第十四章・~(示申)は言葉で申し示す

 私達がふだん何気なく使っている日本語。その日本語そのものに、こうした神
の教えがあったなど誰も知りませんでした。
 今日まで、誰もこんな不思議なことが言葉に示されている等とは及びもつか
なかったことです。考えもしないことです。
 私は人類の誰一人として歩いたことがない道を歩いて来ました。否、今も歩
いています。この世の命を終える日まで歩き続けるでしょう。この道を言葉で成
る[誠]の道と云います。

      何故、私は日本語の仕組みを読んで~を語れるのか?
      そこには、私自身が辿った摩訶不思議な体験がある
      その体験をなくして、こんな不思議なことは出来なかった

      私は私の身に起きた出来事を信じてくださいとは言わない
      人に語っても、とても信じて貰えるような出来事ではない
      私が歩いた道を、どう取るかはそれぞれの人の考え方
      ただ、言葉による不思議な教えが出来た道を証す



私に臨んだ旧約聖書の神と名乗る神

 私が小学校二年生位の頃。何故か夜空の星々を見つめて、肉体の父母は優しく、その恩は山より
高く海より深いけれども、天にまします我が魂の父母の元に帰りたいと泣いたのです。幼い頃から、
自分は天上世界から何等かの使命を帯びて、この世に生まれ出たとは感じていました。すると、私
に姿を見せずに声だけで臨まれた神があるのです。

 その神は云われる。私はこの世の幕を降ろすにあたり、そなたをこの世に遣わした。そなたは
人類を救い出しなさい。もし、人類を救えないのであれば、そなたも天に戻る必要はない。地球と呼
ぶ星で永遠に暮らしなさい。
 私は子供心にも驚いて、その神に言いました。私にはこの世が終わるなど、とても信じられないこ
とです。それに、私がその日まで生きている保証もないでしょう。病気で死ぬかも知れない。明日、
事故で死ぬかもしれないでしょう。
 すると、その神は答えられた。そなたは終わりの日に立ち会う。そなたは地球号と呼ぶ船の船
長。そなたは船に乗っている者達を安全に下船させた後、そなたも地球と呼ぶ船から離れる。私は
そなたを最後の者とした。
 私は新しい世(幕)を開くに当たり、それまで社会の底辺にいた者達を登用する。人の上に立
つべき者が社会の底辺の者の苦しみを知らないでは、世の中は何時まで経ってもよくならない。私
はそなたを社会の底辺に置く。そなたは社会の底辺を這(言の道)ってでも生き、人の心の在り方
について学びなさい。

 私はそれらの話を聞き、この世の幕がいったんは降ろされても新しい世が開かれると知りました。
それで一安心したのですが、いったいこの神はどなたであろうかと疑問を持ち、私は尋ねました。貴
方はどなた様ですかと。
 すると、その神は答えられた。私は私であり、永遠の神。旧約聖書の神であり、そなたの神。当時
の私は子供であっても祖母が買ってくれた平凡社の百科事典を読破しており、いろんな知識を持ち
合わせていました。だが、旧約聖書の神との名乗りには首を傾げるしかありませんでした。仏教徒
の日本人にはあまりにも関係がない神の名であったからです。



魂(心)の輪廻転生

 私が小学校三年生の時、父親が不治の大病になり京都の病院に長期入院となりました。母親が
付き添い、私も京都市に行くことが多く、学校も長期に休む状態でした。為に、私に旧約聖書の神と
名乗る神の教えが臨むことはありませんでした。父親の死後、母親と赤貧の苦労。その間も何事も
なかったのです。貧苦の中と云えども生活が落ち着いた小学校五年生頃から、旧約聖書の神と名
乗る神から私に対する教えが再開しだしました。

 人は生まれては死す。また、生まれては死すを幾度か繰り返す。されど、前の世のそなた。今
の世の親を前の世の親とはしていない。前の世とは生まれ出た環境も違えば、顔も背丈も違う。友
や兄弟達も違って来る。同じなのは、前の世のそなたと今の世のそなたの心は同じ。次の世に
出るとしても心は同じ。この世を去れば、次の世に同じ環境が再現する等はない。そうした意味で
は、肉体は死ねば終わりとは言える。魂が生まれ変わる。
 人はこの世に魂を磨く為に生まれ出て来る。魂の世からこの世に修行に出る。人が過去世の
自分を覚えていないのは、覚えておくと魂の修行の邪魔になるからである。自分で自分の前世を知
らず、自分が為した偉業も覚えてもおらず、前世の自分を尊敬することも起きる。人は自分の一生は
一回限りと思うことから力も振るえる。
 
