第四章・魂(玉型の思惟)

 通常、魂は[鬼]と[云]の漢字の組合せが使われています。鬼の字でウシト
ラ(牛虎)の意味は出て来ますが、それだけでは[タマシイ]本来の意味が解り
にくいところがあります。
 そこで、ひら仮名で書かれた字を漢字に変換させる仕組みの大本教神諭式
風に日本の辞書には存在しない漢字に変換させると、玉思惟の組合せが出来
ます。

 [たましい]とは
人の心の思いを重ねた[思惟]が玉型になっている

 何故、今日までこうした漢字が[たましい]に与えられなかったのかは不思議
なことです。
 今日まで、タマシイは丸いボールの様なもので、生まれ変わりが多い人ほど
タマシイは大きく、人によってタマシイの色も違っており、その人の善悪の行動
でタマシイの汚れ方が違う。そうしたことは霊能者と呼ばれる者達ならば宗教
宗派を問わずに共通に認識していたことです。
 ところが、宗教の世界が魂の論議を抜かしてしまったのです。



世界の宗教は魂の論議をしなかった

 世界の全ての宗教は[魂]と呼ばれる存在を説いてはいます。しかし、どの宗教宗派も[魂]の論
議をして来なかったと言えます。
 仏教の僧侶でも、死後の世界(霊界)など存在しないと公言する者達がいます。たぶん、自分は僧
侶なのに魂を見ない。だから、無いのだろう。そうした意識でしょう。

 では、その宗教家は何を拝んでいるのでしょうか?。御本尊の魂はどこにあるのか?。御本尊
の魂は霊界(死後の世界)と呼ばれる世界にあるのではないか?。
 その霊界を否定して、御本尊を拝み仕えているでは???となってしまいます。
 例え単に偶像の仏様を拝んでいるのだとしても、死後の世界が無いと公言するのであれば、檀家
の信徒に法事等の供養を求める必要がありません。自分が存在しないと確信する存在に供養を
求める必要などはないのです。それではその宗教家は、ニセの宗教家となってしまいます。自分
は賢い者とか偉い者と思うから間違えるのです。

 キリスト教の牧師は、イエスを創造神の一人御子と認めれば天国に救われるの教義から一歩も抜
け出せません。イスラム教の聖職者と呼ばれる者達は、神は偉大なりと叫べばよいと思い。ユダヤ
教の司祭達は紙に書かれたもの以外の存在を考えようともしない。常に律法、律法で硬直していま
す。

 イスラム教においては、盗みをすればその手が悪いと言って手を切り落とす。そうしたことがイスラ
ム教原理主義が支配する国では平然と行われています。盗みをするのは手癖の問題では無く[心]
の問題でしょう。
人には誰でも良い心と悪い心があり、それが互いに凌ぎあっているのです。

 世界で宗教家と呼ばれる人達の99.9パーセントは教祖が説いた教義を信徒に教えるだけで、自
分自身は霊の世界・魂の世界の存在を知らないのでしょう。

 だが、神秘主義者・霊能者と呼ばれる宗教家は何教何宗であろうと魂の存在を告げます。キリスト
教系列であれイスラム教系列であれ、そうした者達は宗教宗派に関係なく[輪廻]を口にします。そ
れは、魂の存在を見ているからで、魂の存在を説かずして神や仏を説いても何の意味もないの
です。



自分の心(息)は、[思]う

 生きるとは[息る]ことですが、その息るとは[思]うこと。人は何かを思うことで自分は生きている
と実感することが出来ます。もし、何も思わないのであれば、自分が生き(息)ていると実感するこ
とも出来ないのです。
 何も思わない状態であれば、例え肉体的には生きていたとしても真の「息る」ではありません。心
が死んだ状態。反対に、肉体を失っても思いがある状態ならば生きて(活きて)いるのです。

悲しい、苦しい、楽しい、辛い等、生き(息)るから思う
 霊能者と呼ばれる方達が死者と会話をするのは、その死者達が思いを持っているから話をするの
です。例え、この世に肉体はなくても思いは留まっています。霊魂が悲しい、辛い、苦しい等と霊能
者に訴えて来るのです。
 学者と呼ばれる方達や頑固者は何かと云うと、自分は自分の目に見えたものしか信用しないと言
われます。

