第十一章、森羅万象悉(ことごと)く

 西洋のキリスト教・イスラム教・ユダヤ教は教義に誤りがあるとしても、まがり
なりにも森羅万象悉く創られたであろう創造神のみを神と崇めています。
 ところが、日本では万物の創造神は記紀神話に名を残すだけで、鬼門の金
神・艮金神として節分の煎り豆で追われるだけの神となってしまいました。
 この鬼たる国常立尊様が森羅万象悉(ことごと)く創られた創造神であるの証
明は、どのようにすれば出来るのでしょうか?。

 それは森羅万象「悉」くの神ですから、[米の心]を説くことにあります。

米の心(ことごと)く

 そして、この[米]の字でない限り、最後の審判は行えませんし、人類を救うこ
とも出来ないのです。
 私は魂の中の核芯たる良心神を[ラ]神論で説いています。しかし、魂の中に
存在していても良心神の働きを出さなければ何の意味もなさないのです。
 そして、この米の字の教えで人類が待ち望んだ神の御国(みろくの世)に入る
ことが出来るのです。

大本教は艮金神を国祖大神と宣伝をした
日本は瑞穂(米)の国



明治五十五年か?、五月五日か?

 明治二十五年丹波の片田舎綾部で発祥した大本教は、明治五十五年に世の大立替が起きると
大宣伝をしました。ところが明治五十五年(大正十一年)は何事もなく通過したのです。起きたの
は大正十年に第一次大本教弾圧事件。当然、大本教は嘘つきだで信徒数を減らしました。
 この明治五十五年世の大立替説の根拠となった神諭は、明治37年旧7月17日の大本教神諭の
【明治五十五年の三月三日、五月五日はに結構な日であるから】の部分。では、大本教はこ
の明治五十五年説をどう処理したのでしょうか?。別に何の処理もしていないのです。大本教がし
たのは三月三日に催していたみろく大祭を五月五日に変更した程度。三月三日は桃の節句で雛人
形。

五月五日は粽(米の宗)の節句


 朝鮮に残る予言に、天がする最後の審判前、救世の為に[米]の字の教えが起きる。この教え
が人々に行き渡ったならば最後の審判が実施される。米の字の教えに従った者達は天の御国
に救われるが、従わなかった者達の上には大いなる天の罰が下る。というものがあります。
 そこで、大本教霊界物語の身の終わり(美濃尾張)の国の中から現れる女子(第41位のラ神
論)で、米の字で救世の為の教えが出せるかどうかです?。

 誰が考えても、米一字に神の教えがある等は思えない
 しかし、葉でを行かなければってしまう

私は全ての人が神の御国に渡って欲しいと願って、こうした謎を解いて来ました。
五十五の意味は[米]の字にあるのです。
大本教が出した[]の記号には、米の量を計る意味があるのです。



米教は、他(田)を救(鋤く)いて世根(米)となれ

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 九の魔王陣(九つ花)は、どの縦の列も横の列
も斜めも総和は[三六九]ではあるのですが、真ん
中の四十一(ラ)を経由する三六九だけは[米]
の仕組みになります。良心がない三六九は除外。
 これが、大本教の五月五日の粽(米の宗教)
節句にて[三六九]大祭であり、最後の審判前の
救世の為の最後の教と呼ばれるものなのです。
 米の型の教えなので、飯屋(めしや)の教え。大
本教神諭、煮ても焼いても引き裂いてもビクともな
らん。
 お米ならば、煮ても焼いても引き裂いてもビク
ともしません。三六九(みろく)の仕組みでお釈迦
様の悟り(真髄)も得られたはずです。
 米の教義は、他の者を救って世の根で生きない
(犠牲心を持った羊の言葉の善)。良心を持って善
行を積みなさい。実に簡単な教えなのですが、そ
れが出来ていない人が多いのです。

    お米の型で飯屋(メシヤ)の教え(旧約聖書は、主は幕の内)
    シャリ(飯)には釈迦の骨(悟り)が入れてある
注意、お釈迦様の骨は舎利(シャリ)、米飯のことも[シャリ]と云います。若い人は日本語を知らなさすぎるので注意。



