第三章・神の計画書


旧約聖書では、創造神は言葉で万物を創られた
人類は、その言葉(言霊)の正体を知るだろうか?


~(示申)は、言葉を示し申すから~で
信仰は、人は言葉を仰ぎなさい


万物を創った神から人類に対する御教えは
言葉そのもの仕組みの中に秘められている



世界に残された伝説の中に

 人類は元は神と同じ言葉を使っていたが、人類の神に対しての驕りから創造
神の怒りに触れて、民族ごとに使う言葉が決められたとも云う。
 だが、世界の民族の中に今も神と同じ言葉を使う民族が唯一つだけあるとさ
れる。その国の言葉をもってすれば、創造神が創られた神の計画書が解ると
云う。その国とは?。
  
  *世界で最多の言霊を持つのが日本人の日本語。
  *世界で最少の言霊なのがユダヤ人のヘブライ語。
  *日本人とユダヤ人。
 どちらが本当の神の選民だったのだろうか?。



国常立尊とは、国に常に立つ御言

 大本教は、それまで祟りの金神・鬼門の金神と恐れられていた艮金神こそ、日本書紀で創造神と
記されていながらその姿を見せない[国常立尊]様であるとしました。
 確かに、不思議なことに日本の神社を探しても国常立尊様を御祭神とする神社らしき神社はあま
り見あたりません。よく知られているのは奈良県の玉置神社ぐらいです。
 一般的に造化神(創造神)は隠り神とされていて、日本では信仰神として奉る対象にはあまりなっ
てはいません。
 大本教が発祥した綾部市の神宮寺町加迫に綾部藩主であった九鬼氏が建立したとされる加迫神
社と呼ぶ小さな神社が存在します。
 一説では、その御祭神が国常立尊様であるとされていましたが九鬼藩記では「妙見」社。最近、現
地に行きましたところ、「天之御中主」社と記した看板が出ていました。
 民間信仰においては、国常立尊様でも天之御中主でも妙見大菩薩でも、ほとんど同一視されま
す。
 
 その加迫神社に最近奉納された石碑がありました。
 この加迫は、元は迦迫であり、その「迦」は天地開闢の大神と妙見大菩薩を表しているです。



 御神名と呼ばれるものは、神の働きを指した言葉であったりします。
 そうした意味を考えますと、国常立尊とは国に常に立つ御言(みこと)につながります。

隠り神とは隔離神。艮とは、退いた神の意味

しかしながら

創造神とは言葉を創った神。全ては言葉に秘められた。
 日本の国に常に立つ御言は[日本語]で。
日本語は、アイウエオとイロハの[二本]語で成る

 但し、多くの方が知らない日本の古語としては「ヒフミ」と呼ばれるものもあります。

 そうしますと、日本語は三言(ミコト)で成り立っている意味合いも出て来ます。



中国の盤古神から漢字の返還

 大本教の霊界物語の中に、不思議な内容が存在しています。それは、中国の盤古大神から国
常立尊様に神界の大政奉還。霊界物語を読まれた方達でも、その意味が何であるかは解らなか
ったでしょう。一般的には神界の行政権が中国で天子とされる盤古大神から日本の国常立尊様に
返還されたぐらいとしか解釈が出来ません

日本語は[漢字]がないと[感じ]が掴めない

 大本教神諭は全編ひら仮名で書かれました。一般的に、それは開祖の出口なおが無学の老婆で
あったからだと思われています。しかし、自動書記と呼ばれるものは、本人が知らない難しい文字で
も書かせることは簡単に出来るのです。
 何故、ひら仮名にしたのだろうか?。

ひら仮名ならば、どんな漢字にでも[変換]できる

 創造神の計画書は中国で漢字が創られる頃から仕組まれたもの。よって、盤古大神から漢字が
返還されたとなります。漢字の意味が解ってい来ないと大本教の演技は見えては来ません。

 大本教神諭、綾部を指してここは神戸。福知山市六十内生まれの出口なお開祖や亀岡生まれの
王仁三郎聖師と違って、綾部生まれの私ならば、ここは神戸(かんべ)でなく漢部(かんべ)と変換す
るでしょう。

 綾部の古名は漢部

 綾部は数万年前の旧石器時代から人が住み着いていたことは解っています。漢からの絹織りの
帰化人達が住んだ町。漢人が絹織りの技術と漢字を日本に運んで来て住んだ町。そこから来た地
名なのです。
 その帰化人(漢部)達とは秦氏。

 大本教神諭、綾部は三千年余り昔から仕組みを致しところ。漢字は誰が日本に運んで来たの
だろうかに謎を解く鍵がありました。漢の字は[あや]とも云い、漢(あや)部で綾部。

