私達が何気なく使っていた日本語に、まさか、こんな教えが秘められている
等と誰一人考えたことはなかったはずです。しかも、大本教の出口王仁三郎聖 師が云ったように、人として歩かなければ行けない[道]が言葉で示されていま した。
幼き日、私に臨まれた旧約聖書の神と名乗る神が云われた内容は、この国
(日本)は私の教えが満ち溢れた世界で唯一つの国。私の教えは、世界のど の宗教書にも載ってはいない。旧約聖書は私の書であっても秘め書である。 新約聖書は人の子達が為した書で、私の書ではない。私の教えは日本の神話 や民話やわらべ歌などに秘めてある。
大本教神諭、日本の霊(ひ)の本には一厘の秘密が致してありて、世界の人民の判らん智恵や額
で考えても、悪では何でも出来ん事があるぞよ(大正4年旧11月6日)
出口直に明治25年に申してある事、この大望な経綸の致してあることを、世界に一人知りてお
る。誠の人はこしらえてあるから、この誠の人が出て来んと解らんぞよ。綾部に九つ花が咲いたなら ば、万古末代枯れぬ花であるぞよ(明治31年旧12月26日)
私達日本人の大部分は仏教徒です。しかしながら、お釈迦様が説かれた教えは小乗仏教であっ
て、私達日本人が仏法として教えられているのは大乗仏教と呼ぶお釈迦様の悟りとは別物の教え です。
小乗仏教とは、お釈迦様と同様に修業を積み、お釈迦様が悟られたことを自分も悟って行く自力
信仰の道です。そうした時、自分だけが悟りを開いて助かれば良いなどは狭い考え方だとして、より 多くの人を助ける為にと大乗仏教が起きて来ました。
しかし、大乗仏教はお釈迦様の悟りの結果論を言葉で説くだけであって、悟りの道に至る過程そ
のものを見失ってしまうことになったのでしょう。お釈迦様の悟りだと悟りだと説いている者が、本 人はその悟りに至る過程の道を歩んではいないわけです。
また、お釈迦様は偉大なる覚者であっても、お釈迦様はこの世を創造し森羅万象悉く創られた御
方ではありません。その点を踏まえずにお釈迦様、お釈迦様だけでは間違えることになるでしょう。
西洋では、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教、旧約聖書を母胎とする三姉妹教は同じ旧約聖書の
神様を説きながら、宗教間で教義を巡って骨肉の争いを続けています。これは、キリスト教、イスラム 教、ユダヤ教の教義は[真理]から離れている為に教義で戦うことになってしまったと言えます。
イスラム教の開祖マホメット(ムハンマド)は、イエスはアブラハムと同様の預言者だと云ったことか
らキリスト教徒とイスラム教徒は犬猿の仲にしまいました。
イエスが旧約聖書の神が云われる主の一人御子であろうとなかろうと、キリスト教はイエスを主の
神の一人御子と信じることで救われるとする典型的な他力信仰になっています。イエス一人に罪を 押しつけて自分は罪から逃げられると考えた時、その人は主の神とは遠ざかっているでしょう。
一方、イスラム教の開祖であるマホメット(ムハンマド)は神の下僕に徹しました。イスラム教徒
は、この世に起きる良いことも悪いこともすべて神の思し召し、どうか貴方に神の御加護ありますよ うに(インシャラー)と祈ってくれます。この点に関してのみはイスラム教の方が素晴らしいと個人的 には感じます。
大本教の霊界物語の本編は全編に渡って主の神の教えを三五(アナナイ)教としました。私はこ
のホームページの最初において、三五(アナナイ)教をお釈迦様の穴無いの修業としました。それを いぶかる方も出たでしょう。それは、このホームページを読まれた方を最後まで引っ張って来る為の 方便でもあったわけです。
最初から三五(アナナイ)教の意味を出すと、皆さんは良心神の意味が理解出来なかったはずな
のです。
通常、アナナイとは[麻柱]を意味します。日本神道においては、最初に身の汚れを祓う修祓を行
います。この道具を[祓い戸]と云います。棒(柱)に麻をくくりつけた麻柱。
すなわち、アナナイ(麻柱)とは身の汚れを祓う手段のことになります。魂の中に出来る心棒(良心
神)は、魂に着いた汚れを祓うことが出来るわけです。
竹取物語では意味が違う麻柱(アナナイ)なりますが、人はみな麻柱(アナナイ)こわして帰り来
ぬ。天に帰りたくても、アナナイをこわしているならば天には戻れないわけです。
日本神話では、この日本の国を切り開いたのは大国主命様とします。その大国主命には八十柱
の兄弟神があり、合計八十一柱の神によって創られた日本の国。その真ん中となる柱が[大黒]柱 となります。