十里(鳥)で八根(羽)を持ちなさい

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 マホメット(ムハンマド)にイスラム教を開かせたのはガブ リエルと呼ばれる旧約聖書の世界では大天使と呼ばれて いる者です。西洋で云うガブリエルは背中に白い巨大な 翼を持っています。本当の天の神の御使いならば、そうし た翼は持たないのです。
 何故ならば、霊界の上下運動は翼で飛ぶ様な世界では なく、瞬間移動の世界。宇宙的霊界を進むのに翼を持て ば邪魔になるだけです。
天の御教えは、とりではねをもて  
 通常は鳥の姿で羽根を持つことだと解釈してしまいます が、それは鳥(取り)違い。綾部の殿様九鬼氏は元は鳥 羽水軍でも鳥ではなく、大本教神諭は○○□□十里(ト リ)四方外囲い(一条通り〜十条通り)早く気がつかな いと足元からトリが立つ。

最後の舞台を勤める終焉の[トリ]は、翼の羽が異なっている
九つ花、神ラーから八方に広がる米型の八根(羽)
この形態を米型で[精]神と言う

 大本教神諭、この神は病気治しの神でなく、心の立て替え・立て直しの神(精神)。良(ラ)心神
が備わっていないと、とんでもない精神の持ち主となります。人々の中にある精神は、まだ青い米で
実りきっていないわけです。実れば[米]の刈り入れ時。

 大本教神諭、種蒔きて苗が立ちたら出て行くぞよ。刈り込みになりたら、手柄をさして元へ戻
すぞよ(明治37年旧8月10日)。お米の種を播いたのです。



人の心臓は田の字型の四室

米教の田は、人の心臓の型

 私は、米教は他を救いて世根と成れと説いています。この世根となる[米]はどこで育てるのかと
言いますと、人の心臓は4室の田の字型。この[田]から発する[心]を[思]と云うのです。自分
の胸(六根)の中で米の神(精神)は育てるのです。

宗(六根)教とは、人の胸(心の臓)に宿る存在を教える

 自分は仏陀の生まれ変わりだと称している教祖が率いる新興宗教の中には、魂は脳に宿ってい
るなどと説く珍なる宗教団体があります。宗教と言う宗(むね)の意味すら解ってはいないし、みろ
く菩薩すら無視しています。胸の中に何があるのか?。心の存在を説かずして宗(胸)教とは言えな
いのです。
 一度、蛇(邪)教の教えにはまってしまいますと、そこから抜けることは容易ではありません。
理性そのものが飛んで行くのです。正しいとか間違っているの判断すら出来なくなってしまうので
す。完全に視野が狭くなり、そこしか見えなくなります。他人の忠告や意見を聞くのではなく、何が何
でも反論で打ち破ろうとするだけ。ところが、ほとんど理論にはなっていないのです。

良心神が米型に輝くと、心棒に巻き付く蛇霊が帰る

 人類の祖とされるアダムとイヴに囁いた蛇。魂の中の心棒に巻き付こうとすします。巻き付か
れてしまうと精神が異常を起こします。脳ではなく、魂の世界で起こるのです。その時、魂の心棒が
米型に光輝くと蛇は帰って行きます。これが、米の字の教えは最後の審判前の救世の為の教え
とされるもので、蛇の尾を踏むミカエルの巳(蛇)帰るとなるのです。



哲学で精神を思惟と云う

 大本教の節分の煎り豆に花が咲くは、玉型の思惟(魂)に良心神を真柱として[米]型に展開させ
ることにあります。それが、精なる神の宿りの精神。
 大本教神諭、人には神とも成れる魂が宿っているにも関わらず。

