第九章・人類を唆す蛇霊

 キリスト教では、イエス一人だけが主の神の御子と信じれば天国に救われる
と説きます。イエスは神霊世界がこの世に出した非常に霊格が高い魂なので、
過信しても止む得ない面もあるでしょう。
  キリスト教が支配する西洋で生まれたならば、他教を勉強しない限りお釈迦
様の悟りに触れる機会などはないのです。その仏教ですら、今日まで違う存在
をお釈迦様の悟りだと思いこんでいました。
 もしもイエスがお釈迦様と同時期に出会っていれば、お釈迦様に弟子入りを
希望したでしょう。お釈迦様はイエスよりも遥かに霊格が高い神魂。
 問題は旧約聖書が告げた人類の祖であるアダムとイヴを唆した蛇にあるの
です。

人類の原罪=神の御国より追放

 私達は神の御国(みろく)の世に入るにあたり、人類の祖とされるアダムとイ
ブに囁いた蛇霊について知らなければならないのです 。
 無論、アダムとイヴは人類の祖ではないでしょう。

 だが、イエスはこの蛇霊に関して説けていないのではないでしょうか?。牧師
で人類の祖を唆したとされる蛇霊に関して説ける方があれば、その説教を聞き
たいものです。
 邪の道は蛇。日本語でないと意味が解けて来ないことです。
 幸い日本や東洋では蛇霊が神として祭られています。この蛇霊を見ていない
と、何も解らないし知らないのと同じことになるのです。



旧約聖書の唯一なる神の意味

 旧約聖書を母胎とする宗教には、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教が存在します。この三教は旧
約聖書を母胎とすることから三姉妹教と呼ばれていながら、常に異教徒を殺せの殺戮の歴史の中
に存在します。
 旧約聖書を見るならば、この神だけを唯一の神とせよとあります。ユダヤ教、キリスト教、イスラ
ム教は、この唯一なる神の意味が理解出来ていなかったのではないでしょうか?。
 唯一なる意味は、その反対に多数の神達があることを示しています。多数の神達の中で唯一
つの神だけを神として崇めよと云う意味は、旧約聖書から生まれた三姉妹教が云うところの唯一な
る神の意味とは明らかに違うと考えられます。
 創造神は永遠の神であって、九つ花の真ん中は永遠に変わらない数で八十一の言霊の中で
中心に[ラ]を当てます。私達の魂の中にある「良」心を意味する神の働きです。
 この良心神を唯一の神にせよであれば、誰にでも解りやすいわけです。宗教宗派を問わずに
全人類、全宇宙に存在する霊人の魂の中に種としてある神だからです。 

 西洋における神秘主義者の方達は、聖書の[終わりの日、人の子が雲に乗ってやって来る]
飛行機でやって来ることだと考えたりされていますが、

出雲の国の大国主命には、他に八十柱の兄弟神
八十柱の神達は嘘を出したが、大国主命は嘘を付かず
身の終わり(美濃尾張)頃、雲出る国の雲(出雲)の仕組みに乗って
人の子がやって来る(旧約聖書と九つ花を合体化させるならば)
人は誰でも、神は[誠や正義]の権化だと思いたい。正直の良心
蛇や狐の神に、誠や正義を意味する良心があるとは誰も思わない

誠と正義の良心は、人の心の中にしか存在しない
汝の魂の中の良心を、唯一なる神の現れとして崇めなさい



絶対なる神と諸々の神

 西洋では絶対なる神、創造神信仰が行われています。だが、ユダヤ教やキリスト教徒やイスラム
教徒がその絶対なる神を見ることがあるかとなると、誰も見てはいない可能性があります。
 一方、東洋の仏教やヒンズー教は多神教の世界。諸々の神達が活躍されています。しかし、諸天
の神は説かれても、絶対なる神の存在が説かれてはいません。阿弥陀如来とか大日如来が説かれ
ても、それは絶対神の化相にしか過ぎないわけです。
 日本の神々も絶対なる神は[国常立尊]様であるとまでは云われても、神々もその存在を見ないの
でしょう。無論、大本教で艮金神・国常立尊様が世に宣伝されましたが、絶対なる神そのものは
大本教からも出現していないされています。その系譜の神の段階とされます。絶対なる神の働き
は、私達の魂の核となる良心神を通じてしか感じることは出来ないのです。

