旧約聖書を母体としますユダヤ教・キリスト教・イスラム教では、常に最後の
審判が告げられます。特にキリスト教の場合は、最後の審判の時にキリスト教 徒が主の一人御子と信じているイエスが再来をして、キリスト教徒のみが神の 御国に救われるのだと信じ切っています。
私は旧約聖書でイスラム教世界が云うアラーの神(ラ神)と大本教が世に告
げた艮金神国常立尊様は同一の神様だと申し上げています。
何故、私がアラーの神と国常立尊様が同一の神であると告げられるかの理
由に関しましては、私と神霊界との関わりにおいて断言出来ることで、単に大 本教神諭が予告した九つ花の一輪の言霊の経綸が[ラ]だからと、言葉上で解 釈しているのではありません。
そのことに関しましては第十四章で説明しますが、旧約聖書の神が日本神話
に出て来る国常立尊様であるならば、日本神話に最後の審判の予告があるか どうかでしょう。
西洋や中近東の旧約聖書の世界が云う最後の審判は、日本では[天の岩戸
開け]神話として日本の初発から既に予告されているのです。
また、大本教神諭も幾度も幾度も天の岩戸開けが起きると予告をして来まし
た。天の岩戸開けとは単なる神話ではなく、最後の審判のことなのです。
日本で霊能者として活動している人達の多くは、日本神話の天の岩戸開けの部分は予言書でな
いかと見ます。これから先で起きることです。
リンゴの故郷の一ヶ所長野県の戸隠山の戸隠神社とは、日本神話で天の岩戸を開けた手力之
命を御祭神とします。この戸隠山を八方睨みと云います。八方向(米型)で睨む。その戸隠山近く には、牛に牽かれる善の者を導く光の善光寺があります。この仕組み、牛虎の牛が善の者を導い ているわけです。
誰がリンゴ(林檎)を見ても、それが禁断の果実とは思わない
林檎(リンゴ)の林で示す字は[禁]の字、神の戒めを破った意味
私達が現在住んでいる光の世界とは[七色の世界]。天の岩戸に隠された光とは[八色の世
界]で八方睨み。辰巳の方向の光を閉めた色。天の岩戸の光が出ると辰巳方向に光が入り、巳 (蛇)帰るで邪(蛇)心を裁き善の者を導く善光が出ることになります。
神の世界が[光]の世界であることは、霊能者と呼ばれる者ならば誰もが知っています。そうしたこ
とから、神霊達を光の天使と呼称する宗教団体もあります。その光は何色かとなった時、最高の色 は金色とされて来ました。
しかし、金色が最高の色とは言い切れないのです。何故ならば、狐神の中において最大の悪狐は
金狐しとて知られます。黄金に目が眩み、どれだけの人が自分の魂を悪魔に売ったことでしょう か。
天の岩戸の中に秘められた光とは無色透明の色。無職透明でもそれが光であると判断出来るの
は、それ自身がキラキラと煌めく光だからです。この無色透明の煌めく光は魂に汚れがあった時、そ の汚れを焼き尽くす火の働きを持ちます。この光の働きは[火の皇]神で煌めいているのです。宗教 団体の中にはこの光を[白光]と名付けておられる団体もあるようである。
大本教神諭は、天の岩戸が開いたならば、魂を汚している者は居ても立ってもおられない。苦しみ
にのたうち回るとまで表現しています。一方、魂に汚れがない者はこの光を受けると、その人自身が キラキラと輝いて見えると。
全国各地に天の岩戸と呼ばれるものがありますが、そんな場所の岩戸が開いても意味がありませ
ん。日本神話で天の岩戸閉めとは太陽が隠れたとすします。誰が考えても太陽が隠れるような岩戸 があるはずもないことぐらい解るはずなのです。為に、学者は日食のことではないかと考えました。
大本教神諭が予告した三千世界の大立替(天の岩戸開け)とは、宇宙的規模で起きる陽光の裁
きのことです。全ての御魂の総洗い総ざらえ。個々の魂の中にその仕組みをしておかない限り、そ の裁きから逃げれるものが出るでしょう。例え地底に潜ろうが、絶対に逃げられないように各自の魂 の中に天の岩戸そのものの仕組みがなされているのです。
各自の魂の中に秘められた本当の天の岩戸の扉は、現在は閉められています。この扉を一斉に