      日本人は、性を精神と呼んで来た
      精神は脳にあるのではなく、魂の中にある 

 人の死が脳死であるか心臓停止にあるのかの議論になった時、某大新聞の宗教記者はこの問題
の宗教界の答えを大本教三代目教祖アサノ(直日)に求めて、取材を申し込みました。今では信徒
数は少ないと云え、宗教理論においては大本教は宗教界の頂点となる教団とその記者は思ってい
たのです。
 だが、大本教三代目教祖はこの問題に対して何の返事も出来ませんでした。その新聞記者は、
天下の大本教が答えられないのかと落胆をしました。魂の存在が解っていないと解答は難しいので
す。大本教が脳死か心停止かの解答を出すまでには相当の月日を必要としました。
 医学者や科学者は人の肉体が持つ知覚とか感覚は全て脳が支配していると考えます。しかし、哲
学においては知覚とか感覚以外の認識(分析とか判断力)は精神が受け持っいるとし、この精
神を思惟と云います。この思惟が玉型になっていることから玉思惟(魂)。艮(牛虎)=精神=
玉思惟とつながるのです。
 今日まで世に出ておられた神々の精神(神としての心の持ち方)は間違っていたのです。それが、
蛇や狐の神と呼ばれる姿に身変えるを起こさせる原因となったのです。良心神を真柱に立てない
と、本当の神の精神はいかされないのです。



想像神は描くの神、描くの[苗]とは?

 万物の創造神とは、絵で伝える[絵伝]の想像神。想像神はキャンバスに何を描かれたのでしょう
か?。
 日本神道で人民のことを青人草と呼びます。未だ、花も実も付けていない青い状態の苗の草達。
西洋では創造神のことを農夫とも云います。農夫たる主の神が植えた苗とは?。当然に、[田]で
実るものを描かれたのです。
 大本教霊界物語の中で出口王仁三郎聖師は、東洋は[米]作りが主で、西洋は副の[麦]作りと書
いたように、西洋のパンの教えは米の教えに比べると副的な立場でしかありません。パンでは、メ
シヤ(飯屋)には成れないのです。 

    西洋のイエスは、副食の[パン]で主の神を説き
    東洋のみろくは、主食の[米]で主の神を説く

 私は子供の頃、不思議なことを思っていました。何故か、自分はウドンに花を咲かせる者?。食べ
るウドンを見て、何でこんなものに花を咲かせる者なのだろうかと疑問を持っていました。
 それは、ウドンではなく、三千年に一度だけ花を咲かせると云う珍しい[優曇華]の間違い。この優
曇華とは、桑科イチジク属。イエスの予言、イチジクの葉が色づく頃が終わりの時と知りなさい。
助かる方法は高山に登りなさい。
     たった一字を紐解いて、九の和三六九と成る仕組み
     綾部は蚕の都と呼ばれた処、九和(桑)で織る言葉の綾錦
 大本教出口王仁三郎聖師、神の九十九(九と九)折、織られたものを見ないと何が織られたのか
が解らない。確かに、九つ花は図式して見ないと何が書いてあるのかが解りません。大本教は九
つ花を出さなかったからです。



米教と瓜二つの狐(稲荷)の教え

 日本には不思議な信仰形態が存在します。それは、京都の伏見稲荷大社を総本山とする稲荷神
信仰。この稲荷神とは、日本人ならば誰でも知る[狐]神信仰。その稲荷神の教えとは、

         実れば実るほど、頭を垂れる稲穂かな
 米教は、 
         他(田)を救(鋤く)いて世根(米)となれ

 どちらも、人は偉ぶらずに謙虚でいなさい。そうしたことを教えるのですが、米教と稲荷神の稲穂
の教えとの根本的違いは魂の核芯にラ神論の[良]心神を入れてあるかどうかで違うのです。稲
荷(狐)神に良心神などの教えはないのです。
 そして、日本人の大多数の人が知らない事実に、稲荷神の総司神は[国常立尊]様があります。

 稲荷大神秘文(稲荷信仰において秘密の祝詞とされるもの)。
 【それ神は唯一にして御形なし。虚にして霊あり。天地開けてこの方、国常立尊を拝し奉れば
天につく玉、地につく玉、人に宿る玉。豊受の神の流れを宇迦之御魂(米の精霊神)と成り出
でたまう。】
 人には全て国常立尊様の分魂である玉が宿っていますと説いてはいるのです。しかも、それは
[米]の精霊神として成り出でたまう。
 この伏見稲荷大社を創った秦一族とは、京都に出る前は大本教が発祥した綾部の物部郷に居を
構えていた漢からの帰化人の一族と云われています(綾部に住む考古学研究家発表)。綾部の古
来名は[漢部]で、漢からの帰化人達が住んで栄えた場所。
米教と瓜二つでも、良心神がないと狐(の瓜)神



