霊界の手前で迷ってしまった霊で
  天国界・中有界・地獄界のどこにもに入っていない

 この世を離れても、この世でウロウロしている霊。

 自殺した人、殺された人、事故で死んだ人、恨みを持って死んだ人、苦しみの中で死んだ人、霊
界の存在を否定して来た為に自分が死んだことが自覚出来ない人、そうした人の霊が迷って障りを
起こしている時に霊能者は不成仏霊と云う言葉を口にします。そうした霊を三途の川(本当の霊界)
を渡らせることで成仏をさせたと云うだけであって、仏教本来の「仏陀」の意味ではないのです。
 いくら僧侶が葬式の時に御経を上げたからと言って、不成仏霊を霊界に送れるものではありませ
ん。霊能者は霊と対話をして、その霊の想い(思い)を受け取り、間違っていれば諭して言い聞かせ
て納得させて霊界に旅立たせるのです。
 キリスト教の牧師は暴れる霊を全て悪魔だとして悪魔祓いの儀式をされますが、霊能者が見ると、
その霊は幼くして死んだ子供の霊で、父親恋し、母親恋しと泣いているのが騒霊現象として出てい
る。そうした事例もあるのです。何もかも悪魔にしてはいけないわけです。

悪霊も心の悲しみや苦しみ無知から来ている

 悪魔には実態は無いのです。単に心の囚われなのです。



異端書のスウェーデンボルグ説

 敬虔なキリスト教徒であったスウェーデンボルグの霊界探訪記は、キリスト教では異端書とされ、
キリスト教が彼の説を認めることはありませんでした。
 スウェーデンボルグは第二天国界を探訪しましたが、そこで彼が見たものはキリスト教徒だけでな
く、キリスト教の教えでは地獄に墜ちているはずの多くの異教徒達の存在。さらに、第二天国界の住
人ですらこの世に生まれ出るという輪廻転生の事実に接したわけです。
 キリスト教はイエスが最後の審判の日に現れるまで死者は墓の中に眠るであって、霊界の存
在は認めていません。さらに、キリスト教徒ですら輪廻しているでは、イエス一人が神の子説など吹
っ飛んでしまうわけです。キリスト教がスウェーデンボルグの説を認めるなどは絶対にあり得ないこと
です。しかし、それでは事実を覆い隠すことにもなるのです。

 20世紀のアメリカで眠れる偉大な予言者と云われて来たエドガー・ケーシーも肉体は敬虔なキリ
スト教徒で、キリスト教会の教えに忠実で教えを何一つ疑いませんでしたが、その眠れる魂は仏教
の輪廻を口にしています。
 大本教の出口王仁三郎聖師は、西洋人では一人だけ(スウェーデンボルグ)が霊界を訪れている
としていますが、日本では多くの霊能者が霊界を見聞していています。それは、一神教と多神教の
違いから起きるのでしょう。日本の霊能者は自分が崇拝する神霊を通して霊界を見聞している
場合が多いのです。しかし、唯一成る神とは霊能者で会える様な神ではないわけです。

 特に注目しておかなければならないことは、各々神霊達が支配する霊界も存在しています。日本
では有能な霊能者が、不成仏霊を自分が信仰する神の元に送ってやると云う言い方をされますが、
これは通常の霊界とは別の界になります。観音様が成仏が出来ていない水子霊を引き取って下さ
る。そうした事例を日本の多くの霊能者は体験しているはずなのです。
 日本は、八百萬(やおよろず)の神々が活動している神の国。



死者は墓の中に眠る?