開けることが、主の神の伝家の宝刀。ならずもの(悪党・無頼漢・利己主義者)とは成らずものと書 きますが、元は[破落戸]と書いたのです。魂の中にある陽光の防御用の戸(扉)が破れて落ちてい る為に審判が始まるとどうにもならなりません。
私達が現在見ている光は何も恐くはありません。だが、天の岩戸が開けられた時、その恐ろしい
までの光の裁きは言葉を絶することになるでしょう。魂の汚れを絶対に許さない。これは、自分は いくら神様だと言っていても容赦なく来るのです。私はこの裁きの陽光をどうやって防ぐかを考え 続けました。
一つには、自分自身がその陽光を受けても苦しまないように自分の御魂を磨くということです。私
はその光の世界を見た時、至福の世界ではあるが、自分の様な汚れた魂の持ち主では住める 世界ではないと考えました。お釈迦様ならば涼しい顔で至福の世界を楽しまれるであろうと感じまし た。為に、お釈迦様は何を悟られたのだろうかと考え続けたのです。その結果がラ(良)心神。
最後の審判と呼ばれるもので、悪魔(空く間)の時代が終わります。これまでは、私達が持つ
魂の中芯で活動していなければならなかったはずの良(ラ)心神がさほど働いていなかったわけで す。すなわち、魂の中の良心神は艮に退くの状態にありました。その良心神が魂の中芯に完全に 座ると、悪魔(空く間)と呼ばれる存在は必然的に消えて行くことになるのです。
すると、そこに現れて来るのは神様に近い神人と呼ばれる存在で、神の御国と呼ばれるような世
界が完成するのです。
それならば、何も大宣伝するほどのことではないではないか?。悪が消滅した世であれば、まして
天国と呼ばれるような嬉し嬉しの世であれば歓迎しない者など居ないのではないかと誰もが思いま す。
しかし、そうは行かないのです。例えば、私はヘビー・スモーカー。タバコは健康に悪いと思ってい
ても止められないように、悪と解っていても善に立ち戻れない人達がいるのです。悪を悪と理解出来 ない人もいます。
私がタバコを手放せないように、悪の魅力にはまっている人達がいるわけです。そうした人達を悪
から早く改心させる為には、そうした大宣伝も必要となります。さらに、神様に肉体が無いように、今 の様な不自由な肉体は脱ぐ必要が出て来ます。その為には死後の世界(霊界)の説明も必要となる のです。
水戸黄門様の時代劇は一話完結で、番組の終了前に悪人達が三つ葉葵の印籠を見て、ハハッー
と頭を下げて物語は完となります。ところで、あの悪人達はどうなったのか?。なのです。
創造神が現れ出ないと、この世の物語に決着はつきません。九鬼神道で宇宙の元津神は宇
志採羅神。羅の採用。地獄で悪をするのはモウこりごりだと云うことが骨身に染みるところまで行け ば悪人も許されるでしょう。
大本教霊界物語は美濃尾張(身の終わり)の国の中からの女子を予告しました。それは、人類の
上に森羅万象悉く創られたであろう大いなる大宇宙根元たる神が臨むことを予言しています。
それは、私達が日本人が神話で知る天照皇大御神様とか素戔嗚尊様と云う神様の段階ではない
のです。大宇宙の根元たる神。この神を表現するには[宇宙大王]が似合っています。天照大御 神の御台を務める霊能者でも、天照様が大宇宙を支配する神はアラー(大国常立尊)の神様だと云 われると云います。
しかし、この大宇宙の根元たる神が人類に下すであろう罰(X)とは、人々が考えている罰(X)とも
違うのです。私達の肉体の中にある魂は六根(胸)の中にあります。私達は胸の病を起こした時、エ ックス(X)線検査を受けます。
それと同様に、私達の魂も病(罪)を持っているならばX(罰)線を受けて調べられるのです。そ
うしないと、魂に[真]が写(写真)っているかどうかを誰も判定出来ないからです。今の世は、魂の 病(罪)は印画に[因果]として写し出しているだけなのです。
たぶん、どなたも胸を見る[X]線までに神の教えがあるとは考えも及ばなかったはずです。大本教
の出口王仁三郎聖師は日本の天皇に対する不敬罪で囚われた時、裁判長相手にX線でなく猥(Y) 談話を延々としました。
旧約聖書の性器の割礼も天の岩戸開け神話も性器の猥(Y)談
最後の審判は魂の真を見て天国か地獄かの左右に捌く[Y]光線
神を畏れない獣()達の魂の為に猥(畏)談がついてまわる