人は誰でも実れば頭が垂れる

 お米とは不思議なもので、豊かに実れば自然と稲穂が頭を垂れるように下がって来ます。
れと同様に、人も魂が実って来ると自然と頭を垂れるような人になって来るのです。

 今は大銀行も合併で数が減りましたが、今から30年以上前、私が出会った某大銀行の頭取さん
は朝の7時半には丸の内の本社に出勤していました。まだ行員も出勤していない時間帯。銀行の
中には掃除のおばさん達が働いていました。すると、頭取は掃除のおばさん達に自分から先に、お
早う様、ご苦労様と声を掛けていました。
 一方、大官庁に行くと係長や課長補佐クラスの若手官僚が俺は偉いのだというような尊大な態度
で居ました。権力を施行出来る職種と、自分が人として尊敬されるほどの者ではないことの区
別が出来ていない人達です。権力の傘の下にいるだけが解っていないわけです。
 日本の行政の問題は、現場で叩き上げて来た実務を知る様な人が阻害されて、机上の計算だけ
をしている様なエリート官僚が上に行く為に、社会に血が通った政策が何一つ取られないと言う問題
があるのです。

 神の世界においては大きな魂を受け継ぐ者ほど、社会の底辺に叩き落とされます。大本教の
出口開祖はゴミ拾い。天理教の中山開祖は土地や屋敷を売り払いたまえでどん底に落とされ
ました。人の心の痛みを知る者が本当の教祖であり、神の代理者。
 私が日本の政治を預かる最高責任者であれば、エリート官僚には最初の半年間は清掃車に乗っ
てゴミ集め。それから1年間半ほどは現業の第一線で働かせるでしょう。社会の底辺で働く者の辛
さが解らぬ者に、血の通った国の行政など出来ません。若い時から権力を握らせると、頭を垂
れることを知らない為に歪んだ魂の持ち主になってしまいます。
 社会の底辺にも、何の権限も権力も持っていなのにも関わらず俺は偉いのだ。立派なのだと自分
勝手なことばかりしている者達がいます。絶対に他の人に頭が下げられない。すなわち、魂(米)が
実っていない殻玉。



人は助け(支え)合って生きるもの


人の字は、倒れないような支え合う意味

 人は自分一人で何もかも創り出すことが出来ません。俗に、駕籠に乗る人担ぐ人。その草鞋を
作る人と云うように、他の人の助けを受けて生きているのです。自分が駕籠に乗る人になった時、そ
の駕籠を担いでくれる人が必要であり、その旅の草鞋を作ってくれる人を必要とします。

 お百姓さんがいなければ食べるお米や野菜に不自由をします。着る為の服地を織ってくれる人も
必要であり、病気になった時、病気を治してくれたり看病をしてくれる人も要るのです。豊かな生活を
する為の工業製品を造る工場で働いてくれる人も必要ならば、物資を運んでくれる人や子供に教育
をしてくれる専門家も必要。あらゆる職業を持つ人を必要とするのです。
 人は、そうした歯車の一人に過ぎないのです。俺は偉いのだ。立派なのだ。どこに貴方が偉い
人だとか立派な人と書いてあるのでしょうか?。自己勝手自分本位の者は、自分勝手に言っている
だけ。常に我れ好し。

   世の為人の為に働く人は、救い世根となっている
   米教は、田(他)を鋤く(救い)て米(世根)となれ

 万物の創造神は[農夫]と呼ばれて来ました。
      頭を垂れることを知らない稲穂では脱穀(脱獄)は出来ない
      魂の刑務所たる根の国底の国より、神の御国に脱獄の米



審判とは、田で上がった[米]を判断

 ある処に、類い希なる霊能力を秘めた霊能者が存在しました。この霊能者が示す霊能力とは、テ
レビなど出て来る霊能者とは一桁も二桁も違う霊能力を保持していて、奇跡がどういうものか知る見
本の様な人物。もし、テレビでその奇跡力が報道されていれば、世間はパニックになったかも知れな
いほどです。科学で証明など不可能な霊力。
 この霊能者、名刺に宇宙神の番人と書いていました。それは、最後の審判の審を宇宙神の[宀]と
番人の[番]に分解して読んだからです。同じ分解するならば、審判の番は田の字の上にお米が
乗ると読むべきでした。