綾部に住み着いた漢部は秦一族 



日本古来の古代文字

 日本には中国から日本に漢字が入って来る以前より古代(神代)文字が存在します。ミミズが這っ
たような文字やら、記号的な文字。そうした古代文字を持ってして、日本人は劣った民族ではないの
だと主張する人達がおられます。日本における天皇には、中国から来た漢字を日本の言葉に置き
換える役目を指した意味があります。

 漢字は象形から作られた文字であっても、漢字を調べる学者にも成り立ちが解らない漢字がいくら
でもあります。漢字の中には光の神記号から作られたであろう文字も存在します。単に象形文字で
はないのです。象形文字は、字そのものが感じ(観じ)を伝える役目を持つのです。ハングル文
字や英字の様な文字は表音記号でしかないのです。

 大本教神諭はひら仮名で出されました。大本教の出口王仁三郎聖師が漢字の研究をしていると、
出口なお教祖に従っていた信徒達は、ひら仮名でなく中国の漢字を研究しゃがってと出口王仁三郎
聖師の研究を妨害しました。ひら仮名が漢字から作られた文字であることすら認識出来ない大
本教信徒達が多数居たのです。

 それと同様に、大本教が世に出した艮金神・国常立尊とは、森羅万象ことごとく創られたであろう
創造神であることが解っていない人達が多くおられます。中国で創造神とか天子とされる盤古大神
は、大本教霊界物語で盤古大神は国常立尊様が退かれた後の神界の主宰神に成られた神で
本来の創造神ではないと記します。
 だとすれば、森羅万象ことごとく創ったとされる創造神は言葉を創った神でもあり、中国に漢
字を創らせた大元の神は盤古神ではなく、日本では国に常に立つ御言(命)の国常立命とされ
ていても、大宇宙根元霊神と云うべき神になります。つまり、漢字の成り立ちも全て見通した上で
の仕組みと考えられます。

 あまりにも神としてのスケールが大きい為に、蛇や狐の神に慣れた日本人には分かりがたい神に
はなるのです。



日本は、古来より言霊の幸わう国

 旧約聖書で神は言葉なりきと言いますが、日本は古来より言霊の幸(さき)わう国と呼ばれて来ま
した。言葉の霊の働きによって幸福が生じている国ということです。言霊には神の力が宿っている
と信じられて来ました。
 世界の宗教を見た時、どの宗教でも言葉で祈りを上げたり、呪文を唱えます。仏教における御経に
しても声高らかに声を上げるのも言霊を出しているからです。
 日本一の宗教団体とも云われる創価学会さんでは、南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経と唱え続け
れば厄災から逃れて御利益につながると教えておられます。それらも、とどのつまりは言霊信仰。
 ところが、私達人類はそうした行為が[言霊]信仰であるとの認識を持っていなかったのです。
その為か、誰も言霊の正体が何なのかに何一つ気付かなかったのです。
 日本の宗教界で、本格的に[言霊]の存在を持ち出して来たのは大本教の出口王仁三郎聖師に
なります。

 科学者や医学者と呼ばれる方達は、頭から自分の目には見えない霊的なものは全て否定されま
す。では、私達は山に向かってヤッホーと言った時、ヤッホーヤッホーと山彦が返って来ます。
 山で跳ね返って来ると言うことは、私達の目には見えなくても、そこには霊的な波動があるこ
とになります。どうして、そうしたことに気付こうとしないのでしょうか?。言霊は音だから反響すると
構えていれば、何時まで経っても先行きしないのです。
 この世には、よくよく考えれば変だと思うことが山ほどあります。そうした疑問を持つならば、神の
息吹が見えて来るでしょう。



創造は想像(絵伝)から発する

 私達は何かを創造しようとする時、まずは頭の中に霊的なキャンパスを創り、想像(イメージ)から
入ります。しかし、それはその想像をした主にしか解らない絵。その絵を想像の主が他の者に解ら
せようとか見せようとした時、絵で伝えるしか方法がありません。
 万物の創造の前には絵で伝える[絵伝]の園があったことになります。

 その想像されたものを立体化して造り上げたとしても、それは人形のように動かない。その創造物
を動かそうとすれば、全て動力(エンジンとエネルギー)を使わなければいけないわけです。旧約聖
書では神は[言葉]によって万物を創られたとします。だが、それは言葉そのものではないのです。

 私達は何かを造り上げて、そのものを働かさせようとした時、その創造物に魂を吹きかけるとか命
を注入すると言う言い方をします。
 万物の創造は宇宙に存在する大いなる意識・絵伝(想像)の主が、その想像絵に想像主の[息]
を吹きかけたところ、そうした想像物は命を宿した。すなわち、創造が起きたのです。この想像主の
[息]を命(御言)と呼びます。

