第十三章、松の世(みろくの世)

 大本教では、ラ(良)心と呼ぶ神の存在を隠して、神(この世の閻魔)が表に
現れて善と悪とに立ち分けると大宣伝しましたが、悪が一掃されて出来る世を
[松の世]と説きました。
 この松の世とは、多くの宗教家や霊能者が云うところの[みろく]の世で、キリ
スト教で長年に渡って宣伝しました[神の御国]の到来なのです。当然に、みろ
くの世においては住民には[身禄]が備わっていなければなりません。
 しかし、今日までの宗教は何を教えて来たのか?。我が派の教えを信じれば
天国に、その教えが[真理]を説いているのならばまだしも、ただただ神を讃歌
する。お題目を上げる。それでは神の説明が出来ていないのです。
 蛇神様や狐神様の元に参拝していれば現世御利益は授かります。しかし、
は何故に生まれ出るのか死ぬのか、さっぱり意味が解りません。誰も教えては
くれないのです。為に、誰もその意味が解らなかったのです。

 日本では、多くの宗教宗派が[みろくの世]の到来を宣伝しています。しかし、
どの宗派も[みろく]の意味が解っていないでしょう。新約聖書の黙示録におい
て[666]の記号を悪魔の徴としました。その言葉の呪文に引っ掛かってしまっ
たようです。

三途の川の渡し賃に[6]文銭を身に付ける



宇宙に巣(ス)立ちの時

 日本神話では、この地球は根の国・底の国と言われて来ました。宇宙生命体から言えば、もっとも
波動が粗野の世界と言われて来ました。物質主義に囚われた世界です。
 そうしたことから、この地球は魂の流刑地とも言われて来ました。物質に溺れて、魂を腐らせたり
潰したりです。

 大本教以後、素戔嗚尊が言われますが、素戔嗚尊は根の国・底の国に流されたという神話の意
味を理解すべきでしょう。
 当然、そこには時節が巡ってくれば、根の国・底の国からの旅立ちがあるのです。

何故、大本教は「ス」の神論を出したのか?

それは、宇宙に巣(ス)立ちの時が来たから



人は、胸(六根)を開けば皆同じ

 私はくどくどと解説をしていますが、こうした解説をしないと解って貰えないことは悲しいことなので
す。

人は言葉や肌の色は違っていても
胸(六根)を開けば皆同じ

 自分が信じる宗教は絶対だ。異教徒は殺せ。そこには、人は言葉や肌の色は違っていても、胸を
開けば皆同じの感覚が抜けています。ユダヤ教徒のパレスチナの人に対する扱いは、まさにこの欠
如です。
 世に邪悪の者と呼ばれる者達が存在しています。しかし、それは実態が無いのです。彼等も斬ら
れれば血を流し、痛いと叫ぶ。彼等は人は言葉や肌の色は違っていても胸を開けば皆同じで、人は
皆仲間だ友達だ。そうしたことが解っていないから、俺が俺がで自分勝手・自己本位のことをしてい
るわけです。
 自分がされて厭なことは他の人も厭なのです。他の人の立場を思いやることが出来れば、自ず
から良心神は育って来ます。その時、邪悪なる者は存在していないのです。
 それには、何も難しい教義を説く必要はありません。自分が生きているのは多くの人の助けが
あるからで。だったら、自分もそうした他の人を助ける為の働きをしょう。それだけのことでよい
のです。
 ですから、米教は

他(田)を救(鋤く)いて世根(米)となれ

 難しいことを説くのが宗教ではありません。だが、世の中には自分は賢いのだと思っている宗教
家や人が多すぎます。そうした人達の中で、一人として大本教神諭予告、九つ花に咲く一輪の言霊
の経綸を紐解けた者も神もいないでしょう。誰も、俺は偉いのだ立派なのだと思いすぎているの
です。私は凡人でバカだから解けました。社会の底辺で牛糞の身分。