 これらは輪廻と云う言葉こそ出されませんでしたが、明らかに[輪廻転生]の教えでした。学者だ
けでなく、霊能者と呼ばれる方の中にも仏陀の教えは間違っており、輪廻転生などはないと云われ
る方があります。
 しかし、人だけでなく犬や猫でも全て生まれながらに性格の違いがあります。そうした性格の
違いは何故にあるのかを何一つ検証をされていないのではないでしょうか?。自分は優れていると
思い上がった心は自分の目を閉ざしてしまうのです。 
 しかし、旧約聖書の神と名乗る神から[輪廻転生]論を聞くなど、何とも不思議な話でした。



日本は私の教えが満ち溢れた国

 私が小学校の五年生位の頃。旧約聖書の神と名乗る神からの教え。

 この国は私の教えが満ち溢れた世界で唯一つの国。この神の教えを学ぶのに外国の書物を
必要とはしない。しかし、私の教えは世界のどの宗教書にも載ってはいない。
 旧約聖書は私の書ではあるが、そのままに読めば意味を間違える。教えを隠し秘めてあるだ
けである。新約聖書は人の子達が為した書で私の書ではない。私の教えは日本神話や日本の民
話の中にこそ秘めてある。そなたは日本の神話や民話で私の教えを学びなさい。

 私は旧約聖書の神と名乗る神から、自分の教えは日本神話や日本の民話の中にあると聞かされ
て、いったいそれはどういうことなのだろうと首を傾げました。だとすれば、日本の天の岩戸開け神
話や素戔嗚尊の八岐大蛇退治神話や出雲神話など、全て旧約聖書の神と名乗る神が仕組ん
だことになります。本当だと、たいへんなことなのです。
 その神は私に云われました。ナザレのイエスは千年級。マホメットや弘法大師は六百年級。そな
たは三千年の者故に、イエスの教えを何一つ恐れずに乗り越えよ。そなたは日本の国の天使長
たる立場の者。

そなた一人だけがこの神の仕組みを知る者となる

 そなたの前にそなたと同じ道を歩いた者はおらず。そなたの後にそなたと同じ道を歩く者も出な
い。そなた一人のみ。

そなたには、人類の誰一人として歩いたことがない道を歩かせる

 もし、そなたが神の教えを間違えたならば、それはそなたの責任ではない。私の仕組みそのもの
が悪かったことになる。そなは私の仕組みを書記して、人々に告げなさい。
 私はそうしたことを聞いて、この日本に何等かの仕組みがなされていることを知りまし。しかし、日
本国中に私の教えが満ち溢れているとは、どういうことなのかさっぱり解りませんでした。
 しかも、書記するとは?。



人の一生とは魂の修学旅行の様なもの

 魂の輪廻転生と同じ時期の同類の教え。その中の一つに人の一生についてがありました。

 人の一生とは長いようで短い。人がこの世に居る時間とは、永遠性の命を持つ魂の世界から
見ると修学旅行に出たような僅かな時間にしか過ぎない。その修学の場で、多くの魂と触れ合っ
て学んで行く。魂の縁を結ぶ。そして、この世を去って魂の故郷である魂の世界にと帰って来る。
魂の世界に帰って来ても、この世で出会った魂と再び巡り会えるとは限らない。この世では、魂は
旅人と同じである。
 人は僅かな修学の時間で何もかも学べるものではない。全ての喜び、全ての悲しみ、全ての苦し
みを体験することなどは出来ない。自分が学べなかった体験も、他の者が学んでいたりする。他の
者が学んだこと、他の者が犯した過ちなどを知り、全て自分の学びの糧としなければいけな
い。他の人の体験を否定しては行けない。
 魂を磨く為に出た僅かな時間の修学の場で、修学することを忘れて遊び回ったり、刹那心に溺れ、
自分の魂を汚したり、永遠性の命を持つ魂を腐らせてはいけない。魂を潰したり腐らせたならば、
その魂はいったい何の為にこの世に生まれ出たのかとなる。生まれ出た価値がない。それな
らば、最初から生まれ出ない方がよい。
 人の一生においては、いろんな出来事が起きる。それは、映画の中の一コマのようなものにしか
過ぎない。過ぎ去れば思い出である。その一コマ一コマの場面に縛られてはいけない。それを持っ
て人を云々しても行けない。