日本神話では、天は大国主命に日本の国を天照大御神に渡すように命じられた。真ん中の大黒
柱・大国主命に代わって日本の国を治めたのが天照大御神。
私達はこうした事実を知りませんでした。81の神柱。その大黒柱を太陽神(ラ)に譲った。
古代の日本語の並び(ひふみ祝詞)
ひ、ふ、み、よ、い、む、な、や、こ、と、
も、ち、ろ、ら、ね、し、き、る、ゆ、ゐ、
つ、わ、ぬ、そ、を、た、は、く、め、か、
う、お、ゑ、に、さ、り、へ、て、の、ま、
す、あ、せ、え、ほ、れ、け(41番目=す)
大本教神諭にはダルマ大師として現れたがありました。この意味は壁面の九年ではなく、壁面の
九つ花であり、真理(ダルマ)を告げる意味でした。しかし、私達はダルマと云えば
真理(ダルマ)は、過去に七度転んだのでしょうか?。
今の世は七度目の世と云われています。それを表すのが七色の虹。大本教霊界物語には、紫陽
花(あじさい)の七変化とあります。七度目の世。
私は旧約聖書の神と名乗る神から、旧約聖書は私の書ではあるが、書かれてあることをそのまま
に受け取るなと教えられていましたので、主は七日間で万物を創られたなど信じてもいないし、七日 の意味を考えることもありませんでした。霊的に創造されたものが現実世界を創るには、途方もない 時間を必要とします。想うだけなら瞬間の話なのです。
世が代わる都度、霊(0)界が先に立ちます。すなわち、[0000000]が七つもついたのです。九
つ花は、八十一柱の言霊(観音)神があることを意味します。すると、81柱×7度目に霊界の[000 0000]がついて56億7千万の数値の意味を秘められます。
これまでは81柱の言霊神達が並ぶ組み方が悪かった為に、不完全な世となっていたと言えるで
しょう。しかし、真ん中に「ラ」神が入ることで縦横斜めに完全な三六九の配置が出来るのです。そ の結果、完全に八方向に起きることが可能となったダルマ(真理)なのです。
大本教の出口王仁三郎聖師は、日本で本格的に言霊と呼ぶ存在を世間に教えました。大本教自
体の演技は[ス]の神論で、ニセ型ではありました。しかし、出口王仁三郎聖師の功績で、世間には 大本教信徒でなくても出口王仁三郎師を崇拝し、大本教の教えを学ぼうとする人達が数多くいるで しょう。大本教が出したのは[イロハ]の教え。私は[アイウエオ]で説明しています。イロハでは九つ 花に咲く一輪の言霊の経綸の[ラ]神論は出せませんが、イロハでもアイウエオでも日本語の結び は[ん]の字。最後は結ばないと行けないでしょう。ん・ンの源字は[无]。
旧約聖書においてモーゼは、ユダヤ人を引き連れてイスラエルを目指します。しかし、最終目的地
はカナン。今、私がしていることは皆さんの魂の中に咲く九つ花の真ん中の椅子を良心神たる[ラ] が得るイスラエル(椅子ラ得る)に導いています。しかし、最終目的地は[かな]で示す[ん]にあるで しょう。
すなわち、最終目的地かな[ん]とは神の御国。
私は幼い子供の頃、どうして旧約聖書の神と名乗られるのか、不思議で不思議で仕方がありませ
んでした。日本語でないとカナンが出せないのです。出口王仁三郎聖師、最後の言霊を[ス]と言 い[ン]も伏せました。アから始まってンで終わる案(アン)。昭和五十五年、私が出会った女子は昭 和三五年生で本名が良子でも、アンと云うの名の遊女役。女子の演技を必要としました。
これまで、正神界と邪神界の最終決戦においては、正神界が一厘の違いで勝利すると語られて来
ました。その一厘の違いが何であるのか、これで少しは解って来たはずです。邪神(悪魔)界には、 この一厘が存在していないのです。どんな戦いを目論んでも最終戦では負けるのは決定しているわ けです。
私はヒンズー教ヴェーダ典、人の中に眠るコブラ(蛇)が目覚めて走り上がる時、人は真理に目覚
めるを体験してきた者です。
大本教神諭や霊界物語には、九分九厘とか神の仕組みの九十九折りが出て来ますが、これは大
本教神諭予告の九つ花を指した意味です。
もし、私達に[言葉]と呼ぶものが存在していなければ、私達はその想い(思い)を誰にも告げるこ
とが出来ないわけです。言葉が無ければ文明も創り出すことは出来なかったでしょう。創造神は、こ の言葉に本当の教えを秘めておかれたことになります。
大本教は、スの神論と云うこれまで聞いたこともない新しい神の論理を打ち出して来ました。しか
し、霊界物語を読めば全編三五(アナナイ)教になっており、三五(アナナイ)教こそ本当の教えだと 思うのが常識人です。大本教は五六七(みろく)神政と宣伝はしましたが、どこにもお釈迦様の悟り は入れてなかったのです。お釈迦様三十五歳の悟りの人に内在する良心神を説く三五教。