松の世で治める松は、[公]の世

 大本教神諭の予告に[松の世で治める]があります。この松の世に関して、大本教神諭を研究する
学者達の中では、松の世とは日本神道で云う常磐堅磐(ときはかきは)に変わらないことで、松は
[末]を掛けた言葉ではないかとされて来ました。松は常緑樹で常葉堅葉(ときはかきは)で、世の末
(まつ)から治めると意味と学者達は見たのです。
 松は末(まつ)でも、この松は[公]の意味で、待つにもかけてあるのです。
神と仏の違い。

      神は[公]で、の立場(ム違う)
お釈迦様の悟りの[空]や[無]は[ム]の教え
      神の立場では救えない者達を、仏(私)の立場で救ってきた

 私は神と仏は同じでも、置かれた立場が違うと言うことです。この世を去って仏と呼ばれていても、
それは私。神の位に就いて産土神の様に神社等に赴任すれば、子孫を守る様な個人の仏の立場
ではなく地域の住民を守る[公]職に就いたことになります。神の立場としては救えない者達を、仏の
名を借りて神達はこれまで人々を救っては来たのです。
 最後の審判と呼ばれるものは仏の世界からは出ない教えです。何故ならば、公で行われるもの
であって、私の立場では何神と言えども罰することも救うことは出来ないからです。大本教、人
類の終末前に現れる救世のみろく菩薩ではなく、[みろく]の神とし出ましした。

     仏の顔も三度などと、試験の点数をごまかすなどは出来ない
     最後の審判は、全て公平・公正の[公]の論理で実施される

 みろくの世は、公平・公正の原理(松の世)で何事も治められるのです。



みろくの世とは平和の世

 沖縄地方の民謡に[弥勒の世]を唄った民謡があると聞きます。その内容は、戦争のない平和の
世だと云うことです。
 みろくの世とは、身に禄(天から与えられた幸い)を持つ人達が集まった世のことです。当然に、住
民の中に争いごとなどはないのです。実に平和の世で、俗に云われる天人の世をこの世に造り上
げた世です。

皆が等でを重んじる平和の世

 人は誰でも自分だけが皆と平等に扱われずに不公平な扱いを受けたならば腹が立ちます。
人を不平等に扱うと云うことは和を乱す原因になるのです。
 自分勝手・自己本位の者は、必ず周囲の和を乱します。彼等は[公正]と呼ぶ言葉すら知らないの
です。自分の嫌いな奴はやっけてやる。自分の言うことを聞かぬ者には暴力を振るう。平等を知らず
和を乱す典型の者。こうした者は、みろくの世には一人として入ることは出来ません。

公正を知らぬ者は後世甦(更生)るはない

 よって、最後の審判の後は皆が平等で公正公平のみろくの世となるのです。一人一人の住民が他
の住民と協力し、互いがその行動を讃える参画の世。

共産主義でなく[協賛]主義の世

 私は一人でも多くの人、否、全人類がみろくの世に入っていただきたいと願っています。為には、
自分を省みる(反省)ことが必要なのです。主は、全人類に蛇(邪)心に打ち勝つ良心神を授けてお
られるのです。



惡の字が教える、主の神は墓を暴く

 キリスト教では、イエスが最後の審判で再来する日まで死者達は墓の中で眠るを基本教義としま
す。イエスを主の一人御子と信じなかった者は墓から引き出されて地獄に墜ちる。イエスを主の一人
御子と信じた者は墓から目覚めて天国に渡る。この為に、霊界の存在は否定されて来ました。こう
した教えを表したのがレオナルド・ダビンチの最後の審判の絵。
 だが、イエスがこの世を去って二千年近くも経過しており、神の千年王国とは有名無実。その為
か、霊界の存在を否定するのが基本教義でありながらも、牧師は葬儀の時に死者は主(イエス)が
おられる天の御国に召されたと説いておられます。日本人の死ねば天国の誤りはキリスト教に負う
ところが多いでしょう。それまでは、死者は草場の陰から見守るだったのです。
 主の神は墓を暴いて現れるは別の意味です。日本の霊能者で、位牌山で主の神の墓を探してい
た者もあります。
惡は亞の心。この亞の中の白十字()は王墓の型