人はその一生を終えた時、魂がこの世で何を学んで来たかが問われる
 それが、一番重要なことである。と告げられました。

 私達にとって一番重要なことは、この世で何を学んだかにあるのです。これは、エンマからの
質問事項になるのです。



人の定め道(宿命)は多少は変えられる

 前稿と同じ頃のある教え。

人はこの世に生まれ出るに当たって定めの道(宿命)を歩いて行く
人としてこの世に生まれ出るのは、魂に宿題が課せられているからである
に対する宿題、宿命)。
 だが、人の運命は絶対に変わらないと云う一本道ではない。運命には、ある程度の幅がある。ど
んな道でも別れ道がある。常に広いを道を歩いて行くならば、その運命はさほど変わらない。しか
し、その道の途中には枝のような小道もあれば、右に行けばよいのか左に行けばよいのか解らない
ような道幅の道も出て来る。
 うっかり大道を外れて小道に入れば、その道は獣道であったり、途中で道が消えたりする。その時
は、その道を進んでは行けない。必ず元の大通りまで引き返すことである。そのまま道無き道を進ん
だり獣道を行けば、道を踏み外して大怪我をする元になったり、定められた命の時間より早く命を落
とすことにもなる。
 右に行けばよいのか左に行けばよいのか解らない道に来た時は、そのどちらの道を選ぶか
で人の運命は大きく変わる。運命の変化点である。人に必ず運命の変化点がある。右に進めば
どうした将来があるのか?。左に進めばどうした将来になるのかが解らない。その道を行けばどう
なるのかを見通せるのは神のみである。
 神が人間に対して介在出来るのは、その分岐点でどちらの道を取らせるかの時だけである。
日常的に神は人に介在するものではない。介在しても意味がない。人が神を信仰して救われる
は、運命の分岐点に来た時に、どちらが良い道であるかを導いて貰うことにある。それが守護
に就く神の役目である。

 この教えは、人がこの世に生まれ出るのは魂に宿題を背負っていると云うことです。これが魂は
生の為に甦りであり、仏教で説くカルマ(業)を背負っていると云うことになります。



人の下座に座りなさい

 前稿と同じ頃のある教え。

 そなたは、人の下座に座りなさい。人の上に座ろうとしては行けない。人の世で一番上に立てる
ほどの者が誰よりも人の下座に座っていたならば、どうなるであろうか?。新しい世に向かって、ど
れだけ人の下座に座ることが出来るかの競争である。
 自分は偉い者だ立派な者だ。人の上に立とうと思うから人は道を真(間)違える。そなたを見損な
った者は、そなたより上に座りたがるであろう。そなたはそうした者を下座で笑って見ておればよい。
人を見抜けぬ者は、所詮それだけの者。人の下座に座っているそなたを見て、そなたより下座に座
ろうとする者は見上げた者である。

 私を見た幾人かの霊能者は、貴方は救世主様かキリストかと尋ねられました。私はそうした質問
には一切答えません。何故ならば、私に臨まれた神は告げられたからです。

 私は、そなたの本当の正体を神々には告げない。そなたにも教えない。そなたはあまりにも心
根が優しい。そなたの正体を明かしてしまえば、立身出世だけを願う者がそなたを利用しようと周囲
に集まる。そなたは優しすぎて、そうした者達の魂胆が見抜けない。それではそなた自身が道を間
違えてしまう。そなたが本当は誰であるかは最後になれば解ることである。その日まで、そなた
は社会の底辺でバカを演じていればよい。

