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私達日本人の大多数は仏教徒で、仏教の開祖のお釈迦様が菩提樹の下の
瞑想で悟りを開かれたぐらいは誰もが知っています。
だが、お釈迦様が悟られた内容が何であったかは、一般的に云われているも
のとは違うようです。
何故ならば、お釈迦様が悟られた内容は[誠]印で説く弥勒(みろく)菩薩が現
れるまで、誰もが間違った内容をお釈迦様の悟りだと思い込んでいるとされて いるからです。
何故?、言葉で成る(誠)の菩薩でないとお釈迦様の悟りは説けないのでしょ
うか?。
弥勒を分解すれば、いよいよ(弥)始まる改革の力(勒)と読めます。この意味
は何でしょうか?。 ![]()
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何故、人は死ぬのであろうか?
何故、人は生まれ出るのだろうか?
何故、この世には諸行無常があるのか?
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お釈迦様は35歳の時、バラモン教の行者達がする行としては、これ以上の荒行は無いとされる
自分の肉体のあらゆる穴と言う穴、毛穴さえも塞ぎ、大地に穴を掘って潜り、その上から土を被せる 穴無い(アナナイ)の行に挑まれた。空気穴を通してのみ生きる行。
日本でも修験道などにおいて即身仏(ミイラ)になる行として、穴無い(アナナイ)に近い行が中近
世まで行われたとされます。しかしながら、それほどの荒行をもってしても荒行では[真理の悟り]を 得られなかった。お釈迦様は荒行をいくら積んでも[真理]を得られないことを覚られたわけです。
そこで、一転して菩提樹の下での瞑想中、お釈迦様を襲った数々の幻影や悪魔達の囁き。遂にお
釈迦様は悟りを得られた。問題は、お釈迦様は悪魔と呼ぶ存在を通して何を悟られたのか?。
ここに、お釈迦様が悟りを得る前の状態を指して、真理に至る前までの過程を
一方、キリスト教においては
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お釈迦様の悟りが何であったのかとなった時、誰しも菩提樹の下で悟りを開かれたぐらいのことは
知っていても、その内容までは知らないわけです。
教祖様が自分は仏陀(お釈迦様)の生まれ変わりだと称しておられる新興宗教の信徒達に、その
悟りを問いただすならば、人には誰にも仏性が宿ることだと云います。その仏性とは何ぞやと聞きま すと、慈悲の心のことだと答えられます。確かに、一般的にはそのように云われてます。
本当に、慈悲の心が正しいお釈迦様の悟りであったのだろうか?。それならば、悟りを得たことで
自分は二度と生まれ変わらないと言い残されたお釈迦様に代わり、お釈迦様の死後、お釈迦様の 本当の悟りを忘れた人々に対して[誠]印でお釈迦様が悟った内容を説く弥勒菩薩とは何者なので しょうか?。
人には仏性が宿る。その仏性は慈悲の心だと云う程度の答えであれば、弥勒菩薩が出て
[誠]印で説くほどのことではないのです。
弥勒菩薩とは、諸天諸神諸大眷属に至るまで、誰もが忘れ去っているお釈迦様の悟りを
[誠]印で説いて行く菩薩。この[誠]とは何だろうか?。何故に[誠]でないと、お釈迦様の悟り が説けないのだろうか?。
仏教のイロハすら無視して、自分は仏陀(お釈迦様)の生まれ変わりだと称する者の教えに乗って
しまうと、自分を破滅させるだけのことになりかねません。
お釈迦様は菩提樹の下。悪魔の囁きから悟りを開かれた。
愛は、悪魔や獣にも存在する
悪魔と対立する存在は[慈悲]だろうか?
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明治25年(西暦1892年)の節分の夜、丹波の片田舎京都府綾部で「出口なお」という老婆に神
憑り現象が起きて、大本教と言う宗教が起きました。
その出口開祖によるお筆先(自動書記)によるものを大本教神諭と言います。
この大本教において、不思議な事が告げられました。
それは、
大本教神諭、明治31年旧11月5日
【九つ花は誠から咲せる花であるから、三千年の経綸を致した。誠の本であるから誠の人の世話
でないと、このお世話は出来んぞよ】
大本教神諭、明治43年旧8月7日
【日本の神国(くに)には、九分九厘行ったところで、一厘の秘密(火水他、言霊他)がある】
私達は九分九厘と言われた時、100−1を頭に浮かべてしまいます。
そこに一つの盲点が存在したのです。
大本教神諭、九二(九が二つ)トコタチノミコトと書かれていれば、九が二個?。
縦と横に九が二つあるのか?。
そうした取り方はしなかったわけです。
これも「九つ花」なのです。
では、大本教で言った「九つ花」とは、どのようなものだったのでしょうか?。
では、この「九つ花」から、どうやって「一輪の言霊」を導けばいいのでしょうか?。
誰が挑戦しても、導き出すなど不可能でしょう。
それは、すなわち「九つ花」そのもが最初から違っていたということなのです。
大本教では「みろく」神を説きました。
だと、すれば
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仏教では、お釈迦様の死後500年間は正しい教えが説かれて悟りも得られる正法の時代と云
い、それ以後は教えや修行は行われても悟りを得られない像法(ぞうぼう)の時代が千年間続き、や がては形だけの教えが説かれる末法の時代に至るとされて来ました。
この末法思想から法然や親鸞や日蓮等の宗教家達が立ち、今日の新仏教が起きたわけです。し
かしながら、末法期においてはお釈迦様が本当に悟ったものは何であったのかは、弥勒菩薩以外 には誰をもってしても解らないとされるわけです。