 キリスト教では、死者はイエスが最後の審判の日に現れるまで墓の中で眠るが基本教義となって
います。その為に霊界の存在を認めません。
 では、仏教の場合はどうなのでしょうか?。基本論としては、死者は三途の川(三つの途がある界
へ)を渡るであって、死者は墓の中には居ないことになります。

 ところが、墓の中に居る場合もあるのです。第一に不成仏霊。この世に怨念や未練を残している
と、三途の川そのものが渡れません。霊界に渡る場合は魂の故郷に帰るのであって、この世の
ことは忘れないと行けないのです。それが出来ていないと、三途川の彼の岸には到達出来ない
(彼岸)のです結果的に墓の中や子孫の側に何時迄も居ることになるのです。

 多くの霊能者が犯す間違いとして、仏様(近親の仏)が貴方を守っておられるはいけません。子孫
を守る心は愛の心であっても、子孫に対する[未練]と判定される可能性があります。その仏は未だ
三途の川を渡っていないことになりかねません。
 子孫が可愛い気持ちは解りますが、一日も早く霊界へと旅立ちなさいと諭すのが本筋です。私事
ですが、私の肉体の父親は死んでから四十年間、私の前に一度も姿を現しませんでした。霊界で神
の位に上がって、やっとその姿を私に見せて来たほどです。

 第二が神霊界の命令の下に先祖守護霊として正式任務として就いている場合。一度は霊界に渡
り地獄界でも軽い段階で、ある程度の修行を霊界で終えた後に子孫の守りに就くような霊。副守護
霊とも呼ばれ、エンマ様の命令で子孫を導きながら自分も子孫と一緒に修業して浄化されて行く霊。
こうした先祖守護霊が先祖霊の墓を根拠地とする場合はあります。
 日本では、お塚信仰と呼ばれるものが存在します。石碑に信仰する神の名を彫り込んで信仰をす
る。これも、お墓信仰と同じこと。ただ、神霊達は塚の中で眠るのではなくお塚を根拠として活動をし
ているのです。道端のお地蔵さんにしても、そこには霊が宿っている場合が多いのです。しかし、そ
れが本当の神霊とは限らないから注意が必要となります。



キリスト教とイスラム教の構造的違い



 万物を創造したとされる神は日本では記紀神話に名を残すだけで、艮の状態で奉る神社もほとん
ど見あたりません。しかし、西洋では絶対的な唯一神として信仰されているわけです。されど、旧約
聖書から出たユダヤ教・キリスト教・イスラム教は教義を巡って血と血で争う状態にあります。旧約
聖書から出た三派は魂の論理を見落としたと言えるでしょう。
 キリスト教は美味なパンの教えでも耶蘇(八十)教で、九つ花の八十一の真ん中が抜けて良心神
が出られません。為に、イエス自身が主の神の御子の椅子に座っています。
 イエス自身は悪魔と戦っては来たでしょう。しかし、キリスト教徒が犯した全ての罪を一人で
償いきれるものではありません。そうした罪がイエスに重き十字架としてのしかかっていること
を、キリスト教徒は知るべきでしょう。

自分が蒔いた種は自分で刈り取る



振り子の範囲

 旧約聖書から出たユダヤ教、キリスト教、イ スラム教の三姉妹教に関してはあることが云 われています。ユダヤ教はあまりにも書かれ た文章の律法律法に硬直しており、人の心が まったくもって解っていない宗教。これがパレ スチナ問題にも出ているのです。
 そこで、イエスが律法よりも[愛]の大切さを 説来ました。しかし、キリスト教は自分が犯し た罪の償いを忘れ、イエス一人が主の御子と 信じればイエスが全ての罪を被る式の宗教に なってしまいました。あまりにも左に寄りすぎ たのです。これでは各自の魂の中の良心神 が出ない。出せないのです。
 この左路線を修正する為にマホメットが出た ら、今度は右(力と剣)に寄りすぎたとされま す。イスラム原理主義に走れば走るほど暴力 やテロ活動の容認になるのもその為です。
 人としての心を忘れ去って、何の罪も無い 人達の首を見せしめに切り落としたりする。そ れでは自分の中で良心神が消えて行きます。
人は言葉や肌の色は違っても、胸を開けば皆同じ
 胸の中の存在を忘れて教義で争う愚 

 大本教が発祥した頃、出口開祖が信徒に[道の真ん中を歩け]と教えたら、信徒達が往来の真 ん中をそこのけそこのけと歩いて、開祖は嘆いたと云われています。

道の真ん中とは[道理]
 左にも右にも寄らない中道路線。人の心には幅があります。極端に左や右に寄らなければ、道を 踏み外すことはないのです。


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