  人は魂を磨けば、神としての位に上がることが出来る
  神とは[上]、一つの道を極めた人は上(神)たる立場
  神とは[守]、多くの人を助けた人は守(神)たる立場

 そうした神々と、森羅万象ことごとく創った絶対なる神とを同じ神の土俵で論じるわけには行
かないでしょう。日本人の大多数の人が信仰しているのはその道を極めた人の霊や、あるいは自
分を助けてくれる守りの神霊。弘法大師信仰にしても守(神)たる立場の方。
 絶対神はイスラム教の様に神は偉大なりと叫ぶ信仰をする神ではないはずです。大事なことは、
人はその絶対神から神の御子たる良心神を自分の魂の核に受けていることを知ることにある
のではないでしょうか?。人は神の子・神の宮。



八百萬の神々と神名機関説

 この日本では神々を称して八百萬(やおよろず)の神々がおられるとします。日本国中に御神霊を
祭る神社は無数に存在します。しかし、神名となるとそれほど数は多くはないのです。同じ神名の神
霊を祭る神社が多数存在するわけです。
 では、それらの神社の同一名神霊は同一神であるかとなった時、同一の神であり、同一の神では
ないのです。このことがよく解っていないと神霊界の仕組みが解らなくなります。

 例えで話をすると、貴方が電器商で日本一の電機メーカーの松下産業と取引をするとして、最初
に貴方に対応してくれるのは営業所の平社員。貴方との取引量が拡大して行くと、貴方の対応者は
係長、課長、部長、本部長になり、やがては重役や社長に直接会うことになるかもしれません。しか
し、対応者が平社員であろうと社長であろうと、貴方は松下と呼ぶ名の会社と取引をしているとしか
考えないはずです。松下の名が全責任を負うのです。
 霊能者にとって非常に重要なことは、○○大神と名乗る組織の平の神と話をしているのか、組
織のトップの神と話をしているかで大きな違いが出ることです。すなわち、御神名とは神霊集団
の組織名を指しているのです。
 為に八百万(萬)の神々がおられるとしても、神名は組織名で数は多くないのです。霊界は同じ想
い(思い)を持つ者が一つの国(界)を創っていると云われるように、心の世界(霊界)は異質の心の
者を受け容れられません。善の国では悪人を受け容れられないのです。
 優れた霊能者が神の段階を位で表す時、同じ御神名であっても、その神界の一合目の神、二合
目の神と云う言い方をされる時があります。

 トップは高山の十合目。頂点は一柱の神

 大会社で云えば、平社員、係長、課長、部長等の数は多くても、社長はたった一人しかいない
と同じこと。平の神と接していると、他の平の神は貴方を知らないと云うでしょう。
 大本教で出現した国常立尊とは、国常立尊と名乗ることが出来る御神霊であっても、頂点に立つ
神そのものではなかったとされます。未だ、人類は創造神と呼ばれる神の現出を見てはいない
のです。大本教からは予告がなされたのです。



根元(こんげん)の神と枝葉の神

 大本教神諭には、あることが書かれています。枝葉の神ばかりが栄えて、幹を枯らして何とす る。多くの人が信仰している神の教えとは枝葉の部分。お題目を上げれば良いとか、朝の早起き をすれば良いと云う宗教等、これらは枝葉の教えにしかすぎないわけです。誰が考えても命の 元(艮元が枯れれば、枝葉の神も滅びるのです。
 大本教神諭に、天理教の先走りとあります。天の
理はミキ(幹)になるからです。天理教の開祖、中
ミキは四十一歳から神の御台(社)。
 大本教神諭予告、九つ花に咲く一輪の言霊の経
綸。大本教霊界物語の美濃尾張の国より現れる女
子にて、イエスが云った、身の終わりの時は高山
に上りなさい。
 これらは天の理であり、真柱神を説いたのです。
天理教の教祖たる者が真柱の神ではなく、真柱と
なる神はイスラム世界で云う[ラ]ーの神。ラーは
太陽神(本当の天照大神)でもあるのです。
 優れた行者も天狗になっていると、樹の根元の
神を見落としてしまうことになるのです。
 大本教神諭予告、九つ花に咲く一輪の言霊の経
綸、想像を絶する神が仕組んだわけです。
艮は根元の神
天理が幹となる




蛇や狐は神と成れるのに人は?