 亞(亜)は、王の命令を実行する司令官が王を裏切りって実権を握り、 王を
亡き者として葬った意味。それが、本当の悪(亞の心)人。神々の中で実力を持
った神達(軍の司令官的立場の神)が主の神を裏切ったのです。



主の神の墓
悪をする者は、主(良心を授けた)の神を裏切った

 大本教神諭、一番番頭が悪かった。大本教霊界物語では、神の世界における国常立尊の神政
に対して反旗を翻した神々があり、主の神が御引退する事態が起きたと記載します。主は艮に鬼と
して追われた。すなわち「艮」なのです。
 しかし、墓に葬られたとされる主の神は墓を暴いて復帰されます。地獄の閻魔大王とはその意
味なのです。これらを示したのが悪の字。天に十字の徴が現れた時が最後の審判になり、それよ
り悪は一掃されて神の御国が到来するのです。



悪心は何から発生するのか?

 悪の字は、主の神に仕える重臣達が主の神を裏切ったをことを意味しています。しかし、大本教霊
界物語の中に書かれているようなことが現実に起きたのかどうかは証明出来る様な話ではありませ
ん。
 ただ、世に出ておられる神々には[良心]が欠落している。為に人類は誠や正義の神を見な
い。悪をしても罰する神がいない。せいぜい死後の世界でエンマ大王様に罰を受けるぐらいしか解
っていないはずなのです。

 悪は、いったい何から起きるのでしょうか?。基本的には悪を退治する良心神の欠落から発生
します。自分の魂の良心神がしっかりしていれば、悪など入り込む余地などはないのです。
 旧約聖書は人類の祖とされるアダムとイヴに囁いた蛇を語ります。蛇は直立が出来ないもの。
他の者を救って世根として生きる精神よりも、他の人に頭を下げられずに自分は賢いのだ偉いの
だ立派なのだ。力(権力)や財こそ全てに勝るものだと考えたのです。権力を維持する為に仲間
を増やそうとします。ここに他からの邪(蛇)心が囁きを起こします。
 人が悪に引き込まれてしまう原因は良心神の欠落から起きるとしても、何故にそうした者達には
良心神が備わらないのでしょうか?。それは、自己本位・自分勝手・利己主義と呼ばれるような
[我れ好し]から来るのです。
 自分は他の命の犠牲によって生かされている。そんなことが何一つ解っていないわけです。ともか
く、自分が好きなようにする。耐えるとか我慢することが出来ない。誰も魂に心棒(辛抱)が必要だ
とは知らなかったが言い訳でしょう。それは、勉強不足なのです。魂が[玉型の思惟]だと解って
いれば、玉には心棒があることは理論的に説明が出来ることでした。

 大本教神諭は、他の宗教が説くような人を殺しては行けない。盗みをしてはいけない。そうした教
義をしていません。一貫して、我れ好し(自己本位・自分勝手)を非難し続けたのです。誤って悪を犯
しても償いが出来れば許され来たわけです。
 だから故に、閻魔庁の羅卒である鬼達を節分の煎り豆で追う行為、鬼は外ではなく、鬼は内
を説いたのです。
 しかし主の神より与えられた魂を腐らせたり潰せばどうにもならなりません。そうした者は、
主(艮の魂)の神に対する反逆者なのです。



悪しき(魂が汚れた)者は魅力的

 何故、人は悪から目覚めようとはしないのでしょうか?
 真偽のほどは別として、盗賊石川五右衛門の辞世の句として知られるものは、[真砂の砂は消え
るとも、世に悪の種は尽きまじ]。いくら清く正しくても、そうしたものはやがて減って行きます。その
反対に、清く正しいものを汚して行く悪の種は尽きないと云います。いつの世にも悪貨は良貨を駆
逐して行くのです。
 私達は誰でも知ることに、真面目の人は堅物で一緒に遊んでも面白くもなんともない。つまらない
堅い話ばかりをされます。ところが、悪(魂を汚している者)と云われる人物は非常に魅力的で
す。誰も真面目な者とはあまり付き合おうともせず、不真面目人間愉快人間と遊ぼうとするのです。