これが、神は言葉を持って万物を創られたの由縁
 ※注意、世界の言葉の中で想像と創造が同じ[ソウゾウ]でくくれる国が日本以外にあるのでしょうか?。

創造神=想像神(絵伝の主)

 もし、大本教神諭風に単にひら仮名で[そうぞう]と書けば、人はどう解釈するでしょうか?。



生きるとは[息]ること

 生きるとは、どういう意味なのでしょう?。息をしている間を生きると言います。人は息が無くなれ
ば、死んだと言います。だが、その息とは[自分の心]たる存在を指すことを知らないわけです。

 世界のどの宗教宗派でも、人は死ねば魂(心とか精神)となって死後の世界(霊界)に渡るとは言
います。多くの科学者や医学者は、そうした宗教が教えることを科学的ではないと否定します。
 ドイツにおいて医・科学者が集まってチームを作り、死者の肉体の重さと死ぬ前の肉体の重さを計
り比べたところ重量に何の変化もありませんでした。そこで肉体を解剖したが、どこにも魂と呼ばれ
る臓器は存在しなかった。よって、宗教は嘘を言っているとしました。
 確かに、肉体を解剖してもどこにも心(魂)は見あたりません。しかし、人には[心]があることは、
どんなに濛々な学者でも認めるでしょう。心の喜び、心の悲しみ、心に傷がつく。心は目に見えずと
も存在するのです。

息(自心)は、自分の心

人が生きていると実感出来るのは、自分に[心]がある時
心は肉体的なものではない故に、肉体と別の世界にあり
人の心臓を仮宿として、息を止めると心は霊界へと帰る



霊界は存在せずで無く、0(レイ)界

 テレビ等で霊能者が出る番組がありますと、大学教授の肩書きで頭からの霊能者バッシングばか
りに明け暮れて名声を得ている学者が居られます。そうした学者の意見に拍手して、自分は死んだ
ら天国に行ける等と言う方達が居られます。
 ???。あまりにも愚かなる人達。死んだ自分が行く場所を霊界と呼びます。霊界とは、数学で
言う0(レイ)の界。だが、0(レイ)の界は存在しない世界ではなく、隠された世界。人の目には見え
ない世界の意味。その霊界を見ることが可能な者を霊能者と言うのです。

 物理の法則。
質量は0点で、最大のエネルギーが発生する

 私達は物質世界で生きています。こうした物質世界は凝縮させればさせるほどエネルギーが強ま
ります。と言うことは、0(何も無い)地点で最大のエネルギーが在ることになります。
 何も存在し得ない0点で最大エネルギーが発生するということは、まったく別の異次元世界
からエネルギーを注入させなければならないのです。
 為に、アインシュタイン博士の様な超一流学者の方は神の仕業でないと出来ないとして神の存在
を信じられますが、三流学者ほど霊界否定論に走るのです。
 一部に、アインシュタイン博士は神の存在を否定されたと主張される方達がありますが、日本に招
かれて日本の神社に参拝されたアインシュタイン博士は、神は日本に居られましたかの有名な発言
を残されていることを知らない方達の説なのです。

 霊能者と呼ばれる存在の言うことが当たらないと云う問題は、インチキ霊能者と呼ばれる者がいる
としても、霊の世界の仕組みが階段世界であることから起きるのであって、霊能者バッシングで済む
問題ではありません。真摯に研究する学者であれば、霊界が存在するということは自ずから解って
来るでしょう。



人に霊(0)が懸かれば、人は霊界を見る

 学者と呼ばれる様な方達は、俺は立派だ。偉い者だと言う錯覚と言うか先入観に支配されておら
れます。そうした時、神霊が無知無学の者に懸かる。そんなバカなことはあり得ないと考えてしまわ
れるのでしょう。
 そこで、数学の問題。
0(レイ)に0(レイ)を掛けることは出来るが
0(レイ)を0(レイ)で割ることは出来ない。
 それと同様に、人に霊が懸かれば人は霊の世界を見ることが出来るのです。霊能者と呼ばれる者
達は、自分では無く、自分に懸かった霊(守護霊等)を通して霊界を見ているのです。霊(0)の話
は、この世の考え方では割り切れないのです。
 では、何故に霊は学者の様な賢い人には懸からないのか?。

霊は、心根の優しい人にしか懸からない

 俺は学者だ。人より偉い。立派な者だ。霊界は心の世界。他の人のことを思いやらないような
人には霊は懸かりません。無知無学だからと言って、神霊が懸かっているのではないのです。子
供の頃には霊能者として幅広く活躍しながら、神霊の代理を離れてからは東大に進み弁護士になら
れた人もあります。医師で霊能者の方もあるのです。
 自分には解らなくても、人の目には見えないものが存在する。それを見る努力を何一つ積まずに
頭ごなしに否定するでは正しい心とは言えません。頑固であるということは心に柔軟性が無いの
です。
 本当に霊の存在が見たければ学者を辞めて、滝に打たれたり百日間断食修行等をすれば低級霊
程度は見えるようにはなります。但し、悪魔に魅入られてもそれは本人の責任。神霊界から撰ばれ
た者以外は修業で命を落とすことにもなるのです。