 日本では蛇霊や狐霊が神として祭られて、現世御利益信仰の中心となっています。現世御利益を
求める信仰の豆人達が神様から現世御利益を貰おう、病気治しをして貰おうとセッセセッセと参拝を
しておられます。
 私は前の稿で、ある悪党の言葉を紹介しました。人は死ねば終わりだから悪いことをしなければ
損をする。神は人間が困って助けてくれと頼んだ時にだけ人を助けてくれればよいのだ。
 この日本では蛇霊や狐霊が神として崇められて、現世御利益や病気治しで大活躍をしておら
れます。悪党も神霊が存在することを否定したのではなく、自分は蛇や狐ではない。人だから死ね
ば終わりだと思いこんでいるのです。

  蛇や狐の神=現世御利益
  主の神=心の真柱神(心の立替)

 この蛇や狐の神に関して、ほとんどの霊能者は蛇霊や狐霊を眷属としている神で、蛇や狐の霊で
はなく人の霊だと云います。一部の宗教団体では、蛇神や狐神は蛇霊や狐霊を管理する光の天使
と称しておられる団体もあります。
 確かに、こうした蛇や狐の神を霊視すると人の姿の神霊。ところが、その人の姿の神霊をさらに透
視して行くと、そこに見えて来るのはやはり蛇や狐の姿。人の姿であるべき神霊が蛇や狐の姿に
変わっているのです。こうしたことは、私だけでなく優れた霊能者の方ならば云うでしょう。
 私は、何故に人たる神々が蛇や狐の姿に[身変える]のか?。神の命(御言)は言葉であり、
蛇や狐の神達には神たるべきものが出す言葉に対する[良]心が存在していない。それが身変え
るを起こさせている原因と考えました。

 今日までの日本の宗教界は、蛇や狐は神として崇められているのに、何故に人は神には成
れないのか?。何一つ追求して来なかったのです。いくら眷属と云えども、神の眷属と成る者が
蛇や狐だらけ。どう考えてもおかしいのです。何故なのか?。そうした疑問を持つこと自体をしていな
いわけです。



己(自分)と巳(蛇)の違いは?

 自分(己)と蛇(巳)とではどう違うのでしょうか?。どちらも[おのれ]の部。
 旧約聖書、人類の祖とされるアダムとイヴに囁いて一緒に絵伝の園(神の御国)を追放された蛇。
人類は全てこの[蛇]霊を保有しているのです。この蛇霊を帰さない限り、私達人類が神の御
国(真の天国)に戻れることなどはあり得ません。自分の中に[蛇(邪)]心を持っているを知りなさ
い。

 私達は蛇と云った時、何をイメージ(想像)するでしょうか?。
@ 執念、陰険、陰湿、冷酷、嫉妬、見栄、過度の欲望。これらが権力・色情・悪智恵などと結びつく
    と蛇化します。
A 権力(地位や金銭)。権力は長いものには巻かれろの蛇、蛇神信仰で金運財運が得られるのは
    周知の事実。
B 色情・色欲。結婚している人ばかりを好きになる。次から次えと異性を変える。何度結婚しても、
    どうしょうもない異性との結婚になる等は色情の因縁。多くの犯罪に男女の色情(情愛)が絡
    んでいるのです。色情の蛇が付くのです。
C 悪智恵。策謀。詐欺。悪いことをする者は智恵が回ります。蛇は智恵の働きを受け持っている
    のでする。他の者がしているから自分も悪を犯す。これらは蛇霊の囁き。自分の心からでなく
    脳裏が損だよと囁くのです。 

  人は、誰も蛇(悪)霊の囁く声を聞いているはず
  蛇は神が示した倫語(倫理や道徳)を食い散らかす
 お釈迦様は何故に根本道場を造られたのか?。俗世に身を置けば、こうした[蛇の性]からは
簡単には抜けきれません。人里離れた山深い場所に道場を造り、異性と離して修行をさせる。そう
したことで[蛇の性]からの脱却を計られたのでしょう。
 お釈迦様はアダムとイヴの話を御存知ない時代で、大衆に蛇性を教えるのは難しかったでしょう。
しかし、蛇に成った長者の説話で解るように、違う形で説法はされているのです。