心が汚れていると、悪をすることは面白いし楽しい

 こうしたことを云うと必ず反発する人があります。自分で自分の愚かさを判ろうとしない人ほど反発
をするのです。魂から汚れが取れて行くと、真が面目となって軽口やだじゃれが出なくなります。
 魂を汚している人は不思議な魅力を持ちます。若い女性ならば小悪魔(魅力的)となるのです。
堅物の真面目な男性は、そうした小悪魔(魅力)的女性に魅せられて身を滅ぼすのです。

  (未の魂)力=だ汚れから磨かれていない
  天国の住人=真面目で不良から見れば面白くない人

 この世は魂の修行場で、一生懸命に自分の魂を磨いている人達は面白くも何ともない人達。この
世は遊ぶところだとやって来た人達が天国に行けば、何とつまらない世界だと思うでしょう。
獄とは、別に鬼が刑罰を科している世界ではないのです。遊ぶことに熱中する不真面目な人間が集
まる世界。天国は真面目人間以外には堅苦しい世界になるのです。
 不良と呼ばれて遊ぶことや悪事をして来た者が良心に目覚めて真人間になった時、自分は何であ
んなことが楽しかったのか解らなくなると言います。
 真面目に生きることが苦痛ではなく逆に楽しくなるのです。それが解らない間は、未だその魂
は磨かれていないのです。

 真面目人間に質問してください。あなた、それで面白いかい?。必ず、楽しいと云うでしょう。善人
と悪人では価値観が違っているのです。



言は、偽り許されぬ神との約束

 私は神霊界で修業をしていて、どの神様も愛や慈悲をお持ちです。しかし、良心を持っておられな
いとことに気付いたのです。いくら愛や慈悲を持った神々でも、その姿が蛇や狐の姿に変えられて
しまうのは[言]にあると見ました。
 獣の姿に身を変えてしまう[獄]刑。私は学者ではないので、漢字の成り立ちを知るのではありま
せん。日本における漢字研究の第一人者である立命館大学名誉教授である白川博士は、[言]の
字は人々が思っているような生易しい意味の字ではなく、

偽りを許されぬ神との約束

 もしも違反をした時は刑を受けると云う意味だと新聞紙上で語られています。

 私達人類が獣と根本的に違うのは、多くの言葉を使えることです。獣も同類社会においてはコミュ
ニケーションを取る為に多少の言葉は使えますが、人間の比ではないのです。

人類が言葉を使うことは
創造神との契約の中に含まれる

 神霊たる地位にある者が、~は言葉を申し示すの言葉をないがしろにすれば、蛇や狐の姿
に墜ちるのも当たり前なのです。故に、自分が悪かったと涙を流して反省された蛇や狐の御神霊
は元の天人の姿にと戻られて行きます。

 創造~とは、言葉を創られた神

 人々が信仰において、現世御利益を与える蛇神や狐神信仰ばかりしていれば、蛇や狐の身を早く
脱却したいと願っておられる御神霊も、その身を脱却出来なくなります。大本教霊界物語の中で、出
口王仁三郎聖師は霊界探訪で稲荷神たる狐霊に狐霊の身を脱却して人として生まれ出よと云った
のも、そこにあるのです。誠(言葉成る)でないと行けません。



言葉の[言]とは?

 私はここまで~は言葉を申し示す、~は言葉なりきに従って、言葉の仕組みを持って~を説いて来
ました。では、その言葉の[言]とは何を意味しているのでしょうか?。私は学者ではありません。神
霊世界に関わっただけで、漢字一つ一つが光の神記号であることを見て来ました。だから、学者の
説明とか漢字の成り立ちには囚われてはいません。私が漢字から読み取っているのは、その漢字
が持つ[感じ]を読み取っているのです。
 言の意味を知るのには、言の字を横にしないと意味が解りにくいのです。