人は誰でも霊能力を持つ

 霊と云うと、すぐに頭から霊界否定論に走る人が多いのですが、人は誰でも潜在的に霊能力を
保持しています。その霊能力が発揮出来るか出来ないかで、霊界否定論に走っているのに過ぎな
いのです。

 古代の人達は霊能力に優れていましたが、現代人は霊能力が退化していると云われています。
例えば、イエスの復活劇の様子を読むと、イエスの周囲に居た信徒達は霊能力が強かったことが解
ります。霊的に復活を見た。現代においても、非常に霊能力が強い新興宗教の教祖様が居る教会
や道場に通っていますと、それまで何の霊能力も発揮していなかった人が突然に霊能力に目覚め
たりします。こうしたことを[霊性]が開くと云う言い方をします。
 お釈迦様の高弟であった目蓮尊者の神通力は弟子の中でナンバー1と知られていますが、お釈
迦様自身は弟子達に霊性の修業を禁じたと云われています。霊性を開くことは危険も高いので
す。魔界の手先になることもあるからです。

 私は霊能者と呼ばれる方の様に日常的に出る霊能力は何一つ持ちませんが、霊の世界を垣間見
るだけの霊能力はありました。そうしたことで多くの霊能者の元に出入りもしましたが、他の人から
良い霊能者の方がいないかと相談を受けた時、プロの霊能者として看板を上げて相談者からお金を
貰っておられる霊能者で、これならば人に推薦が出来ると云う方は10人に一人か20人に一人程度
しかおられません。ほとんどは、本当にこの人は霊能者かと首を傾げる状態なのです。
 そうしたプロの中のプロ的な霊能者の方でも、何事も見通せるとか解るという様な霊能者はおられ
ません。部分的には当たっても万能の方はいないのです。そうしたことで、有能な霊能者を何人も集
めて、ほとんどの霊能者の意見が一致するものでないと事実は見えては来ません。

 ただ、当たらない霊能者が多いからと言って、それで霊の世界は存在しないと否定していた
のでは前に進むことにはならないのです。
 有能な霊能者でも、Aさんに対しては100発100中でも、Bさんには対しては0点。霊能者の御祭
神よりも、相談者の魂の守護神の位が高いと全然当たらないもあるのです。



卑弥呼の昔より

 世で霊能者と呼ばれる人にはいろんな呼び方があります。呪術(まじない)師、霊媒者(巫女・神
主)、拝み屋等。
 日本神道の巫女とか神主と云う存在は、元々は自分の肉体に神霊を降ろして神霊の言葉を告げ
る職の名称。日本における卑弥呼は日本の歴史に残る最初の霊能者とされています。日本の天皇
にしても、本来は天の皇神の言葉を受け、その言葉で卑弥呼と同様に人々を導く者を指した言葉で
日本の筆頭神主たる者の意味です。その名残が宮中における神事であり、天皇と云えども神主の
衣装を着用されるわけです。

 キリスト教におけるイエスやイスラム教におけるマホメット(ムハンマド)。そして、日本人が尊敬す
る仏教開祖のお釈迦様。日本の仏教で広く知られる弘法大師。役の小角(神変大菩薩)。天理教の
中山開祖。大本教の出口開祖など。こうした宗教開祖は霊能力を保持されていました。
 しかしながら、そうした霊能力を保持した偉大な宗教開祖を産みながら、私達人類は未だ霊の
世界の完全解明までには至っていないのです。

 我が宗派には天の大神が降りて来られて、いろいろとご指示を下さる。そうした教団があります。
そうした大神霊ならば、何もかも御存知で霊界のシステムが解明出来るはずです。ところが、教祖
は何も聞こうとはしない。何故?。
 私はプロの霊能者の方の様に日常茶飯事に出る霊能力は持ってはおりません。しかし、霊界を垣
間見ることが出来る程度の霊能力はありました。そうしたことで、霊障などに遭っている方の相談に
乗ったり救うなどは出来ませんが、霊的に現れる諸々の現象を見ることはあります。確かに、数多の
御神霊が存在しているのです。
 学者は霊能者をバッシングしておきながら、神の存在は否定しないと言われます。誰が神の
存在を教えて来たのか?。イエスにしてもお釈迦様にしても霊能力者。霊能力者が多くの宗教開祖
に成っている事実を無視しておられます。


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