神と崇められても、蛇の身で喜ぶ蛇神なし

 日本の霊場に参拝すると、信仰の豆人達が御神霊から現世御利益貰おうとセッセセッセと参拝を
されているわけです。特に蛇神信仰は財運(金運)の授けを意味します。しかし、信仰の豆人達は霊
場等に響き渡る蛇の泣き声を知らず。
 いくら、神と崇められても蛇の身と化した自分を嬉しいと思う神など無いのです。

釈迦の説法、蛇に成った長者
 
 お釈迦様の説法の中に、蛇に成った長者があります。金、金、金。金の亡者と成った長者。死後
の世界で蛇の身と化してしまった。蛇の身に墜ちて生前の生き方を悔いて、自分の全財産を釈迦の
前世である修業僧に託した話。
 人は誰でも油断すると死後の世界で蛇霊と化す可能性が強いのです。金だけでなく、権力志
向の策謀、執着心、怨念、過度の色欲、こうした想念は魂を蛇化させます。蛇神とは、人で在った者
の心(魂)が蛇化したのです。

虫でも無いのに虫が付く蛇
 
 蛇の字は不思議な字です。虫でも無いのに虫が付く。これは、魂の真ん中(中心)を走る心棒
を[無視]したの虫。蛇では真っ直ぐには進めません。蛇行して直立の[舵]が取れない意味。それ
で、舵の[它]と虫の組合せになるわけです。

    蛇行では、真っ直ぐ(正直)の舵が取れない
    蛇神でも後悔が出来た時、蛇が直立をする

 現実世界で蛇が直立をする不思議な光景、見逃してしまうと[舵]の字が見えて来ません。
陀の[它]。



宗教の世界に蔓延る邪教

 私は精神医が霊界否定論に走る理由が解らないわけではありません。残念ながら宗教界の一部
には、本当の霊能者でもない者を霊能者に仕立て上げて、ニセ霊能者が水子霊の祟りだ。御先祖
霊様が霊界で苦しんでおられるなどと嘘八百並べて、高価な印鑑や壺を売りつける詐欺まがいのイ
ンチキ宗教団体が存在するからです。
 霊の世界は特異な能力を持った霊能者以外には見えないことから、何の霊能力も持たない者を霊
能者に仕立て上げて、人を騙すことが可能となっています。そうした宗教団体があるからと云って、
霊界全面否定論に走るのでは真実を覆い隠すことにもなるでしょう。

 俗に仏の声が聞こえた者は千人に一人。神の声が聞こえた者は万人に一人出るとされてい
ます。そうした者が万人修行しても、本物と呼ばれる者は一人しか育たないと云われるほど難
しい世界。本当の霊能力があっても、魔界に魅入られて邪教に走っている霊能宗教者達もあるわ
けです。その霊能宗教者を教祖として、多くの人が信仰しているのです。
 また、霊の世界は階段状の世界の為に、霊能者の背後にある守護神・守護霊の霊格が高くない
と、何もかも見通せるものではありません。
 一時期、テレビの特番で大活躍された今は亡き某霊能者。貴方のおじいさんがおばあさんが飼い
犬が飼い猫がこう云っているで、下級霊界の霊には滅法強くても、上級霊界のことは何も解って
おられないがあったように、霊能者と呼ばれる者でも万能ではないのです。
 逆に低級霊界に関われば関わるほど、昨日は何を食べただろう。競馬でどの馬が一着を取る。ど
んな女と付き合っているだろう等と、どうでもよいようなことは嘘みたいにズバズバと当てるのです。
いくら金儲けをさせてくれても、人間性を疑うような教祖様も居られます。まず、教祖の言動を見て
正しい神か間違った神かを見ればよいのです。
貴方が信じる教団の教祖様、良心や誠や正義に愛善の教えだろうか?