大本教出口王仁三郎聖師は霊界物語第十三巻「信天翁」の中で、みのか尾張の国の中から誠の
女子の尻尾が見えたならば、モウ大本教はダメだろうと残したのは、高山に走る国道第[41]号線 の意味が九つ花の[誠]で解読されてしまいますと、単なる[ラ]神論ではなく、言葉で[道]の教えを 解読されてしまい、大本教自身の役割は終了してしまうからでしょう。みろく神政においては、お釈 迦様の悟りが一番大事なのです。
私は大本教の功績を思い大本教を陰から応援するつもりで、私財を使って神言葉の名で綾部の町
に宣伝紙を発刊しました。[九二]とこなどで、二つの九で九と九の組合せだと教えたつもりでした が、大本教に[誠]の意味が解る者がいなかったので、すべてを[公]にして、九つ花とはこういう仕 組みだったのですよと世間に明かし、どこの教団が神性みろく神業に向かって行くのかを見てみた いと思っています。全ての手の内を明かせば、後は誰にでも出来るでしょう。別に[誠]で走れる 教団が無ければ無くてもよいことなのです。
私が旧約聖書の神と名乗る神から云われた使命は
もしも、そなたが教えを間違えれば、それは私の仕組みが悪かったのであって、そなたの責
任ではない。私の責任である。
私は日本の国に常に立つ日本語で書記しています。国常立尊を創造神とする日本書紀。これ
で、私が天から命じられた一つの使命は終えられるでしょう。日本の神達の私の呼び名は[言葉の 君]。異国の人が異国の言葉で主の神を説いているだけのこと。
岡本天明氏が出した日月(ひつき)神示において、天の岩戸の岩戸に【い(一)わ(八)と(十)】で
一八十の数字が使われています。
日月神示は大本教神諭と同様にひら仮名と数字で書記されたもので、その内容は大本教から出
された大本教神諭や伊都能売(いずのめ)神諭に非常に似たものとなっています。日月神示が出し た神も艮金神・国常立尊で同じになっています。
しかし、ある不思議が存在します。それは、大本教神諭では使われずに日月神示で使われた言
葉に天の磐戸(岩戸)に「一八十」を使ったことです。
一方、日月神示にも大本教神諭と同様に九分九厘とか一厘の違いは出て来ますが、大本教神諭
における【九つ花】」は出て来ないのです。日月神示だけを読めば、九つ花に咲く一輪の言霊の経綸 が解らないと云うよりも、その存在そのものが解らないのです。
ですから、一厘の違いが何であるかが日月神示では解らないようになっています。
岩戸(磐戸) = 一八十(イワト)
九つ花 = 八十一の聖音(言霊)
外部から来る神の光ならば、地に潜って天の岩戸開けの光を避ける手もあります。しかし、魂の内
から来るものであれば、どこに逃げようと避ける道はないのです。
それは、裁きの光として現れて来るのです。
(平成17年12月追加分)
大本教神諭に世の立替があることはどの神も御存知なれどとあるように、立替があることは神界
上層部で知らない神はないでしょう。もし、知らない神ならば下級神界の神と思われます。為に、多 くの宗教宗派がみろくの世の到来を宣伝しているわけです。みろくの世は素晴らしい世の宣伝は よいのですが、誰が見ても解るように立替そのものは未だ行われてはいません。
その間に、人々の心の荒廃はものすごいことになって来ています。親が子を殺し。子が親を殺す。
行きずり殺人。快楽殺人。俺々と振り込め詐欺の続出。勉強もせず遊び回る子供達。子の躾すらし ない親。モウ誰もが世も末と思う状態です。
蛇神と呼ばれる蛇霊と話していると、世の終わりにはどうせ抹殺されてしまうだろうから大暴れして
やると云います。改心をして蛇の身を脱却すればと勧めても、聞く耳持たずと云うところ。良心神さ え取り戻せば済むのに何故か自棄になる。
みろくの世に入るには、各自の魂の借銭払いが必要となるでしょう。つまり、過去世からの借金
を持っている者は帳尻を合わせる必要が起きるからです。自分の過去世での借金を自分では自覚し ていない為に、借金取りが恐いことにはなります。
この借金取りは、霊能者サイドから云います汚れたものに対して災いが起きることになるのです。
災いで魂や土地は浄化されて行きます。すなわち、
そして、日本神道で云う高天原(神界)や霊界を含めて三千世界の御魂を再度改めて、上に行く者
や下に行く者の上下の峠越えとなるのです。しかも、魂の洗濯に虫(無視)達の大掃除と来れば目 も当てられない混乱状態が予想されるのです。
大本教が開教(西暦1892年)してから110年以上も経過していますので、宣伝の為の猶予期間