 貴方に人の想い(思い)が見えるのでしょうか?。貴方が想う(思う)ことが他の人に見えるので
しょうか?。見えてはいないはずです。
 しかし、想い(思い)があるからこそ、人はそれを実現しようと動くのであって、想い(思い)は霊的
なエネルギーなのです。そうした想い(思い)の塊を魂(玉思惟)と云います。
 しかし、魂は単なる想い(思い)の[塊]であってはいけないのです。それこそ[鬼]。自分を磨くこ
とで[角]が取れます。鬼の角には意味があるのです。

想像(創造)主は、想い(思い)から万物を創られた

 私達人類も想像(創造)神と同様に想い(思い)を持っから生きているのです。



魂、心、精神

 ある悪党は私に云いました。宗教は大嘘つきだ。自分がしている行いは地獄があれば間違いなく
地獄に墜ちる。だが、人は死ねば終わりで地獄などどこにもない。同じ一生ならば悪いことをしなけ
れば損をする。恐いのは神ではなく警察だ。神は人間がする悪を黙って見ていればよい。神は人間
が困った時だけ助ければよいのだ。
 この悪党は神の存在を否定したのではありません。日本では蛇や狐と呼ばれる神霊達が活動
しています。そうした事実を踏まえるならば、神の存在否定論などには走れないのです。この悪党
は、神と呼ばれる存在と人間は別物だと思っているだけでした。

 こうした意見はある事柄を見落としています。世界のどの国でも、人は死ねば彼の世(霊界)に渡
ると説きます。それは一人の者が言い出したことではないのです。世界の言葉が翻訳されていない
時代から、民族ごとに言われて来たことです。世界の民族の共通認識の元にあります。そうした意
味の認識が欠けているのです。
 そうした中で霊界に渡る存在は魂とか心とか精神と呼ばれています。西洋世界でも

           魂は、ソウル(soul)
           心は、ハート(heart)
           精神は、スピリット(spirit)
の様な使い分けがなされています。 こうした言葉の使い分けは、そこにそれだけの理由が存在し
ているからなのです。



魂(鬼と云うもの)に咲く花

 大本教が予告した[節分の煎り豆に花が咲く]とは、鬼 と云う[魂]は玉型の思惟で[○]形で表します。
 その[○]の中にお釈迦様の悟りを紐解く九の魔法陣 (大本教神諭では九つ花)を配置したものが、節分の煎り 豆に花が咲くと表現されたものの前段になります。
 大本教神諭で○○○○十里四方外囲いと表現された 様に縦も横も十本の線で形取るのです。
 同じく大本教神諭で、ダルマ大師と現れたは、立体で はなく[壁面の九]つ花で示す意味になります。
  大本教神諭が九の魔法陣を九つ花とした意味は、 ならば真ん中に必ず[芯]があります。それと同様に人 の魂にも心の芯があるのです。九つ花の真ん中の芯た [41]で示す言霊の働きは、創造神以外の神達は何 も御存知ないことだったのです。
 魂(心)の[芯]とは何なのか?
 
鬼と云う[魂]は
玉型の思惟で丸い円球

十里四方の考え方
大本教神諭、福知舞鶴十里四方外囲いとなっています。
すると、誰もそれを疑わないのです。

綾部を知る者ならば、綾部から福知城付近までは約三里。
舞鶴までは田辺城があった西舞鶴(田辺)までは約五里。
十里四方はおかしいと気付きます。
京都の街を考えた時、あることが考えられます。
条を「里」に置き換えれば十里の意味が解けます。




しかし、何故に十里(トリ)にしたのでしょうか?。



 9×9=81のマス目に配置された縦横斜めの総和はどの列も369なのですが、真ん中の「41」を
経由する型は「米」型となります。
 すなわち、八方向に八根(羽)を持つ「トリ」なのです。

 これらが「言葉」の仕組みなのです。



ス「」の記号に秘められた意味

 大本教では(本来、中は小さな潰し丸)の記号を用い
て、これを[ス]の神の徴としました。あるいは○の中を
[ゝ]等でも表しました。魂に芯があることを教えたもので
す。
 日本神道では、昔より天の神からの[直霊]と呼んで来
た存在です。
 大本教神諭が予告した九つ花に咲く一輪の言霊の経綸
は、九の魔法陣の真ん中に在って、永久に変わらない数
字の第41番目にある言霊で、アイウエオで[ラ]の言霊に
なります。
 だが、誰一人として[]の記号が[良]の字の源字
であることに気付かなかったはずです。単に言霊の数
玉理論に振り回されて終わっただけなのです
ラ(ら)の元字は[良]の字
 そこには[米]の量を計る意味があります。
 九つ花に咲く一輪の言霊の経綸は、ラの言霊だと気
付くことではなく、良(ラ)心神論にあるのです。
魂の真ん中には、第41の言霊で表す神の
種がある。円(○)の真ん中にあるので、エ
ンマ(円真)とも云う。
大本教神諭予告、艮の金神はこの世のエ
ンマと現れるぞよ(明治29年旧12月2
日)。
エンマ(閻魔)大王とは、羅(ラ)王のこと。
節分の煎り豆で鬼は外と追われているの
は、悪神達を取り締まる冥府の長官[羅]
王の邏卒達。
この世の閻魔は「良」心