言を横にすると[]の形


 これは、心と口の組合せ。すなわち、口より出る心を[言]と云うのです。言葉は、私達の口を通し
て自分の心を語るのです。

 では、心とは何でしょうか?。

心の字を少し変えて[]は櫓で進む舟の形


  
    三途の川の渡し船、今度は大海原を渡る大航海
   航海(後悔)に羅針(ラ神)盤を備えた[みろく]丸
   船の舵は、蛇行しないように仏陀の教えで進む

個々の櫓(ロ)を揃えないと、船は前には進めない



灯台元暮らし

 大本教神諭に、綾部の人は灯台元暮らしがあります。一般的に解釈しますと、綾部に宇宙創設の
神を説く大本教が発祥したのに関わらず、綾部の住民はそれを理解していないと解釈してしまいま
す。
 それは、大本教が出した「ス」の大神論ではそうした理解しか出来ないわけです。しかし、同じ大
本教が出した神諭で、九つ花が「米」印と解れば、なるほどと解ることでもあるのです。

後悔(航海)の道しるべの灯台
灯台を守るのは海上保安庁

海上保安庁旗(海上保安庁HPより)

大本教神諭
北を上にする神
海上保安庁が使っているマークは海図等に見られる方位を示すもので、北を上にしているでしょう。

後悔(航海)をする時、良心(羅針)がないと難しいでしょう


エジプトにおける太陽神ラーが乗る太陽の船

人の良(ラ)心神は
心と呼ぶ船に乗る太陽

 大本教が出した「ス」の神論では解りにくいのですが、大本教神諭が予告した「九つ花」に咲く一輪
の言霊の経綸で、「ラ」神論を導き出すならば、意外と理解出来る仕組みなのです。
 ただ、これは「心」が船であるを気付かないと難しいかも知れません。

 何故、蛇の字に仏陀の「陀」と同じ「它」があるのか?
 船の舵に「它」があるのか?。

 心の舵を誤ってはいけない
 


心(言)に国境はない

言葉の言とは、口より出る心のこと。自分の心を告げるのが言葉

 霊の世界のことをよく知らない人が疑問に思う一つに、霊能者は異国の言葉を知らないで、異国
の霊と日本語でしゃべると云う不思議があります。これは、誰かが間に通訳に入っているのではな
いのです。その異国の霊が日本語を知っているのでもないのです。異国の霊能者であれば、日本人
霊の言葉はその国の言葉で聞こえて来るはずです。

 それは、霊は心(魂)であり、心を告げる[言]は自動的にその霊能者が知る言葉に翻訳されて
いるからです。また、その霊が示す文字も日本人の霊能者ならば漢字・カタカナに変換されて見ま
す。言葉は絶対成る神が創りしものとは云われては来ましたが、誰も[言葉]そのものに絶対成る
神の働きを見ようとはしなかったわけです。漢字にしても霊界では神の光。

 かって、世界の戦争の裏には宗教の影がありました。キリスト教・イスラム教・ユダヤ教間の戦争
だけでなく、キリスト教の中においても旧教と新教で戦争をし、イスラム教の中でもシーア派とスンニ
派で戦争をして来たのです。今は、イスラム教原理主義者が何でも神の思し召しと云って世界で無
差別テロに走っています。宗教の教義は競技ではないのです。どれだけ人々に胸の中の[真理]を
語れるかにあります。

 旧約聖書には[人の心の在り方]が何一つ説かれていません。もし、貴方が[心]だけの存在と
なった時、貴方は他の霊の肌色が黒いとか白いとか背が高いとか低いとか美人とか醜いとか考え
ないでしょう。心(魂)が清くて美しいか、心(魂)が汚れて醜いかだけが見えるはずです。
 すなわち、本質的には心(魂)に国境はないのです。人類が国境を創ってしまったのは宗教や言
葉が違っていたからです。世界の人類が一つになるには、まず宗教を一つの神の旗の元に統一を
する。それがもっとも大事なことになります。国(玉を囲う)そのものは民族毎に持つ玉(魂)に格
の違いがあるからであって、魂的には日本国が世界の筆頭国にはなります。