は過ぎているでしょう。
ただ、九つ花が本当は米型で説く[ラ]神論であったことを考えれば、朝鮮に残る予言に最後の審
判前、救世の為に[米]の字を説く宗教が起き、その教えに従った者は神の御国に救われる。人類 の終末前、人々が忘れていたお釈迦様の悟りを[誠]印で説くみろく菩薩が現れて、その教えを聞い た者達はみろくの世に入る。
そうした意味をどう解釈するのか?。になるでしょう。
私は子供の頃、地理が好きで世界地図を見ていて不思議なことに気がつきました。日本の四国は
オーストラリア大陸に形が瓜二つ。九州を見ると、これもアフリカ大陸に似ています。気候的にも熱 いところ。北海道を見ると、北米大陸に似ていると云えば言えるでしょう。
?。本州を見ると、ユーラシア大陸に似ているとは言い難いのですが言えなくもない。すると、残り
は南米大陸があればよいことになります。どこにあるのかと見ると、台湾(旧・日本領土)があるので す。あれ!。不思議だなと感じていました。
これが、大本教や神道各派が唱える
私が子供の頃、永遠の神・旧約聖書の神と名乗られる神は言われました。
私は日本語と云う言葉を使って日本の国中に溢れている型をもって神の教えを解説しています。
大本教神諭に、日本人が受けている魂と云うものは、日本以外の国に生まれ出た人の魂とは位
が違うとあるように、一段と位が高い御魂を受けているのです。しかし、全ての日本人がその高い御 魂かと云うと違うのです。
日本に生まれ出なかった異国の人でも、日本に来て、日本古来の心に憧れて日本人以上の日本
人になっている外人さん達が多くおられます。そこに出て来るのがヤマト魂。日本に生まれても、日 本語かどうか解らぬような言葉を言っていると、その魂はヤマト心を失って行きます。
大本教の演技は極端すぎて右翼的ですが、別に肉体の外見は洋服でもよいのです。心に和(和を
結ぶ心)服を着る必要があるのです。
このヤマト魂を八紘一宇と云います。宇宙の唯一神の光を八方に広(米型)げて世界の人を救う
魂。我れよしでは出来ないのです。
私達の魂は、輪廻転生と云う長い旅路を歩いています。魂の命には永遠性があるのです。この宇
宙の創造神と呼ばれる神は、宇宙の初発から存在しているのです。否、それ以前からの話です。
何故ならば、霊界には宇宙創生の映像が存在します。宇宙の外から見ないと出せない映像。それ
は、もはや口に出して語れる様な存在の神ではないのです。
で、出口が説きました。ただ、奥は見せなかった。
私達の魂は、そんな創造神と呼ばれる様な神と同様の時間を生きているのではないでしょう。しか
し、何十万年と経過した魂と遭遇することがある様に、魂を清く正しく保てば、そうした時間を生き られることにはなるでしょう。
この地球は魂の修業場として創られた世界で、修業を終えた魂は地球上に出て来る必要はない
わけです。地球以外の星へと転出して行くことにもなるでしょう。霊性が高くなればなるほど、地球の 人間のような波動が荒い肉体を持って修業の必要はなくなるのです。私達の目には見えない霊的な 存在へと変化して行くわけです。神霊と呼ばれる方達の姿も霊能者ならばはっきり見えます。しか し、霊性が高い肉体の為に一般の人の目には触れないのです。それは、全ての霊に言えます。
みろくの世とは、魂が霊性の高い肉体を持った世。魂が肉体から抜けて、霊界に入った経験を
持つ人は意外とおられます。そうした時に不思議なことを体験しているはずです。確かに肉体はあ る。しかし、この世の物質体の中を抜けて行く不思議な感覚を知っているはずです。この世とは波動 が違う世界。
もう間もなく、その長い魂の旅路もみろく世に入る線への乗り換え駅へと向かっています。その駅
で乗り換えないと、みろくの世には入れないのです。切符は、いろんな宗教宗派が売り出せるはず です。お釈迦様の悟りは、人には良心と呼ぶ神が内在する。どこの宗教でも教えて切れる切符 なのです。
世界の宗教、愛を説きます。しかし、良心と云うことに関しては無関心のようです。確かに、私達は
愛を欲します。愛がない人生とは辛くて寂しい。しかし、良心など在っても無かっても個人の生活 に影響はしません。獣達に良心が大切ですよといくら説いても解らないでしょう。しかし、愛情をか けてやるならば獣もなつくでしょう。獣の神でも解るのが愛。獣の神に解らぬのが良心。人の顔をし ていても魂(心)が獣になっているのです。
良心の中には[正義、誠、公平]の愛が入っています。自分の好き勝手な行為で世間が迷惑して