艮の字に点(天)打てば良となる

第41番目に「ラ」音を持つのは
アオウエイ(アイウエオ)の配列

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79
80
81

あれ!、アイウエオの配列とは違うの?

 一般的にこの配列を見た時、アイウエオの配列と違うと気付かれるでしょう。この配列は大本教が
出したアオウエイの配列です。
 第41番目に「ラ」音が来るには「アイウエオ」でも「アオウエイ」でも同じことなのです。そこには、ま
た別の仕組みが存在するからです。

 こうした言霊の配列図は、私だけでなく既に音霊(おとたま)論とか数玉(かずたま)論として世に
発表されていますが、私の考えと大きく違うのは「81」の扱いです。
 そうした音霊(おとたま)論とか数玉(かずたま)論では、「ン」を1(10)とされています。
 81も「ス」だとされる向きもあります。

 私の「九つ花」の紐解きは、天行居教の友清歓真さんが説かれたものを見てものではなく、その存
在を知らずに、まったく別の次元で見せられた存在から考えたからです。
 為に「81」に「ン」の音を置いているのは、私独自の見解になります。

 また、私が「?」で示している場所は、人によって各種の説があります。私は無理に埋める必要は
ないか。あるいは、私達が知らない使わない言霊があるのか。はっきりしませんので「?」にしてあり
ます。



フラクタルの729(七福)神

 ○の中に示しました「九つ花」は平面図であって、魂たる円球の中の立体化ではありません。当然
にそこには立体化されたものがあることになります。
 そうしますと、その配列は九×九×九=七二九が出て来ます。
 これを七二九陣と言います。

七二九陣=七福(シチフク)神




七二九陣は何を表しているのでしょうか?



9×9×9=729の立体フラクタル
解りやすいように色をつけていますが、色は関係ありません。
白色にしてある部分は空間理論。



27×27=729の平面フラクタル
仏教の曼荼羅に似ています

フラクタルは幾何学図ですが、無限に広がる相似形の構図を意味します。
詳しいことは、フラクタルで学んでください。

 ここで取り上げていますのは、この立体フラクタルとされるものは、その空間部分にエネルギーを
留めることが出来たならば、永久無限のエネルギーを出すことが出来るという理論から、永久電池
の開発が研究されています。

みろくの世は永久の世とされます

 永久の世には、永久にエネルギーの補充が必要です。もし、エネルギーの補充がないとするなら
ば、永久の世は存在しなくります。
 私達の魂は永遠性を持つと言われています。永久の命を保つならば、永久にエネルギーを出せる
構造体が必要となります。

 そこに展開して来るのが、9×9=81の369(みろく)の仕組みと言えるでしょう。

 大本教の出口王仁三郎聖師は、みろくの世は「七福神の船遊び」と言っています。

七二九陣(七福神)でないと永遠性がない

魂は丸い思惟なれど、立方体でもある



六合大神(天地四方)

 大本教の出口王仁三郎聖師がみろく大神を666(六六六)で表記した時、世間はびっくりしまし
た。
 何故ならば、新約聖書においては666(六六六)は悪魔のことだとされているからです。

万物の創造神のことを、六合大神(全宇宙)とも呼ぶ
6(六)の意味が、西洋と東洋では違う



 私達は魂が「玉型の思惟」だとは思っていませんでしたが、だいたい丸い玉であるということぐらい
は知って来ました。しかし、□(四角)の立方体であるの概念は無かったのです。
 否、日本の古神道にはその概念はあったのです。六合大神とは、天地四方を意味していたからで
す。



私達は、魂に6(六)を持つ

 私は自宅の神前において、丸い水晶玉を見させられたことがあります。大本教で宣伝した水晶玉
なのでしょう。だが、その時に丸い水晶玉とは別に立方体の水晶も見させられました。その横には
鳥居が付属していました。
 真四角の水晶?。その時にはその意味を図りかねていました。