 成長して大人となり神霊界で修行を続けていて私に解って来たことは、私は奇跡(魔法)を見せ
て神を説く救世主と呼ばれる様な者ではないということです。
 誰も彼もに奇跡の魔法を見せて助けることなど出来ないのです。私には何の神力もありません。
自分の親ですら助けられない不甲斐ない者。ただ、私より下座に座ろうとする人達は新しい世に上
(神)に登用されて、私より上座に座ろうとする人達は上には登用されない。それだけのことなので
す。私は社会の底辺で牛糞身分の者。



そなたにはボロ服と私の心を授けよう

 前稿と同じ頃のある教え。

私はそなたにボロ服(人よりも劣った肉体)を授けた
その代わりに、私はそなたに私の心を授けた

 世の中にはそなたのボロ服(人よりも劣った肉体)を見て、そなたを見下す者が数多くあるであろ
う。人を見て、外見でしか人の価値を見ようとしない者。それは、それだけの心(魂)の持ち主
にしか過ぎない。永遠に永遠の神など見ることも出来ない者にしか過ぎない。と告げられました。
 
 備後風土記における蘇民将来の逸話。神は乞食の様な貧しい姿で現れるで、乞食の様な姿をし
ていた自称救世主と名乗る霊能者がいましたが、ボロ服はボロ服でも魂が着る肉体が人より劣った
ボロ服もあるのです。
 確かに、人より劣った肉体を貰っているとそれだけで私をバカにする人達は数多くあります。所詮、
それだけの魂の持ち主でしかないのでしょう。一方、人を外見でなく内面で判断する人達は心の美
しい人達が多いのも事実でした。
 私は小学生の頃、通信簿に正義感が強すぎると書かれ、担任の教師からあまりにも正義感が強
いと水清ければ魚住まずと言って、社会に出れば苦労します。正義感は貴方の為にならないと注意
されたほど。
 神霊界に修業に入って、蛇や狐の神達は私の正義感の強さにほとほと手を焼かれたでしょう。
自身、神霊界に修行に入って神々が出す嘘の言葉に頬被りしなければ何の神力も授からな
い。霊能者として世には出られないを知りました。だが、私は私の魂を誠と正義の神以外に売
るわけには行かないのです。為に、私はどの神霊にも仕えずに神界の浪人生活をしています。

 私は良心を意味する神(ラー)から良心を授かっていた

 だからこそ、ラ神論に辿り着けたのです。 



松の大木の根元を見る者となれ

 前稿と同じ頃のある教え。

 人は海岸の長年に渡り風雪に耐えた見事な大木の松を見て、その枝振りや木肌の荒々しさを誉
める。だが、誰も松の大木の[根元]を見ようとはしない。そなた一人だけでは、松の根元を見る
者とならなければならない。
 私は子供心に不思議な教えだなと感じました。神霊界に修業に入り、大本教神諭に接した時、松
の世で治める文章に触れて、子供の時に告げられた[松の根元]の意味を深く考えるようになりまし
た。九つ花に咲く一輪の言霊の経綸が何かと解った時、ようやく私にも松の根元の意味が解けたの
です。

松は[公]、根元の神は[公]で治める

 世間には、あの人は良い人だと誰も彼もから思われている善人の仮面を被った夜叉がいます。な
かなか人の内面まで見られるものではありません。しかし、意外なところで判断がつくのです。それ
は、私的な面では善人の仮面を被ることが出来ても、[公]の面でモロにその魂の本質が出てしまう
のです。それは、誰も[公]の意味が解っていないからです。
 根元の神が教える良心神とは、世間の人があの人は良い人だと評価していることとはまったく違う
のです。[公]に関して善行を積んでいる人達が良心が備わった者。見せかけの善人に良心など
は無いのです。

 最近、公務員社会の不祥事が次から次えと報道されるようになりました。公務員でどれだけの者
が[公]を認識しているかとなると、認識していないから不祥事を次から次えと起こすのです。今の公
務員世界はエリート制度を廃止しない限り、国民の為の真の役所に生まれ変わることは出来ないで
しょう。人の心は机上では計算出来ません。自分が社会の底辺に降りて見て、初めて人の心が見え
て来るのです。



スサノオノミコトと呼ばれて???