旧約聖書、貴方はオナニー(自慰)をしていけないも意味違いです。慰めは、例え自分の尸(屍)を
示しても心(魂)を助ける(寸)こと。辛い魂の修業、自分で俺は偉い者だとか立派な者だと思う こと(自分に対する慰め)はいけないのです。真の柱を立てる性(生まれながらの心)器の教えな のです。猶太(ユダヤ)の国玉神は、天帝の御言(尊)を獣の教えにしてしまった。
旧約聖書には、最後の審判(この世の終わり)に関して、太陽も月も光輝かぬとあります。私は昭
和五十五年、自分の目は開いているにも関わらず、それまでは見えていた光景が徐々に暗くなって 来て変だと思った途端、何の光も差さない真っ暗闇の中に叩き落とされました。そして、地獄の 底から響いて来る閻魔大王の様な恐ろしい声が私に臨んだのです。
その恐ろしき声が私に云った内容、それは私にはとても信じられない内容でした。しかし、その言
葉を信じない限り目の前は真っ暗闇だと思った私は、信じましょうと言いました。すると、私の目の 前は光景は通常の光景に戻ったのです。私は目が開いているにも関わらず、真っ暗闇の中に叩 き込むことが出来るこの仕掛けは何だろう?、と考えました。
私が未だ幼い頃、私に旧約聖書の神と名乗る神が臨んだことがあります。旧約聖書の神と名乗る
神は、幼い私に不思議なことを告げられました。しかし、人の世の習い。私も成長するにつれて、幼 い頃に私に臨んだ旧約聖書の神と名乗った神のことなどすっかり忘れていましたが、この不思議な 体験で昔のことを思いだし、子供の時に云われた内容を確かめる為に神霊界に修業の足を踏み入 れたのです。
自分の目は開いているのにも関わらず、真っ暗闇の中に叩き込む。霊能者ならば、そうした体験を
積んでいる方もいるだろうと、そうした霊能者を探しました。その結果、真っ暗闇の中に叩き落とされ た方もいれば、逆に霊界の太陽の光を体験されている方もありました。有能な霊能者は、そうした 経験しておられます。
私も霊界の太陽にも苦しめられました。夜、寝ようとしても瞑った瞼の中に太陽が出て来て光輝
いて寝かせてくれないのです。目を開けると、そこは暗闇の夜。
大本教神諭は、天の岩戸開けと天の岩戸閉めを説いています。天の岩戸開けとは、汚れた魂
の者は俺を殺せとのたうち回るほどの苦しさを受けるとあります。逆の天の岩戸閉めは、その苦しみ を終わらせることも出来ますが、何の光も差さない真っ暗闇の中に叩き落とすことも出来る仕掛けを 指すのです。
この世の太陽や霊界の太陽を創った宇宙創造神の恐ろしさを、ほとんどの人は知らない。
私達日本人は、神話の中の天照皇大御神の天の岩戸隠れだけに気を取られてしまいますが、こ
の天の岩戸開け神話には別の意味もあります。もし、この世から良心を持っている者や愛善を実 行する者が居なくなれば、いくら太陽が輝いていても、この世は真っ暗闇。
狼(良心を獣と化した悪の者)に取って、愛善を行ってくれる羊達は美味しい餌。最近、俺々
詐欺や振込詐欺に引っ掛かる人達が増えています。疑うことを知らない善意の者は狼達にとって は、こんな美味しい餌はないのです。慈善団体の名を語った募金詐欺も多発しています。狼達は人 の善意をことごとく食い物にするのです。
大本教神諭が告げた世の立替(最後の審判)は、良心や愛善を貫いた者達を神の御国に渡ら
せることが主眼なのです。
では、神の御国に渡れなかった者(取り残された者)はどうなるのか?。取り残された者達の世に
は、もう狼達の餌となる羊(善意)の者は存在しません。後は、狼達だけの世で、力の強い者が勝つ 共食い状態になるのです。弱い狼は、強い狼の餌となるより道は無いのです。そこに広がるのは暴 力の強い者が勝つ地獄界。お先真っ暗な闇の世が天の岩戸閉め。
ほとんどの日本人は、皇室神道天照皇大御神が何を語るのかを知らなさすぎました。世界の文明
を見るならば、紀元前数千年前から文化が開けた国もあります。天照皇大御神とか素戔嗚尊とかの 神話を仕組んだ神がいても何の不思議もないのです。今回の仕組み、中国で天子とされた盤古大 神ですら、これら一連の仕組みをした創造神に使われた役者に過ぎないのです。