蛇霊とは、よこしま(邪)な心の霊

 旧約聖書、人類の祖とされるアダムとイヴに囁いた蛇霊とは、邪(よこしま)の心のこと。その
邪の心が蛇の姿を取るのです。大本教霊界物語の中で神の宣伝使達が大蛇霊に言向け(正しい
諭し)をしたならば、自分が間違っていたと悟った大蛇霊が元の人の姿に戻って行くとあるように、
正しい心、真っ直ぐな心を取れない霊達の姿が蛇霊。

 私は神霊界で修業をしていて、蛇神達の云う言葉を聞いていると、どうしてそんな考え方をするの
かさっぱり解りませんでした。どうしてこれほど執着心を持つのか?、地位や名誉で自分を着飾って
も何の意味もない。そんなに権力は大事なのだろうか?。金銀財宝を身に付けていないと自分の価
値が見いだせないのだろうか?。私には理解出来ないことだらけでした。私は蛇とは屁にもならな
いことに美を感じている屁美達かと考えたほどです。
 旧約聖書においてモーゼはエジプトの神官と蛇の投げ合いをします。どちらの蛇が杖のように真
っ直ぐな棒になるかで、どちらがより高い神格の神なのかを競ったわけです。
 私は蛇が棒(杖)の様に直立した後、蛇を使っていた神霊が涙を流されて悔い改められて、お礼の
言葉とともに天上界にと旅だって行かれる様に接しました。神霊が真っ直ぐな心になられた。蛇霊
は、その心が真っ直ぐではないことを教えているのです。

 人には人の魂の中で眠る蛇が居ます。私達の魂の中には誰でも正しいことをする良心神と邪
の心の蛇が同居しているのです。
 自分は邪心を一度も持ったことが無いなどと断言出来る人などあり得ないのです。真っ直ぐの道
(良心の道)を行くのか?。曲がった道(邪道)を行くのか?。そのどちらかです。 

邪(ジャ)心の道は、蛇(ジャ)心の道

蛇霊と化しても、我が身を振り返る神霊少なし



人類の原罪、人に蛇霊の囁き

 私達日本人の大多数は私も含めて仏教徒。しかし、旧約聖書における人類の祖であるアダムとイ
ヴに囁いた蛇の話はキリスト教徒でなくても人類の原罪として知ります。俗に、人は蛇の様に賢くあ
れと言います。聖書の研究家であれば蛇は智恵の象徴であり、悪霊の象徴とも知るのです。

 私は神霊界で修行中、木曽御岳の伊邪那岐尊と名乗る神霊から吉野山の脳天大神の元に参拝
せよと命じられて脳天大神の元に参拝すると、そこには大きな蛇の張りぼてが飾られていました。
吉野山では蛇が脳天大神として祭られていたのです。エジプトにおける太陽神のラー信仰。それも、
その頭上(脳天)には蛇が描かれています。
 世の中には純真無垢のままの人達が居ます。悪には汚れていない。だが、そうした人達は施設の
中で暮らしていたりするわけです。申し訳ない言葉ですが、世間を生き抜く為の智恵が他の人達より
少ないのです。しかし、魂は美しい方もあるのです。
 人類は神と同様ではないにしてもそれなりの智恵を得ました。その代償に邪(蛇)心も受け取った
のです。

悪を知らない天人では、本当の天人とは言えない
あらゆる邪悪の心に打ち勝ってこそ、本当の天人
 
 自分はこの世で今日まで何一つ悪事には手を出さず真面目に働いて来ましたと云われて、その
魂見るならば。確かに、その人は真面目に暮らして来た。その魂を地獄に落とす理由はどこにも無
い。しかし、その魂は大きいかとなると意外に小さな魂だったりするのです。
 一方、自分は悪いことを一杯して来た。悪の頭領と呼ばれたこともある。あゝ、自分は何と悪いこと
ばかりして来たのか!。これからは悔い改めて世の為に人の為にと尽くします。こうした魂は大
きいのです。深い経験を積んでいるのです。

何故、主は今日まで蛇霊の活動を許されたのか?
魂が蛇(邪)に打ち勝つには、それなりの時が必要
最後の審判は、巳(蛇)帰る(ミカエル)を起こす


長い物(権力と呼ぶ蛇)には巻かれろ

 日本には[諺]と呼ばれる言葉による教えが存在します。そうした中に長い物には巻かれろの教え
があります。この長い物とは権力のことであっても、蛇の意味でもあるのです。
 人は権力を獲る為には、あらりあらゆる裏切りや策謀を図ります。政治は誠や正義の良心だ等と
言っていれば、絶対に権力の座には就けないわけです。蛇神と呼ばれる存在は非常に力が強い
のです。それは権力の持ち主だからです。権力の座に縛られてしまうと蛇霊化をするのです。