 私が小学校五年生位の頃、虐めっ子に泣かされて泣いていると、どこからとなく声が聞こえて来ま
す。その声は、私に向かって泣くなスサノオノ、そなたが泣けば地球が泣く。悪ガキ達の行為に怒っ
ていると、怒るなスサノオノ、そなたが怒れば地球が怒る。私は泣くにも泣けず、怒るにも怒れませ
んでした。
 私は旧約聖書の神と名乗る神から、私の教えは日本の神話に秘めてあると聞かされていました
のでスサノオノ神話を読みましたが、スサノオノ神話に出て来る素戔嗚尊は私の性格ではありま
せん。完全に性格が違うのです。私は根本的に泣き虫で暴力が嫌いです。正義の為なら戦いもしま
すが、戦いは好まないのです。
 どうして、こんな荒ぶった神の名で私を呼ぶのか?。ただ、自分の魂は宗教家の魂ではなく、本来
は武人の魂で軍の監察官(法務官)的なものであることだけは解るのです。武人の魂。
 私は神霊界に修行に入って、日本の神達から貴方は[言葉の君]と呼ばれて正直なところホットし
ました。日本神話の中の粗暴な素戔嗚尊と一緒にされたのでは困惑をするだけです。
 しかし、旧約聖書の神と名乗る神は何故に私をスサノオノと呼んだのでしょうか?。日本神話に立
ち返って考えるならば、スサノオノ命とは伊邪那岐命が禊ぎされた鼻から生まれた貴い神。鼻?。鼻
は何の為にあるのか?。鼻は息をする為にあります。息の字は自らの心。鼻は花に通じます。花
(鼻)で示される主の自らの心(息)?。
 そして、スサノオノ神話で示される八岐大蛇退治は頭は八方向でも胴は一つで、胴から取り出す
神の剣。出雲神話で告げる八十一柱の神達の親神。
 すべては、

大本教神諭予告の九つ花に咲く一輪の言霊の経綸

につなげてありました
 大本教出口王仁三郎聖師。救世主はスサノオノ命とか源の義経とか、獅子奮迅の活躍でした。九
つ花の仕組みが解っていても、説いてはいけない立場のもどかしさの中におられたではないでしょう
かと推察をします。



神の芝居の筋書きは、神のみが知る

 大本教の出口王仁三郎聖師は、霊界物語の中で大本教の演技は神の世界の大芝居。開祖や自
分はその芝居の中程迄を演じた役者である。この芝居には後があるとも述べておられます。当然に
中程迄であれば、この芝居には後があるわけです。私が子供の頃、姿を見せずに私に臨まれた永
遠の神、旧約聖書の神と名乗る神はあることを言われました。

 この私が演出する神の世界を舞台にした大芝居。観客は神々や人民。その筋書きは神々や
人民、その舞台に立つ役者すら知らず。その筋書きを知っているのは私のみ。役者は与えら
れた役を演ずるのみ。
 神の世界を舞台にした大芝居。役者には正義の役もあれば悪役もある。悪役も立派に演じきっ
たならば、次の舞台で正義の役もある役者は舞台が終われば化粧を落して素顔に戻る。芯から
の悪党では役者として使えぬ。
 そなたはこの神が書いた舞台の最終幕を飾る役。その舞台が終われば、次の舞台の幕開けをす
る。私が演出する神の世界を舞台にした大芝居。すべての舞台の幕が降りた時、神々も人民もそ
ういう筋書きだったのかと初めて解るだろう。拍手大喝采の大芝居である。

 大本教神諭には、世の立替があることはどの神も解りておれど、モウ一厘の肝心の事は解りてお
らぬ(明治25年旧2月3日)。神も人民も知ったことではないと記されます。
 私は神霊界に修業に入って、神々に世の立替(最後の審判)に関して聞きました。神々の返事
は、世の立替が起きることは解っているが、その時期がいつなのか、どうすれば人類を助ける道が
あるのかが解らない。助ける道が解るまで、この件には触れない方がよいと忠告されました。主の
神しか芝居の筋書きが解っていないのです。
 しかし、旧約聖書の神と名乗る神は最後は拍手大喝采と云われていましたので、私もその舞台
の役者を筋書きを知らずに演じるしかないわけです。

舞台の悪役も幕が降りれば、違う役が来る



言葉の君と呼ばれて!