私は神霊界に修業に入って、私の修業を受け容れて下さった神界のトップの御神霊に、その御台
として一番と云われていた霊能者を通じて最後の審判(世の立替)についてお伺いをしました。
すると、その答えは最後の審判(世の立替)は起きる。しかし、その時期が何時なのかは解らな
い。その審判から人類を助ける道が解らない。助ける道が解らないで最後の審判(世の立替)を 人々に告げれば人はパニックになる。それならば、人々に何も告げずに最後の審判(世の立替)の 日を黙って迎える方がよい。助ける道が解ってからにしないと行けない。と告げられました。
確かに、助ける道が解らないで最後の審判(世の立替)を告げるのは無責任すぎます。一部の新
興宗教は、我が派の教祖様は救世主様である。我が派に入信されれば助かるの教義だけを行って います。それに対して、既存の神霊界が最後の審判(世の立替)を黙して語らなかった理由は、 助ける道が解らなかったことにあるのです。
明治25年旧2月3日の大本教神諭に、世の立替があると云うことは、どの神柱にも判りていれ
ど、モウ一厘の肝心の事は判りておらん。とあります。どの神も、世の立替(最後の審判)がある ことは御存知なのです。問題は、その日が何時なのかがどの神様も解らないし、モウ一厘の肝心 (助かる道)も解っていなかったのです。
私は人類が助かる道はどこにあるのか?。探し続けました。自分が救世主とか、イエス一人を神
の御子と認めれば助かる。そんなバカな話は無いのです。それならば、誠と正義の者が泣いてし まいます。創造神は誠と正義の神であらねばならないのです。確かに、主の神の姿はどこにも見 えません。しかし、どこかに[誠と正義]の仕組みがあるはずと考えていました。
私は大本教神諭が予告した九つ花に咲く一輪の言霊の経綸で、この一輪が救世主たる役に成
ることを知りました。大本教神諭のモウ一厘の肝心は、お釈迦様の悟りを知ることだったのです。
しかし、諸天を始めとする神々に良心を説いても、どなたも貴男に良心を説いて貰わなくても良心
が大切なことぐらいは知っているで、聞く耳は持たれない。字で示さないと解らないでしょう。
私は神霊界に修行に入って七〜八年を経て大本教神諭の九つ花に咲く一輪の言霊の経綸が何
であるかを知り、ラ神論に到達しました。しかし、どうしても解らないことがありました。それは、大本 教の明治五十五年の世の立替説。
明治五十五(大正十一)年には何も起きなかったわけです。大本教は、この明治五十五年を五月
五日のみろく大祭に変えてしまいました。それ自体は五月五日の粽(米宗)の節句で、お米の型で あることを明らかにしたものですが、この五十五にはもっと深い意味があるはずです。
私に最後の難関として立ちはだかったのがこの[五十五]でした。私がこの[五十五]の意味を
知るのには、それから十数年間もかかってしまいました。昭和五十五年から始まって、五十五の意 味を知ったのです。
それは、魂に点数が出ると云うことです。魂に点数が出るなど、これまで聞いたことがありません
でした。ところが、点数が出ている魂に出会ってしまったのです。しかし、考えれば不思議でも何でも ないのです。私達は学校で学んだことを試験されて成績が点数として出ます。この世は魂の修業 場、学ぶ世界。当然に、その勉学に対して成績の点数はついているはずです。
大本教神諭が予告した九つ花に咲く一輪の言霊の経綸、その真ん中にある良心神の[ラ]は第4
1位。自分が主の神から授けられた主の分魂である良心神を欠けたり失っていなければ、それだけ で[41]点はあるのです。そこまでは解るとして、後の[14]点が解りません。大本教は[ス]の神論 を出しました。戦後は[愛善]の教えに転換しました。愛善とは道徳心。
一般的に神霊世界に関わる者は神霊に近づく為に山で修行を積みます。山々を歩き、瀧に打たれ
り、断食などもします。仏教においては人里離れた山の中に根本道場を造り、世俗を離れて修行を 積んで来たのです。また、キリスト教でも修道院が造られて世俗とは一線を画して修行を続けて来ま した。これらを総称して山の行と云います。