 一部の新興宗教において、怨念や執念の蛇霊に憑依された人達の霊障を取ってくれます。そうし
た新興宗教の御祭神の御神名は、こりゃ何じゃと言うような御神名の場合が多いのですが、これら
は権力の蛇霊。小さな蛇霊は権力を保持した大きな蛇霊の元に引き出されたならば、否応なく憑依
している者から引き離されてしまうわけです。
 蛇神達と話をしていると、助けて欲しいと願って来ている者達を救ってやってどこが悪い。その御
礼に御神酒とお金を頂いてどこが悪いと云う話し方をされます。どこかで聞いたようなセリフ。政治家
が常に出す言葉。何々を斡旋してやって政治献金を貰う。いったいそれのどこが悪いと同じこと。

世の為人の為に尽くすのか?、金儲けの為なのか?

 蛇神が霊障で困っている者達を救って御神酒や御礼を頂く、それ自体は正当な行為でしょう。医者
にかかってもお金はかかるのです。神様だからタダでよいはないのです。
 問題は、貴方は自分は蛇神だと神霊の御代をする霊能者や信徒達に告げているのかと聞き
たいのです。天の最高神ならば、はっきりと国常立尊とか天之御中主と云えばよいことです。ニセ
者であれば、後で天の神名詐称罪で罰せられることになるでしょう。
 霊能者と呼ばれる方達の中には、巳さん(蛇霊)がこう言っておられます。狐さんはこう言っておら
れますと、自分がお伺いを立てている神霊が蛇霊や狐霊であることをはっきりと相談者に告げ
て言われる方があります。
 私も蛇神や狐神の御台をするのであれば、私の御祭神は蛇様神です狐様神ですとはっきりと伝え
ます。自分が困っている時に助けてくれたのが蛇神や狐神であっても、助けて貰えれば誰でも感謝
も御礼もするでしょう。



八岐のオロチ(遠呂智)

 日本の神話でもっとも有名なのは天の岩戸開け。その天の岩戸開けと並ぶのが天照大御神の弟
君の素戔嗚尊の八岐大蛇(ヤマタノオロチ)退治の話。この八岐大蛇は身は一つで頭は八つもある
大蛇(オロチ)で[遠呂智]とも書きます。
 そうしたことから、大蛇(オロチ)とは遠い天から降りた智恵(降ろ智)ではないかとも云われて
来ました。

大蛇(遠呂智)=神の知恵
 イエスはその弟子達に、蛇の様に賢くあれと説いたと聞きます。蛇が意味する事は知恵なので
す。しかし、知恵は事の善悪を判断するものではないのです。
 善悪の判断とは、私達の心(魂)の良心が判断するものだからです。いかに知恵が優れた知恵者
でも、邪悪な人達は存在します。
 詐欺師は、知恵が無ければ詐欺師にもなれないでしょう。

 この知恵を意味する蛇が良心たる魂の心棒に巻き付くと、良心神の働きは止まります。

人の思いの根元は、脳なのか?
心なのか?
知恵だけでは、良心神は解らない




神(エデン)の園から、蛇と一緒に追放された人類
人類はその代償として、神に等しき知恵を得た
「巳(蛇)帰る」にて、人は神(エデン)の園にと戻る

 日本では天皇である御徴として三種の神器が云われます。一つはこの八岐大蛇が飲み込んでい
た刀。この八岐大蛇から取り出された剣がアマノムラムクモ(天叢雲)の剣。後に日本武尊が持って
東征の時に草を薙ぎって難を逃れたことから[草薙]の剣と呼ばれるようになったもの。次に神鏡。そ
して勾玉(曲玉)。

大蛇(オロチ)が飲み込んでいた神の剣とは?