いても、自分の知ったことじゃない式の人が男性でも女性でも増えて来ました。そして、自分の好き 勝手な行為を注意されると、ふてくされる。へりくつを並べる。自分がその行為で迷惑を受ける立 場であったならばしないはずです。人の痛みを知らない。他の人に痛みを押しつけて、自分は知 らぬ顔の半兵衛。我れ好しなのです。
宗教界の多くは、我が宗派に所属すれば天国へと空切符を切り続けています。為に、多くの人々
は死ねば天国だと思いこんでいます。仏教の輪廻転生論など、日本の仏教では無視され続けて来 ました。
人類の歴史の中で、人には良心と呼ぶ神が内在すると悟られたのはお釈迦様一人。いくら何
妙法蓮華経何妙法蓮華経と御経を上げても悟れるものではないのです。しかし、天帝(大宇宙根元 神)は日本語と呼ぶ言葉に限定されるとしても、日本の言葉でお釈迦様の悟りが紐解けるように 仕組んでおられたのです。それが、大本教神諭予告、九つ花に咲く一輪の言霊の経綸。
それは、日本語と云う神の言葉を使う日本人には天からの使命が科せられていることになります。
私の日本語の仕組みの解説により、天帝(大宇宙根元神)が存在していると確信を持っていただけ れば、私とは肩を組んで同列に歩ける方達と思います。私の前を歩かずに私の後をも歩かずに、私 と並んで歩いてくだされば、それらの人は私の友であり仲間達。
一時期、テレビで大活躍された女性霊能者が、貴方のお父さんがお母さんが、飼い犬や飼い猫が
貴方を守護しておられる式のことばかりを云っておられました。守護している守っていると云うだけな らば、蛇や狐でも信仰すれば守ってくれます。こうした存在は単に守護神とか守護霊や背後霊と呼 ばれる存在にしかすぎないのです。
私達の肉体に父と母と云う肉体の両親があるように、私達の魂にも父たる魂や母たる魂が存在
します。こうした存在を御親神と云います。また、本守護神とも呼んでいるのです。
しかし、守護霊と呼ばれる様な存在とは違って、我が子たる魂を千尋の谷底に落としておいて、親
魂に逢いたくば谷底から自分で這い上がって来い式の教育しかしないのです。
獅子は我が子を千尋の谷底に落とす。魂は甘やかしたらダメになる。我が子の為には成らず。
師は常に厳しい。
こうしたことは、有能で正しい霊能者の方ならば云われるかと思います。
我が宗教に入信されれば天国に行ける。そんな宗教は信じない方がよいでしょう。案内してく
れるのは地獄界。その宗教の御祭神は、自分の御親神ではないのです。神を求めるのならば、自 分の御親神に近づくことを考えるべきです。
日本の神達は、私に向かって貴方の本守護神は[国常立尊]様ですよと教えてくれました。だが、
神々も国常立尊様を見たのではないのです。国常立尊様の御使者神と呼ばれる存在が私の背後 にあるから云うだけに過ぎません。
命あるものは、自分の魂の御親神。その御親神の御親神と辿って行けば、最終的には誰もが
国常立尊様と呼ばれる神に行き着くことになります。何故ならば、森羅万象ことごとく創造神が創 られた存在であって、創造神から出ていないものはないからです。だからこそ、私達の魂の中には 良心(両親)神と呼ばれる存在があるのです。
魂の構造に関しては、大本教で説かれたものが、日本古来の神道から伝わる「一霊四魂」に基づ
いており、非常に解りやすいのでその説に従ったものが下記の図になります。
直霊の部分が「良心」と成るのは、大本教神諭予告、九つ花に咲く一輪の言霊の経綸を「誠」で紐
解いた結果であって、大本教でもこの直霊の部分が良心神とは説いてはいません。スの神論になっ ています。それ自体は大本教の出口王仁三郎さんが霊界物語第十三巻において、【時節を待って いたならば、美濃か尾張の国の中から現れる誠の女子】の為の仕組みでもあったわけです。
宗教論議で自説(自分が信じる宗派の教義)ばかりにこだわる人は、自分を省みられないことから
他の人と争う「争」魂となり、他の人と和を結ぶことも出来ず悔いることもなく、自分の謙虚さを失うこ とから畏れを知らず逆魂となり、覚ることもない狂魂となるのです。結果として曲霊と成るわけです。 その代表格がオーム真理教になります。また、イスラム教のみならず各宗教において無差別殺人 のテロ活動家が輩出するのも、荒魂の勇気の意味を間違えているからです。
宗教が人を狂わす、そうした理由は奇魂の部分にあり、良心(直霊)が働かないとそうした宗教団
体が説く教義から逃げられなくなるのです。
聖書においても、悔い改めなさいと説くのは、この直霊の働きを曲霊にしてしまうからです。自分を
反省して悔い改めるをしない限り、良心神は出て来ないのです。