では、こうした山の行が出来ない者はどうすればよいのか?。山の中に籠もることだけが修行で
はないのです。山の中に籠もる修行より辛い修行として里の行があるのです。
山の行には逃げ場があるが
里の行には逃げ場ない
私達は社会に生きていると全ての人が善人でないことを知ります。中にはどうしょうもない人もいる
のです。特に自分の周囲にそうした人が居て、どうしても関わらない立場に追い込まれてしまいます と、その苦痛から職場を辞めたり、引越をしたり、精神的に苦しまないといけないことになります。こ れらが里の行。逃げ場ないと自殺する人達も出てしまうのです。
一方、山の行では山々を歩き、瀧に打たれり断食しても、肉体的には辛くても精神的には楽なの
です。何故ならば、山の中で修行を積む分には他人に関わらなくてもよいのです。自分一人だけ で出来る行。他人と関わることが修業なのです。
この世は楽しいな。美味しいお酒を飲んで、歌っていればよい。それでは、何の行にもなって
いないのです。
私は、米(三六九)教は他を救いて世根となれと説きます。教祖(会長)様が食べ残したカレーライ
スの皿を舐めて、ありがたやありがたや等を教える宗教ではありません。自分が使い古したものを 信徒にお下げする等もっての他です。
他を救いて世根となれは、世の為に人の為に奉仕(ボランティア)活動をしなさいで、世の為人
の為の活動で自分の地位や名声を欲しては行けないのです。名も無き活動をしなさい。それは [損]だと思っても、貴方の魂の[徳]につながって行くからです。人の魂の中の良心神は、その 人の行動を全て閻魔帳に記しているからです。
宗教団体の中には、金持ちは大金を教団に寄進せよ。金が出せない貧乏人は教団に労働活動で
奉仕せよと説く教団が多くあります。確かに、神様の為に仕える奉仕活動は最大の奉仕活動で はあるのです。
しかし、真心からの奉仕ではなく、現世御利益を得よう。死後には天国へ行かんが為の欲から出
る奉仕であれば主の神は受け取られないのです。言葉を創られた神は誠(言葉成る)の神で、エン マ大王であることは言葉の仕組みで見えて来たはずです。
私は長年神霊界に関わって来ました。その活動で家の一軒は買えるほどのお金を使っても来まし
た。でも、人に言える様な御利益は受け取ってはいません。金銭の損得勘定で云えば大損も大損。 と云って、私は天国行きの要求もしていません。私は幼い頃から真実一路と誠を座右の銘にしてい ます。私は[誠]の旗の下で死ねるならば、それだけで本望です。
真理を出さない限り世界の宗教は争い、世の為に人の為に成らないのです。本当に人々を
救うのは真理の証しかないと思うだけです。私は神霊世界に対しての奉仕(ボランティア)活動を しているのです。それだけのことです。
最後の審判(世の立替)の時は何時なのかと聞かれたならば、こればかりはどの神様も解らない
と云われるように、誰にも解らないのです。無論、私も知らない。
国会の解散権は総理大臣の専決事項
この世の立替権は主の神の専決事項
大本教神諭に、ユダヤの神がこの世を泥海にする仕組みがあります。私達は知らず知らず世に
出ておられた神達が敷いた線路の上に乗っているのです。それを、この世の流れと云います。日 本でおかしな服装が流行っているなと思っていると、いつの間にか隣の韓国や中国にも飛び火して います。神々が敷いた線路の上を人々を乗せて走るのが龍(流)神。すなわち、流(龍)行。
これまで世に出ておられた神達が敷いた線路は平坦路を走っていた為に、さほど問題も起きてい
ないのです。ところが、先の見通しがないままに行き当たりバッタリで線路を敷いて来た為に高い 山や深い谷がある場所に来てしまいました。そこを迂回せずに無理矢理に山を掘り谷に橋を架けて 線路を敷いて行ったところ、先には泥海が控えているのです。このままに行けば人類は間違いなく 滅亡するでしょう。どん詰まりなのです。
そこでまったく新しい路線を敷いて、人々を乗せてやって来る流(龍)行と云う機関車を違う路線に
引き込む必要があります。そのポイントとが二線(千)に分ける手前の一九九九の位置と言います。
この一九九九とは西暦の一九九九年ではなく、牛若丸(義経)の千本目の刀と弁慶(主の神)の九