 日本語が世界の他の国と違い、多数の言霊で構成されるのはその為なのです。



言葉で神を判断するサニワ(審神)者


 一般的には知られていないことで、日本神道では現れた神霊がその場に呼んだ正しい霊なのか、
それとも人を騙して喜んでいる霊が出ているのかを判断する作業をサニワ(審神)と云います。霊媒
者に懸かって現れた霊が出す[言葉]を聞いて、その霊が言っている言葉の内容が正しいのか嘘を
言っているのかを判断し、間違った言葉を出した時、その言葉の間違いを追求してその場に現れた
霊の正体を見破る作業です。
 霊が霊媒者に懸かって、わらわは○○大神なるぞ。そんな言葉をまともに聞いて、ハハッーと平伏
しているようであれば尻の毛穴まで抜かれてしまうことになるのです。霊視能力があれば神霊に懸
かられた霊媒者のお尻に大きな尻尾が見えており、この野狐がと笑ってもおられますが、霊視能力
がない審神者であれば命をかけた真剣勝負になります。その為には、審神をする者には博学の知
識が要求されて来ます。
 新約聖書に終わりの時に関して、天の御使が出す言葉は剣となって邪悪なる神達を倒す式の表
現があるかと思います。これらは日本神道で云うサニワ(審神)も同じこと。審神者が出す言葉は悪
神達に対して剣となって行くのです。

言葉が神霊をも裁く、そここに[獄]の意味もある

 この、言葉が神霊をも裁くが解っていない宗教教祖になりますと、その教祖の前に現れた霊が本
当にその霊なのかを判断もせず、その霊が蛇神や狐神であるとも解らずに、その御説ごもっともで、
○○○○霊示集などと称して出版してしまうことにもなりかねません。
 巷には出口王仁三郎聖師霊からの霊示なる本が幾つか出されました。本当の出口王仁三郎聖師
霊ならば、霊界物語第十三巻、信天翁のみのか尾張の国より現れる誠の女子に触れたでしょう。
それを紐解かずして、出口王仁三郎聖師の本当の真価は分からないのです。本当の出口王仁三郎
聖師霊ならば、尻(九尸)を見せて、九の尸(形代)の九つ花を解けと云ったでしょう。



サニワ(審神)の重要性

 霊の世界に関わる時、それが本当にその霊なのかどうかを判断することは重要なことになって来
ます。一般に拝み屋と呼ばれるような方達は、どのようにしてこのサニワ(審神)をしているのでしょう
か?。神霊の御代(御台)として活動される方は、その霊能者の御祭神が呼んだ霊か違う霊なのか
を判断される為にサニワ(審神)はしません。
 問題は、その霊能者が神霊の御代(御台)として活動されている方ではなく、単に霊が懸かりやす
い霊媒体質者に霊が懸かったような場合、サニワ(審神)が非常に重要になります。野狐に憑依さ
れたような霊媒体質者に、これもいい加減な拝み屋と称する者が狐は出て行けと棒で叩いて憑依さ
れた者を殺したなどの事件が起きるのはその為です。
 こうした憑依霊は言葉で追いつめて正体を見破り、見破られたと動揺した憑依霊に般若心経や
天津祝詞で締め上げて行けば普通は退散して行くのです。懸かられた肉体を棒で叩きに行っても出
るものではありません。神霊世界を知らない新興宗教集団が犯す誤りにこうしたことが多いのです。

 日本古来の神道では、このサニワ(審神)を使って神霊界の実相を明らかにしょうと研究されてい
るのですが、私から見ると首を捻りたくなる場面があります。呼んだ神霊に対して、何々の神なる
か。その神社はどこに在り、如何なる格式であるか。その神社において合祀される他の神の神名
は?。
 それらの答えが合致すれば、まさしくその神なりとされます。それでは、正神か邪神か見破りよう
がないのです。そもそも高級霊は魂の格が低い霊媒者には懸かりません。霊媒者はその方の
身魂自体が高い必要があるのです。
 私がサニワ(審神)をする時、そうした質問は一切しません。雑談をして、神霊としての意見を聞く
のです。その意見に良心がないと感じた時は、その言葉は神霊としておかしい答えではないのです
かと追求に入ります。
 私のサニワ(審神)は、どこの神社に鎮座していようとかまわないのです。その神霊が正しい
心の神か、邪の心に染まった神かをサニワ(審神)するのです。
 そうした時、その神霊が如何なる神社の神であろうとも、正しくない心の神霊ならば、その神霊の
心(心境)が主の神の神鏡に獣(獄)の姿として映し出されます。それが、その神霊の心が蛇や
狐等の神であることを語るのです。