審判は、貴方はアウトで貴方はセーフと判定する
は、で実った宙(天界)に上げる

 大本教の出口王仁三郎聖師は、この世は天人と成る為の苗床と云いました。一般的に霊能者の
方々はこの世は魂の刑務所と云います。汚れた魂を磨いて(禊ぎ)天人界へと上がって行く為の
魂の養成所。
 お釈迦様は、人は何故に生きるのか?。何故に死ぬのか?。そうしたことに疑問を持って悟りを開
かれましたが、私の様な一般凡人はお釈迦様の悟りにはほど遠い者。自分で自分の魂を磨けと云
われても簡単なことではありません。比叡山や高野山のような霊山に籠もり、阿闍梨の様な修行道
など出来るものではないのです。
 そこで、一番簡単な方法が自分の命を犠牲にして他の命を救う菩薩道。旧約聖書で云うなら
ば、神の祭壇に羊(善)の血を捧げる犠牲のこと。それが、他を救いて世根となれ。
 それで間違いなく、その人は羊(善)の血を流しているのです。自分が知っている者だけに物を与
えるのが功徳ではなく、見知らぬ弱い者達を助けるのが功徳。

世根(米)の働きをした者達は羊(善)にて、神の御国へと渡る



節分から、五六七の210日は米の実り

 丹波の片田舎綾部から大本教は発祥しましたが、その大本教が説いたのは日本書紀で創造神と
される国常立命様こそ[ウシトラ]金神説。そして、綾部のお殿様であったのが九鬼神道の家柄で元
津(創造)神をウシトラ(宇志採羅)神とする九鬼家。綾部には何か秘密があったのでしょうか?。

丹波とは神の[田庭]の意味で、神の[米]を作る土地

 大本教では、艮金神・国常立命説を打ち出す一方、仏教で人類の終末前に現れて[誠]印で
人々が忘れてしまったお釈迦様釈の悟りを説く救世仏の[みろく]菩薩も打ち出しました。
 このみろく菩薩とは、釈迦の死後五十六億七千万年後に現れる未来仏とされていますが、いくら
お釈迦様が偉大でもそんな超未来の予言はあり得ないのです。大本教の霊界物語では、この五十
六億七千万年は単に[五六七]とだけ記しました。
 大本教神諭では、九つ花に咲く一輪の言霊の経綸。それを誠で紐解く御方が唯一人だけ出る
と予告しました。この九つ花が九の魔王陣で、真ん中の[41]位に座る言霊がお釈迦様の悟りを告
げる良心神の[ラ]で、その[ラ]を経由する[三六九]の仕組みは[米]型となっているのです。

 [五六七]とは、5×6×7=210
二百十日は、お米の刈り入れ時

 大本教のみろく大祭は五月五日でも、粽(米の宗教)までは誰も思いもつかないように、二百十と
云えば、誰も[米]が実る二百十日のことだとは思いもしなかったはず。
 別に、みろくとはお釈迦様の死後五六億七千万年も後の超未来を意味していたのではなかったの
です。節分の翌朝は立春で、それから二百十日はお米が実る頃。

身に禄が付いた者は、お米が実った五六七
節分の煎り豆に花が咲く時節はやって来た



節分の煎り豆に咲く花は

 大本教が予告した節分の煎り豆に花が咲く は、鬼と云う[魂]の中で咲く[九つ花]が、八 方向の[米]型に咲くことを意味します。
 ただ、その為には天の岩戸と呼ばれるもの を開かなければならなくなるのです。大本教 が二度目の天の岩戸開きと言った意味につ ながるのです。
  この形は記号で表現することが可能。
 大本教神諭、天理教の先走り。天理は[転 輪聖王]のことで、転輪は型。森羅万象 [悉]く、米型で説く心が基本教義となります。
 天理教中山開祖は41から神御台



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