 人の世の習い。私も成長するにつれて子供の頃に旧約聖書の神と名乗って教えをされた神の存
在など忘れていました。
 昭和五十五年、私の身に起きた摩訶不思議な出来事から、子供の時の出来事の数々を思い出
し、覚悟を決めて神霊界に修業に入れば、日本の神達、貴方の本守護神は国常立尊様。あなたは
[言葉の君]と呼ばれる貴い御方で、貴方に教えが出来る神などどこにも存在していない。逆に、貴
方は神達に教えをなされるほどの御方。

貴方の言葉による教えは天の勅命(詔)と同じ

 如何なる神であろうとも、貴方の言葉による教えに従わなければなりません。貴方の言葉による教
えを聞けない神は天に対する反逆罪となり、やがては天の帝から裁かれることになるでしょうとまで
云われました。
 私が子供の頃、姿も見せずに私に臨まれた神は旧約聖書の神と名乗られました。日本の神達
は、私の本守護神は日本書紀で創造神と記されている[国常立尊]様だと云われます。言い方は違
っても同じ立場の神。
 私は私が子供の頃、姿を見せずに私に臨まれた神を旧約聖書の神と思っているわけではない
のです。仮にそうだと仮定したならば、私が子供の頃に聞いた、この国(日本)は私の教えで満ち
溢れているは何のことだろうか?。人類の誰一人として歩まなかった道?。そんな道があるの
であろうか?。
 私の言葉による教えは、天の帝の勅命(御言)と同じと日本の神達は云われます。天を支配する
神の言葉による教えとは?。私には解らないことの連続でした。
 だが、貴方に教えが出来る神など存在しないと云われてしまえば、私は誰(何神)をも頼ることが
出来ません。私だけに見せると云われた旧約聖書の神の仕組みとは何だろう?。私はその意
味を考え続けました。
 それにしても、言葉の君など聞いたこともない名前。いったい何者なのか?。不思議な話ばかり。



言葉の君とは?

 私は日本の神から貴方は[言葉の君]と呼ばれ、言葉の君とは何者かと調べたところ、不思議な
内容のものがありました。それは、
 ユダヤ人でなく、異国の人が異国の言葉にて主を語る。その人は、その異国で[言葉の君]
と呼ばれている。その人は自分は主を知らないと言うが、主はその人のことをよく知っていて、
終わりの日、主は言葉の君を主の元に呼ぶ。その時をもってユダヤ人は救われる。とされるも
のがあったのです。

 私がその人物に該当するのかどうかは判りませんが、その異国の言葉は日本語だろうかと考えま
した。異国の言葉で主を語るとは、どこかで自分は救世主だとか仏陀の生まれ変わりだと名乗って
いる人が喋る言葉のことではなく、言葉そのものの仕組みが主を語っているのではないだろう
か?。と考えたのです。
 子供の時、私に臨んだ旧約聖書の神と名乗られた神。この国は私の教えが満ち溢れている。
本の国に満ち溢れているのは日本語。国常立命とは、国に常に立つ御言。日本語こそ、主を
語れる言葉そのものではないか?。でした。
 しかし、今日まで誰も言葉そのものが主の神の語っているなど誰一人及びもつかなかったこと、ど
こに何が書かれているのか?、道なき道を進むことになってしまいました。

 大本教の出口王仁三郎聖師は面白いことを云っています。独国の如意宝珠。その殻玉は独国に
埋められたが、その精は日本から発動をする。

ドイツの人ラー(ヒトラー)は、ユダヤ人を殺してしまえ
神ラーは、人の良心を見ない猶太教なら潰してしまえ

 人は獣ではありません。助け合って生きる者達です。旧約聖書?。しょせんは紙に書かれたもの
にしか過ぎないのです。紙に書かれたものや偶像では人の心は育ちません。旧約聖書の預言者
達。その中にどれだけの者が本当に神の声を聞いたのか?。ものすごく疑わしいのです。ニセ預言
者がばっこしています。猶太(ユダヤ)とは、言葉の尊(命)を獣化した猶の国。


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