大本教が演じたヨハネ(四八音)の役

 丹波の片田舎綾部で発祥した大本教の真の役割は何だったのでしょうか?。大本教が出した
ろはの教えとは、[い〜す]までの47音と結びの[ん]を入れた48音。これは、大本教を研究する者
であれば、ヨハネ(四八音)の意味になることを知っています。解っていないのは本家本元の大本
教の信徒達。
 大本教の出口仁三郎聖師は、時の天皇に対する不敬罪で[1260日間]囚獄に入れられたと残
しています。囚獄から出て来た時、これは新約聖書・ヨハネの黙示録における[ふたりの証人に荒
布を着て、1260日のあいだ預言をすることを許そうの1260日の型と云ったのです。大本教からは
出口王仁三郎と出口なおの二人の証人が出たとも云いました。

大本教の演技は、新約聖書のヨハネの黙示録ではなく
いろはの言霊、四八音(ヨハネ)の黙示録

 大本教は48(イロハ47+ン)音でヨハネの役を演じました。だとすれば、当然に48音(ヨハネ)の
後には、48音でない役の型が出て来るでしょう。

ヨハネの後は、主の一人御子で説く

 私、大本教神諭予告、九つ花に咲く一輪の言霊の経綸を持って、ラの言霊が意味することは主の
一人御子の立場であると紐解いております。すなわち、

神は言葉(言霊)なりき
主の息(いき)子たる言霊の登場
良心神は全人類を救える立場にある



大本教の意義と功績

 西洋で神は[言葉なりき]と云われては来ました。しかし、旧約聖書のどこを見ても、神は言葉なり
きの意味を具体的に説いてある文章はありません。いくらイエスが神童であったとしても、旧約聖
書で絶対なる神の教えを知ることは不可能に近いのです。旧約聖書の致命的欠陥は、言霊が
流(龍)神で命(ミコト)の運びであるが示されていないのです。
 一方、日本ではお題目さえ唱えていればよい式の宗教があります。しかし、お題目を上げていれ
ば何故に不思議な力が宿るのか、そうしたことを何一つ説いてはいません。それでは宗教とは言い
難いのです。そうした宗教界の中で、大本教は[言霊]と呼ばれる理論を打ち出して来ました。それ
は、これまでの宗教が説かなかった目新しい教え。

 その大本教は、創造神を艮金神・国常立尊様と云い。節分の煎り豆に花が咲く。三千世界一
度に開く梅の花。五十五の世の立替。九つ花に咲く一輪の言霊の経綸。美濃尾張の国の中か
ら現れる変性女子。三十五(アナナイ)教。釈迦の悟りを誠印で説く[みろく]等を打ち出しまし
た。
 一見すると、何の繋がりもないことを打ち出したように見えていましたが、大本教神諭が予告した
九つ花に咲く一輪の言霊の経綸がお釈迦様の悟りを得る為の[九の魔王陣]の仕組みで、一輪の
言霊の経綸が[ラ]であると解けたならば、旧約聖書が説いて来た本当の中身が何であったの
かも解るようになっていたのです。
 それは、西洋の人々の口には語られて信仰されていても、日本人は退かせてしまった[主の
神]が存在することを日本語の言葉の仕組みで教え来ます。大本教が世に出したことはあまりに
もスケールが大きく、人智では及びもつかなかった為に今日まで大本教は正しく評価されなかった
とは言えるでしょう。
 大本教出口なお開祖と出口王仁三郎聖師の大活躍で、私達日本人は森羅万象ことごとく創
られた神が、日本の国祖大神・国常立尊様であったことを教えてくれました。