一般的に仏教の世界では、弥勒菩薩は釈迦の死後五十六億七千万年後に現れて人類を救う未
来仏とされます。しかし、この地球が誕生して約四十六億年。現代に生きる私達の直系先祖である 新人類(ホモ・サピエンス)が誕生してからもたかだか10万年〜20万年程度。いくらお釈迦様が超 偉大な御方でも、五六億七千万年もの後の超未来の予言などはあり得ないことです。出来るも のではないのです。
しかし、お釈迦様の悟りと誠印の弥勒菩薩の関係が解ると、[五六七]の数には意味があったこと
が解るのです。
お釈迦様の悟りとともに人類を新しい未来に誘導する未来仏。
20世紀の終わり前、多くの科学者が集まった会議で、人類は21世紀を迎えることは出来るが、こ
のままでは22世紀を迎えることは出来ないだろうの報告がなされました。南北格差、人口問題 に食糧問題。そして、地球温暖化等の環境問題が人類の未来に大きな危険をはらんで立ちふさが るのです。
地球の温暖化は海水温度を上げ、この日本に大型の台風が幾つも襲う原因となって来ました。現
時点で十三億人の中国や十億人のインドで自家用車が普及すると、ますます地球温暖化に拍車が かかって来ます。 ![]()
日本の仏教は、天竺に渡った唐の三蔵(玄奘)法師が訳した経本が元となっています。私達には
西遊記でお馴染みの高僧。
この三蔵法師がお供を連れて天竺に渡る旅の道中、三蔵法師の前に魔王が現れて、この問題が
解けたならば釈迦の悟りを得る為の道を通そう、そうでなければ釈迦の悟りは得られないと云いまし た。
魔王が出した問題は、縦に九つ横に九つの計八十一ヶの枡の目に、一〜八十一の数値を配
置して、縦も横も斜めも全て同じ総和に成るように配置しろと云う問題。
だが、これは人智で簡単に解けるような問題ではありません。そこで悟空が観音様の元に一走
り。この問題は解かれて、無事に三蔵法師は天竺にと渡れた。これが彼の有名な[九の魔王陣]。 あるいは九の魔方陣、魔法陣の9×9等とも云われる「九の数理盤」のこと。
さて、お釈迦様が悟られた道。その道を通す為の[九の魔法陣]。その九の魔法陣を見ても、どう
してここからお釈迦様の悟りが得られるのか?。
さっぱり解りません。不可能に近いものです。
その不可能を解き明かす為の前段となる教えが三五(アナナイ)教の名の元になされまし
た。出したのは三五(アナナイ)教ではなく大本教。三五教は大本教が出した霊界物語の中の主た る教義名。何故に大本教は三五(アナナイ)教とは名乗らなかったのでしょうか?。
大本教で学んでいた中野与之助は、本当は大本教ではなく、三五教(アナナイ)教でないのかと考
えて三五(アナナイ)教を立ち上げました。早とちり。三五(アナナイ)教とは、お釈迦様が真理を悟ら れる前までの状況を指します。お釈迦様の悟りは[みろく]でないと解らないようになっているわけで す。 ![]()
事例@
事例A
事例B
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九の魔法陣を見ると、あることに気がつきます。
それは、仏教で宇宙の[真理]を表す曼陀羅(曼茶羅)絵。
曼陀羅絵には数々のバリエーション(変形・変化)がありますが、基本となるのは八十一体の仏
達。その八十一体の仏達は宇宙の[真理]を告げる仏(神)達であっても、そこに如何なる[真理]が 秘められているのかが解っていません。
解っているのは悟りの為の修業の道であるということだけ。
それは、九の魔法陣と同じこと。
八十一体の仏(神)達に1〜81の番号を振ったのが九の魔法陣と思えばいいわけです。
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大本教の出口王仁三郎聖師は、イロハの終わりの「ス」だとされました。イロハの終わりの「ス」は
四十七番目にあります。
日月神示の岡本天明氏は「ヒフミ」を言われました。
ヒフミの四十一番目に「ス」はありました。
すると、ヒフミが正解なのでしょうか?。
しかし、ヒフミでもイロハでも、八十一体の御仏(神)の座が埋まらないのです。
すなわち、369(みろく)の仕組みが織れないのです。
大本教霊界物語、全八十一巻は私達に何を教えようとしたのでしょうか?。
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言い伝えでは、菩提樹の下で悟りを得たお釈迦様は、初めはその内容を人々に教えようとなされ
なかったと云われています。それは、お釈迦様が悟った内容を人々に理解させるにはあまりにも 難しかったからとされています。しかし、梵天(古代インドで宇宙の創造神とされた)の強い勧めが あって、それより仏の教えが開かれたと云われているわけです。
日本において私達が信仰している現代の仏教は大乗仏教と呼ばれるもので、お釈迦様が開いた
仏教は小乗仏教と呼ばれるもので、自分自身がお釈迦様のように修業を積んで悟りを得るもの。
もし、お釈迦様の悟りが人には仏性が宿り、仏性とは慈悲の心だと言うのであれば、何も社会を
離れてまで山や寺に籠もって修業する必要はなかったことになります。
また、仏教においては[輪廻転生]が説かれますが、お釈迦様の悟りが人には仏性が宿る。その
仏性とは慈悲の心だと言うのであれば、何故に輪廻転生をするのかが見えて来ません。
人々に、お釈迦様が悟った内容を解りやすく説く方法が九の魔法陣。もし、九の魔法陣が存
在していなければ、誰を持ってしてもお釈迦様の悟りは永遠に解き明かすことなど出来なかっ たでしょう。 ![]()
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