 人の魂の中心棒に巻き付く蛇霊。魂の中心棒(良心神)を飲み込もう飲み込もうとするのです。良
心神の働きは魂の心棒で蛇霊に飲み込まれてしまったならば、もはやそれは蛇霊の子。

知恵に良心はなく、魂に良心がある

 いくら頭が賢くても、良心を持たなければ蛇(知恵)に犯されます。知恵は損得勘定をしてしまう。
蛇の性(サガ)を持って生まれ出て来る人もあるのです。

  良心棒(神)とは、天の神が授けた正義の剣
  魂の(カルマ)をる天の(業取)剣

 日本の神話の中に出て来るような神々が持つ神の刀、悪で汚れている魂の汚れた部分や腐っ
た部分を削ぐ刀。身削ぎの為の神の剣。
 魂が犯した悪行や汚れは自分で直したり祓わないと、神が魂の汚れた部分を削って行くと魂は小
さくなってしまうのです。最後の手段として振るえるのが神の剣。
 イスラム教のマホメットは、神の剣の意味が解っていなかったのでしょう。剣は異教徒を従える為
のものではないのです。



最後の審判、蛇の尾を踏むミカエル

 キリスト教では、イエスを主の一人御子と信じる者だけは救われるが、異教徒は地獄に墜ちる式
の説法をされます。自分が犯した罪は全てイエスが被ってくれる。それでは、どこにも良心神論
は出て来ません。イエス一人に自分が犯した罪を被せてこと済むと云うのであれば、良心など無い
者と同じことです。

自分が犯した罪は自分で刈り取るのが、良心神がある者

 キリスト教においては、人類の原罪(蛇の囁きに惑わされた人類の罪)はイエス以外には償えない
としました。旧約聖書を見るならば、悪神とか悪霊の存在が語られます。これらは蛇霊のこと。しか
し、イエスがどこまで蛇霊のことが解っていたのかとなると、はなはだ疑問が残るわけです。

邪(ジャ)の道は蛇(ジャ)

 旧約聖書が予告した天の御使いはイエスではなく、最後の審判で蛇の尾を踏む天使長[ミカ
エル]のはずです。この[ミカエル]に関して、大本教の出口王仁三郎聖師は[省みる]の意味だと
しました。反省の省みる心のことであっても、

(蛇)帰る[ミカエル]
 私が体験したのはヒンズー教のヴェーダ典、
人の中に眠るコブラ(蛇)が目覚めて走り上がる時、人は真理に目覚める。で、巳(蛇)が帰る
 
真理は人の中にあるマリ(真理)たる魂の中に秘められていた。
巳(蛇)帰るで真理が出るでしょう。



龍と蛇の違い

 日本における信仰の形態は、霊的に見ると大きなところでは蛇神信仰か狐神信仰のどちらかに分
かれるされます。そうした時、どこに蛇神信仰が見られるのかと疑問を持つ人があるかも知れませ
ん。一般的に龍神信仰と呼ばれているものが蛇神信仰。
 日本の霊能者100人に龍神とは何かと尋ねるならば、100人中の97人ほどの方は蛇霊が海、
山、川で各千年間。合計三千年間もの修業を積んで龍と化したと答えられるでしょう。残り3人ほど
の霊能者は、龍神と呼ばれる存在のほとんどは三千年の時を経た蛇霊のことだが、そうではない龍
もあると言われるでしょう。
 旧約聖書においても、龍とは霊界で年老いた蛇霊と記載します。大蛇も大蛇。私達が知る大蛇
とは桁違いの巨大な霊界の老いた蛇霊を一般的に龍神と呼んでいるのです。日本における中華街
の大蛇祭りは龍の姿。
 しかし、龍は三千年の修業を積んだ蛇霊だと云うのであれば、どこまで行ってもしょせん蛇でしか
ないでしょう。

もしも、龍が蛇ならば
十二支で、龍(辰)と蛇(巳)に分ける必要はない
龍神とは[流]神。エネルギーの姿が龍形

 万物を動かす流力、そうしたエネルギー(動)を称して流()神と呼ぶのです。龍=辰の意
味。
 霊界の年老いた蛇霊を龍神と混同するようになったのは、霊界での年月を経て巨大な力を持った
ことから本来の流神と同じ様な姿を取るようになった。その見分けが難しいからでしょう。
 一部の新興宗教団体においては奇跡の数々を発動させられます。その背後には巨大な霊界の年
老いた蛇霊が見られるのです。こうした宗教を蛇(邪)教と云いいます。奇跡という魔法を使うわ
けです。
 こうした龍神を相手にしますと、霊能者と云えども命を取られてしまいかねません。神霊世界にお
ける正義と邪悪の闘いは、人々が思っているほど簡単でも生易しいものではないのです。どこにも
正義や誠の神の姿が見えない?。
 否、言葉の仕組みに[誠]の神の教えは出ているのです。