大本教から人々にヒント

 大本教が出した節分の煎り豆に花が咲くは、大本教神諭が予告した九つ花に咲く一輪の言霊の
経綸を[誠]で解読しない限り、誰をもってしても紐解けるものではありませんでした。
 まして、中国で天子とされた来た盤古大神に拝謁しなければ、ひら仮名を漢字に変換など解る術
もなく、私が体験したヒンズー教ヴェーダ典の人の中に眠るコブラが目覚めて走り上がる時、人は真
理に目覚めるは、阿含宗の桐山管長さんが古今東西の宗教家でそれを体験した者はいないのでは
ないかと著本に記されたほどの出来事。人類を唆す原罪となった蛇を帰(巳帰る)しておかない
と、九つ花の真ん中は見えては来なかったでしょう。

 大本教は人々に面白いことを教えて来ました。それは出口王仁三郎の名前。出口王仁三郎の本
名は上田[喜]三郎。それを、大本教の神は[鬼]三郎にしろと命じた。喜(キ)が鬼(キ)の段階は誰
も何とも思わないでしょう。ところが、喜三郎は鬼(オニ)ではあんまりだと王仁(オニ)にしてしまっ
た。いつの間にか[喜]が[王仁]になってしまったのです。
 節分の夜に鬼は外と煎り豆をぶつけられている艮(牛虎)が、いつの間にか[魂]のことになり、魂
の芯(草として生きる心)は[ラ]であり、それはお釈迦様が悟った人には良心と呼ぶ神が内在する
の良(ラ)心神につながりました。今日まで退いていた艮に点(天)を差し上げると、良(ラ)の神とし
て復帰されることになります。

 今の大本教には[誠]が何であるか解る幹部がいません。誠の教えを無視して来ますしか
し、自分で大本教神典を真剣に勉強されると、出口王仁三郎が言ったように各自の宝を見つけるこ
とも出来るのです。私は大本教信徒ではなく、日本の神達からは[言葉の君]と呼ばれる部外者
にしか過ぎません。言葉の教えで成る[誠]の者。

 神霊界で修行中、出口王仁三郎さんの霊にお世話になったので、この場を借りて御礼を申してお
きます。



良を大きく示す奈良から国道三六九

 大本教の出口王仁三郎聖師は、霊界物語第十三巻の信天翁の中で、この大本教に現れた変性
女子はニセ者だ。待っていたならばみのか尾張の国の中と発表しましたが、これで国道41号線の
高山と気付いた人達はいます。だが、大本教のスの神論の[ス]は、富(十三)山までは智恵も回ら
なかったはずです。十三(富)山には神に通じる神通川が流れるのです。
 大本教が演じたイロハの仕組み。出口王仁三郎が演技した熊野の素戔嗚尊は、熊野に入る国道
168(いろは)号線。では、国道369(九つ花の総和)号線はどこにあるのでしょうか?。

きくすの奈良(大示良)にあり
みろく世の[公]であるの松阪に向かう

 奈良の横には天理教の天理市。天理市は、元々は丹波市。本当の丹波で咲いたのが大本教。
が、こんな面白い仕掛けをして来たのでしょうか?。偶然では片付かない話。大本教神諭、三
千年の経綸を必要とした。
 私は子供の頃、誰に云われたのでもないのに、自分は優曇華に花を咲かせる者と思っていまし
た。優曇華は三千年に一度開く珍なる花とされています。艮金神・国常立尊様が三千年の月日をか
けて仕掛けられた珍なる仕組み。私は三千年に一度開く優曇華の花を咲かせたことになったの
でしょうか?。実に珍なる花。
 神霊界に修業に入り、神々から貴男の本守護神は国常立尊様であり、貴男は[言葉の君]とお呼
びする御方。世界中探しても貴男に教えが出来る神などはいない。貴男の言葉による教えは天の
帝の勅令と同じ意味を持つと云われ、神々も知らない道(未知)を切り開いて来ました。
 日本の国に満ち溢れている日本語から天の理の解読に[25]年もの月日を必要としました。大本
教開教は明治25年。天理教の天理市は国道25号線。私は25年の月日。ようやく、発表出来ると
ころまで漕ぎ着けられました。

美濃尾張の国の中、[ラ]神を出す国道41号線
素戔嗚尊の熊野は、[イロハ]の国道168号線
天理の[良]を知る、[ミロク]の国道369号線
偶然で片付く問題ではないようです。


戻る
戻る