曲霊に成りますと、いくら人から良(ラ)心神を説かれても、良心と呼ぶ存在そのものが何を意味す
るのか認識出来なくなるのです。良心と呼ぶ存在を単に言葉としか理解出来ないのです。
時の流れと共に、人は多数産まれて来ました。その時、魂の増加はどの様に為されたのでしょう
か?。
魂そのものは、魂の分派活動によって増やされて来たわけです。荒魂を例とした図が下記のもの
になります。各四魂(荒魂、和魂、幸魂、奇魂)の中にも独立魂と成ることで直霊が入るのです。
これを逆に辿って行くと、人の魂は全て主の神にとつながるのです。
人が性格を異にするのは、親と成る魂のどの部分から別れたかによって性格が違って来ます。荒
魂から別れた魂のさらに荒魂から別れた魂は、荒魂が強くなります。そうした別れによって、魂に性 格の違いが生じて来ているわけです。
この理論は日本神道には古来からあったようですが、仏教にはなかったと云えます。
キリスト教だけに偏ってもいけないし、イスラム教だけに偏ってもいけない。ヒンズー教に偏っても
いけないし、仏教に偏ってもいけない。天主は一つに宗教に全てを教えたのではなく、全ての宗 教を足すならば、その教えが解るようにしておられるわけです。
(平成17年12月追加分)
今日までの宗教理論は、魂論から出たものではありません。私達大多数の日本人は仏教徒であ
ったとしても、仏教は哲学に近い教え。
為に、悟(サトル)ではなく、サトル(哲)学へサトル(哲)学へと流れて行ったのです。
その為には自分の心、魂と呼ばれる存在について知る必要がありました。しかし、大本教と呼ば
れる宗教が出て来て、節分の煎り豆に花が咲く。福は内、鬼も内と言い出さなかったならば、誰も鬼 と云う「魂」と呼ばれる存在の意味まで解らなかったでしょう。節分の煎り豆で追われている鬼達は、 地獄閻魔庁の邏卒たる番人達。
それは、大本教によって○に点(黒丸)で示されたものが「魂」の記号であることが始めて世に告げ
られたからです。
私達の魂はどこから産まれて来たのか?。今日までの宗教の世界においては、魂の論理を抜い
ていた為に、自分の魂を産んだ親に関しては何一つ説かれることはありませんでした。為に、ほと んどの宗教では御親神の存在に言及されていません。ほんの一部の宗教においてのみ、御親神と の合一が説かれているだけなのです。
一部の霊能者が主宰する宗教組織においてのみ、各自の魂の御親(本守護神)を調べ、貴方は
何霊系に所属されますと告げているだけです。
そこで、魂が輪廻転生を続けながら、何を目的としているのか?。また、人は【霊(たま)の子】と云
われる意味がどこにあるのかを別図で理解していただきたいわけです。
魂は輪廻転生をしながら、魂を磨き学びを入れることで向上をし大きくなって、自分を産んでくれた
魂にと向かって行きます。御親神に近づく為には、霊界の階段を上がらない行けないのです。
平成17年12月追加分)
世界の宗教は、我が派の教えこそ絶対式で争っています。
大本教の出口王仁三郎聖師は、世界の宗教は同根から出ていると云いました。
これは魂の構造図(一霊四魂)を見れば解ることです。
仏教は「哲学」と称されるように、知覚や神秘の奇魂(クシミタマ)の働きです。私達が神秘を理解
するのはクシミタマ(奇魂)の働きによるものです。
キリスト教は神の愛を説きましたが、これは愛の幸魂(サチミタマ)の働きを示します。
イスラム教は剣を持つ宗教で解るように、勇猛の荒魂(アラミタマ)の働きです。
日本神道は、他と争わない柔和の和の結びである和魂(ニギミタマ)の働きなのです。で、日本神
道では、神謀りに謀りてと話し合い精神が日本人の特徴なのです。
日本神道の祝詞には、ニギニギの命とかニギハヤヒの命などを云いますが、日本はニギミタマ(和
魂)の国でもあるのです。大きな和の大和国。
大本教が世に出したのは「ス」の神という似せ型であったとしても、魂の中の核である「直霊」たる
「大本」を説いたのです。
今日まで世界に出ている宗教の教義は、魂(鬼と云う)の理論から出ていないのです。それで、真
理を悟ろうとしても無理な話ではあるのです。
魂と呼ばれるもの知るならば、今日まで世界の宗教理論で、我が派の教えが正しいと他宗教と争
った行為が、如何に正しくなかったかが解ります。
他教攻撃で多くの宗教家が地獄界に落ちたのです。本当のことを知らないで、他教を攻撃するは
正しい行為ではありません。
平成18年10月追加分
神々は私を[言葉の君]と呼び、如何なる神も貴方の言葉の教えを聞かなければ行けないと言わ