世の中を動かす流(龍)神


 大本教の出口王仁三郎聖師は、霊界物語の中で人々が信仰している龍神は蛇霊だと指摘しなが
ら、天津神達のことも龍神と云いました。龍と蛇は分けて考えなければ行けないのです。

地震を起こすエネルギー震動の辰(龍)
世の中を動かす力の源は龍神界にある

 誰でも解ることに、世の中には大きな流れがあります。その流れが悪い方向に走っている時、そ
の流れを止めようとしても止まるものではありません。世の中の動きに人は流されるが起きます。
その世の中の流れを引っ張るのが龍神達。
 その龍神界には、大別すると正(善)神とされる白龍神界と悪(邪)神とされる黒龍神界がありま
す。無論その他にも金龍、銀龍、青龍等が云われます。世に戦争等が起きる時は黒龍神と呼ばれ
る存在が暴れるとされます。大洪水を引き起こす黒雲の正体も黒龍神。竜巻も黒龍神。すべて汚れ
の邪のエネルギー。一瞬にし黒雲は発生するのです。

旧約聖書、神は言葉(御言)で万物を創られた
万物に[命]を運んだ存在が神で、妊娠に

 大本教の出口王仁三郎聖師は、これまでの宗教が何も教えて来なかった言霊と呼ばれる存在
を説いたのは、それが神の世界における大元となるものだからです。そして、万物の創造主の
言霊の働き自身も龍神。
 御経やお題目さえ上げていれば幸せが来ると説く宗教は、言霊が何であるかを知らないで説いて
いるわけです。その前に言霊とは何かを説いておかなければならないのです。



創造神は言葉で万物を創られた!

日本神道で、龍神とは宇宙根元霊神の[息]吹きと云う
 宗教の世界において、龍神と呼ばれて来た存在が霊界で年老いた蛇霊であることは旧約聖書や
霊能者と呼ばれる存在が指摘するように間違いではありません。蛇霊によって本当の龍(流)神の
姿が消されてしまったのです。
 私達が何気なく使っている言葉。その言葉の一つ一つを構成する言霊も、やはり龍神。山に向か
ってヤッホーと叫べば返って来るコダマ。コダマの姿を霊視すれば、これも龍(流)神。コダマは木霊
(コダマ)では無いのです。コトダマ(言霊)の[ト]が抜けてコダマか、声霊(コエダマ)の[エ]が抜け
てコダマになったと思われます。
 声高らかに御経を上げる。それも、龍を発生させるわけです。古来より、言霊には不思議な力が宿
ると信じられて来ました。汚い言葉を使うと汚れた龍を産み出し、美しい言葉を使うと美しい龍を産
むわけです。
 宗教家や行者と呼ばれる存在が、必死に祈り続けて雨を降らせたなどの奇跡は言霊が龍
(流)を動かすわけです。大本教の出口王仁三郎聖師などは、言霊の大家だったと言えます。ま
た。イエスしかりでしょう。
 森羅万象を創ったのは龍の働き。宇宙根元霊神たる神の息吹が、すべての命を宿らせたの
です。この命(ミコト)を運んだ存在を私達は[神は言葉なりき]の御言(ミコト)と言ったわけで
す。すなわち、大宇宙根元霊神の息吹。

 そして私達の命の中には、当然に主の息(自らの心)が含まれているのです。これを主の一人息
子と言います。
 ラ神論の人に内在する良心神。大本教が[人は神の子・神の宮]と宣伝したのは、人の命にはこ
の主の一人息子と呼ぶ息の子(息子)たる存在が入るからで、キリスト教の様なイエス一人だけが
主の御子などの説はあり得ないことなのです。
 それとも、自分の良心神を捨てて、六六六を[大国常立尊]と考えずに悪魔の徴にするか?です。


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