九九本の刀に型があります。大本教の出口王仁三郎聖師が救世主は[源の義経]と云った意味 には、君(主が演じる弁慶)が臣となり、臣(義経)が君となる不思議な仕組みがあるのです。
恐怖の宇宙大王はモンゴル大王(義経)を呼び起こす為に天降るは西暦の一九九九年ではありま
せん。西暦には計算式の間違いがあります。しかし、その時期は迫って来ているようです。
信仰の世界において、俗に龍神と呼ばれているのは霊界で年老いた蛇霊(邪心に犯された力の
霊)のことですが、辰と呼ばれる龍は神のエネルギーを指します。
そして、もう一つ[龍]と呼ばれる存在があります。中国の故事、登龍門の語源となる黄河を登る鯉
は[龍]と化す。日本では鯉の瀧昇り。瀧は水と龍。
大本教神諭、あんな者がこんな者になった。こんな者があんな者になった。それまでは下に居た
者が上に行き、上に居た者が下になるわけです。世の立替で魂の総入れ替えが行われると告げま した。底辺の者を登用するのが登龍門。鯉の瀧昇り。
この時、それまでは社会の底辺に居ることを余儀なくされていた者達の中から、これぞと思う者達
を神の位に登用されて、永劫末代まで変わらない神の御国が起きるとされます。これが、五十五で 示された世の大立替。
絶対成る神が登用する人達とは、
日本神話の中に伊邪那岐尊が黄泉の国に旅立った伊邪那美尊を訪ねて行き、逃げ帰る話があり
ます。この時、伊邪那岐尊は黄泉の国から追って来る醜女達に桃の実を投げて、逃げた場所が比 良坂の関。多くの神話研究者が首を傾げたのは、何故に桃の実なのか?。何故、醜女達は争って 桃の実を求めたのか?。
大本教の出口王仁三郎聖師は面白いことを書いています。三月三日の桃の花。五月五日の桃の
実。
神の国と黄泉(冥途)の国とに分ける[良]の比較坂
線引き(千引)岩を越えたなら、神の魂にと誂えの桃
金銀財宝の悪鬼(魂)退治の桃太郎には、後で楽園
真の天国(神の御国)とは、天人とか神人と呼ばれる人達が入る世界で、この世が如何なる場所
かを知らないで入れる世界ではありません。輪廻転生を受けている段階では
からは抜けられないのです。
桃(木と兆)の実とは、神の魂に誂(言と兆)える果。神と成れる桃が食べられるならば、黄泉の
国から神の国へと入れるでしょう。神の国と黄泉の国とに分けるのは、その魂が持つ[良]心神の 比較で線引きする比良坂の関。
悪鬼退治の桃太郎の話にしても同じことです。悪い魂(鬼)を退治するならば、桃から生まれた桃
太郎。神の御国に入れる果実の桃を差し上げましょう。現世御利益ではなく、後で楽園(後楽園) の保証です。これが、岡山の桃と後楽園の型。
今は、悪鬼(魂を悪に走らせない)を退治てして吉に備える吉備団子。
天国は金銀財宝で輝いている?
金銀財宝に執着して墜ちる蛇の国
一般的に、天国とは金銀財宝で彩られた世界だと思われています。私はそうしたことを聞くと、?
と首を傾げてしまいます。お釈迦様の説法[蛇に墜ちた長者]でも解るように、蛇の国に入れば金 銀財宝で輝いてはいるでしょう。住人達が自分の財を誇る。しかし、自分の財を取られまいと蛇の 姿に化して他の者達を威嚇する。それでは心が安まらないでしょう。
私が知る国は金銀財宝で輝いてはいません。緑色の田園風景が広がる様な農村の国。誰もが
働くことを喜び、住民の服装は清潔の白色でも、一人一人の住人の心は[宝石の如く]輝いてい るのです。魂の輝きが宝石。
他の住人の喜びを自分の喜びとして
他の住人の悲しみを自分の悲しみとする
私が知る国では財に執着することはありません。人より綺麗な物を着て見せびらかしたい等の虚
栄心を持った者もいません。皆が平等に分かち合う。為に、地位や財を巡って争うなどもないので す。
住人の一人一人が他の住人の喜びを自分の喜びとし、他の住民の悲しみを自分の悲しみとしま
す。住人の誰もが友であり仲間達。心が安まる世界。
田園は緑(ロク)色の風景で、六(ロク)の国と云う
田園の国では、身に禄(六)を造らせる米(世根)で国造り
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