れながらも、誰も私の言葉など聞こうともなされませんでした。その理由は簡単。私には何の神力 もないからです。私が云う言葉など聞かなくても痛くも痒くもないわけです。良心が大切なことぐら い、何も貴男に教えて貰わなくても知っている。しかし、どなたも解ってはおられなかった。
私自身、ある御神霊から神刀を賜ったことがあります。確かによく切れる神刀。しかし、その神刀を
賜った途端、無数の霊がその神刀に群がって来たのです。あまりにも多くの霊の来襲に、私はその 神刀を捨ててしまいました。だが、私と同様に神刀を賜った者は今でも霊に懸かられる都度、その 神刀を振るっています。私は神刀を振るって懸かる霊を払うのではなく、そうした霊を自分の体内に 入れて浄化させてあげる方に変更しました。為に肉体はボロボロ。
私自身は基本的に刀は持たない主義です。私を斬りたいのならば切らせてあげよう。私は斬られ
れば痛いと言い。泣きもする。そして、暖かい血を流す。痛みも悲しみも辛さも知るのです。だからこ そ、暖かい血も流せる。
相手が悪いからと云って暴力を振るって相手を従える。それで、相手が心から自分が間違ってい
たと納得が出来るならば話は簡単ですが、そうではありません。改心は、自分の心の目覚めがな いと出来ないのです。
私達人類は創造神と呼ぶ神の存在を云います。しかし、創造神と呼ぶ神はどこにも見えてはおり
ません。それは大本教神諭が告げたように退いた[艮]にあるからです。だが、悪神など一掃出来る 力がありながら退かれてしまった理由は[忍ぶ]にあるのです。
私は神の世界だけでなく、この世で善行を積む人や悪業を積む人達。そうした事例一つ一つで学
ばさせて貰っています。何も先生は神様だけではありません。この世に生きる一人一人の人が先 生役でもあるのです。それらを通じて、ありがたいことに私は学ばさせて貰っています。皆さんが私 の魂を磨かせて下さっています。
旧約聖書(キリスト教・イスラム教・ユダヤ教)の世界では、創造神は始めにして終わりの神として
説かれて来ました。その間は、人類が創造神と呼ばれる存在を見なかったとしても何の不思議も無 いのです。始めと末の神。
私達日本人は仏教徒、仏教では何故か神たる御仏達に[南無]を付けます。梵語のnarmasの音
訳とされていますが意味は[帰命]。すなわち、命が帰るところが帰命。南無阿弥陀、南無妙法蓮 華経、南無大八幡大菩薩等。魂の命が帰るところ(天の御国)は南には無いのです。北に有りま す。大本教神諭、北を上にする神。
しかし、大本教が出したイロハにも意味があり、南無の間に[良]がある。いろは・・・・つねなら
む。アイウエオならば九つ花の中心の41位であっても、イロハだと[な]と[む]の南無の間に隠 れているのです。私は南無が彫られた石碑の前に立つた時、いつも何の意味かと首を傾げて考え 込んでいました。塔婆の題には[す]の文字。
天の頂の白十字路。その東北側に五重の塔。私はその五重の塔で、大本教神諭予告の九つ花
に咲く一輪の言霊の経綸の意味を知りました。その五重の塔には、一人静かに住まわれる仏(僧) がおられました。髪(神)をおろされて僧の姿。仏教徒は、この御方を阿弥陀(アミダ)様と云っている のでしょう。
大本教では、綾部は神の[聖都]と説きました。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教が聖地とする[エ
ルサレム]は副聖都だと説いたのです。大本教が出口王仁三郎聖師の活躍で華やかなりし頃、綾 部駅に列車が着くと多くの青年や軍人が降りたって大本教みろく神殿を目指して駅からゾロゾロと歩 いて綾部の町は賑わいました。今の綾部の町を訪れた宗教者や霊能者は、あまりにも寂れた町に 驚きます。いったい綾部のどこが聖都なのだと?。
私が子供の頃に不思議なことを告げられた旧約聖書の神と名乗る神。この国(日本)は私の教え
が満ち溢れている世界で唯一つの国。旧約聖書は私の書ではあるが、そのままに意味を読み取 れば間違える秘め書である。私の教えは世界のどの宗教書にも載ってはいない。日本の神話や民 話やわらべ歌の中にこそ秘めた。
私は日本語と呼ぶ言葉の仕組みを持って、旧約聖書や仏教のみろく神等の意味を解き明かしまし
た。だとすれば、この仕組みをされた神は旧約聖書の神であり、仏教における最高神[牛虎]の 神であり、日本書記における最高神・国常立尊様であることを証明したことにはなるのではない かと思います。
世界の全ての宗教が云うところの最高神。ただ、各宗教は教義の解釈を間違えていただけのこと
になるでしょう。大本教は艮金神・国常立尊様までは世に出せましたが、それが旧約聖書の神であ ることの証明も、お釈迦様の悟りとも出していません。
大本教神諭は、出口直(なお)と云う無学の老婆に艮金神・国常立尊と名乗る神が憑って自動書
記と呼ばれるお筆先によって書かれたものです。全て数字とひらかな文字の組合せ。この大本教神 諭を読むと、誠の言葉があちらこちらに出て来ます。数字とひらかなで書かれた大本教神諭に漢字 を振ったのは出口王仁三郎聖師だと云われています。
通常、私達の頭の中に浮かぶマコトの漢字は[誠]か[真]。誠は言葉が成る。口に出す言葉と為
す行動が一致していること。真は、真理とか真実、それに芯となる意味。他に[マコト]の字を求める ならば、信や実。嘘や偽りのないこと。そして、[良]の字もマコトと読むのです。全て[心]に関する 意味。今回、私が九つ花(九の魔王陣)で説いている意味は
既存の神霊達ですら、今の世に[マコト]の者は万人に一人程度しかいないと云われます。しかし
ながら、[マコト]を失っているのは人間だけでなく、神と呼ばれる方達ですら[マコト]を失っておられ ました。私が紐解いて教える三六九花をどれだけの方が理解出来るかとなると、私自身[マコト]が 無い神達や人には難しいと云うでしょう。
日本の神達は、貴方は[言葉の君]と呼ばれる貴い御方。貴方の言葉による教えは天の勅命(詔)
と同じ。貴方の言葉による教えが聞けない神達は天の帝に対する反逆罪で裁かれるだろうと告げな がら、どの神も私が何の神力をも持たないことから侮られたようです。
この仕組みは、イエスや出口王仁三郎聖師の様に奇跡力(魔法使い)で神を説く者には読めない
道なのです。
出口王仁三郎聖師は霊界物語第十三巻、イエス(クリス)も第十三番目のスの神を云った。
大本教の出口王仁三郎聖師は、大本教では女子の教祖が七代続くと予言しました。しかし、大本
教三代目教祖直日(アサノ)さんから男子が誕生したことで大本教は内紛に入り、四代目教祖となる べき正統の女子が排除されて、信徒は分裂をしてしまいました。
出口王仁三郎聖師は男子の孫を得た時、大本教の使命が終わったことを自覚されたでしょう。
学者と呼ばれる頑迷な人達は、霊魂など云うと頭から否定論を言われます。人が人の心(魂)を強
く認識するのは愛だろうか?。良心だろうか?。
人が人の心(魂)を一番強く認識するのは恋(戀)。愛は、切ないとか苦しいではないでしょう。
恋は、切なくて苦しいもの。恋と云うものは不思議なもので、逢っている時は何ともないが、さよなら すると涙が出て来ちゃうと歌にもあるほどです。愛は離れていても持てますが、恋は一緒に居ないと 耐えられない。心を掻きむしられてしまいます。
大本教神諭に面白い内容があります。誠の人を東西に立ち分けて、大本教ではそれを綾部の出
口開祖と亀岡の出口王仁三郎としましたが、綾部と亀岡では東西と云うには無理があります。ま た、男子と女子の喧嘩からと示してありまして、親と婿に成った者では親子喧嘩。
綾部の男子と会津若松の女子が恋をしながら喧嘩したことで、大本教神諭予告、九つ花に咲く
一輪の言霊の経綸を紐解く発端劇が始まりました。花(華)を宣する為の喧嘩劇。
昭和五十五年、京都にて私の目の前を真っ暗にして響いた恐ろしい神の声、その神の声の命令
に従って私は一人の女子の登場をその場所で一ヶ月も待ち続けました。私はその女子との出会い で感じたのは、彼女は私の魂の一部。
何故か私を襲う不思議な想いは、この女子と喧嘩別れをしなければ行けない。泣きの涙を堪えて
喧嘩手紙。女子と再度出会うのは神霊界で修業を積んだ後。喧嘩別れの期間は4年間と告げられ たと思ったら、出てきたのは[誉年間]。言葉の誉れを告げれる年まで。言葉の解読にかけた年月 25年。私も神の芝居に騙されて踊ってしまった単なる役者でした。
明治25年、丹波の片田舎綾部で一人の老婆に懸かった艮金神国常立尊様が大本教を使って仕
組んだ神の舞台の大芝居。大本教神諭、
大本教神諭、九つ花に咲く一輪の言霊の経綸を[誠]の者が紐解いて、その種を明らかにした。日
本語と云う言葉に仕組まれた一輪(厘)の仕組み。お釈迦様もイエスもマホメットも、全てこの神の手 の内で演技をしただけのこと。大本教神諭、
ここまで森羅万象悉くの創造神の手の内を明かしても、それでも神が無いと云い、己の我を張り続
けるならば身の終わりの日を待つより道はないでしょう。
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