六角形の亀甲紋
 九つ花の369を知るのには、亀の甲羅で示された「亀甲陣」が元になります。

亀は萬年の元となる



3つの6角形に9の花が咲く
8(ハチ)の世の開き



梅の種、割れば種の中に天神様の種

 大本教基本宣伝歌
梅の花、一度に開く神の教、開いて散りて実を結ぶ

 明治25年、丹波の綾部で発祥した大本教は明治[五十五]年の世の大立替説を打ち出し、世に
大センセーショナルを引き起こしました。当時の大本教の宣伝使は、三千世界の梅の花、一度に開
く神の教(のり)、開いて散りて実を結ぶと基本宣伝歌を唄い布教に走ったのです。
 だが、誰もこの意味に気づきませんでした。梅の花が散って実を付ける。その梅の種、種の中に更
に種があって、梅の種の中にある種を称して天神様が眠っておられると云います。前段で説明し
ている[]の中の玉(黒丸)のこと。
 私達が持つ魂(牛虎)の中にも天神様(宇宙を支配する神)の種があるのです。誰でも不思議に思
うのは、天の神でも何でもない菅原道真公を何故に天神様と崇めたのか?。道真とは、真の道
云います。 
魂の中の[真の道]天神様の種と云う

 大本教神諭、人には神とも成れる魂を授けてあるにも関わらずの主の神の御子たる主からの
分魂になります。
 旧約聖書で云えば、創造神が人類の中に遣わす主の御子で神は汝と共にありの存在です。
 大本教で、[人は神の子・神の宮]と宣伝した存在のことです。

 私達の肉体は、肉体と霊界での肉体としての肉体と同様の霊体(幽体)と魂の3要素から成り立ち
ます。
 人が死後に自分に肉体がある。自分は死んではいないと迷うのは霊体(幽体)を保持するからで
す。俗に幽体離脱と言われるものは、肉体からこの霊体(幽体)が抜けて行動していることになので
す。

肉体の死は命の終わりではない
単にこの世(今の世)を去る

 死後の世界の存在を「霊魂」と言うのは、霊と魂の二つ要素になるからに過ぎない。
 肉体はこの世に生きる為のものであって、そこに肉体の寿命がある。






 では、魂を割って図解してみましょう。(但し、この図は解りやすくする解説する為のもので、実際の魂がこうし
た色や核の大きさが魂の大きさに比例しているのではありません。理論的に推察が出来るのです。魂と星とは同じ様
な形態にあり、地球の内部にマグマがあるのと同じことを意味しているのです。私達の魂の中に天の神からの分け魂。
天の君たる存在があるのです。君が卵の黄身が同じ「キミ」なので黄色を使ってみました。この君たる部分が天神様の
種。光の元の物質的なものともなります)。

 地球が生きている現象の証明は火山の爆発や地震です。これらは地球の内部にあるマグマの存
在から起きるのであって、もしもマグマが無ければ地球と云う星の命も消えるのです。


主の御子は「41」番目の言霊で示される
イエスは40荒野を彷徨って、41日目で神の御子

真の道を行きましょう



聖地で実写された魂

 魂が玉型など、どこにそんな証拠がある。これは単なる絵ではないか。そうした方も多いでしょう。
そこで、魂の写真を紹介しましょう。


テレビで放映された魂の写真(撮影者 故・田響隆仁氏)引用

 魂が玉型であることを捉えた映像はテレビや写真等で数々報道されていますが、魂の鮮明度と魂
の大きさで言えば貴重な映像と言えます。この魂(玉思惟)は下のお釈迦様の涅槃像から人の頭よ
りは大きい魂と考えられ、高度の神霊の魂と推察されます(下の写真は拡大写真)。
 しかし、神霊世界においては、この魂より桁違いに大きな神霊の魂も存在しているのです。

 こうした写真は一般的に「オーブ」などと言われています。そうしたオーブの写真の中には、単なる
ゴミとかチリの様なものが光の関係で丸く大きく写っているだけとの反論があります。また、水滴等
です。確かにそうした反論を受けてもいいような写真も存在します。
 しかし、上記の写真を見ると、これがチリやホコリとか水滴が光の関係で丸く写っているものではな
い写真であることぐらいは素人目にも解ろうかと思います。

【魂に関する参考資料】
http://uenokouen.com/tamasi-2

人の命と星の命、球体の大小こそ違っていても同類


地球

稲荷大神秘文には[天に次ぐ玉、地に次ぐ玉、人に宿る玉]。
人を小宇宙とも云う

 この魂の表面が汚れから毛物を発生させず、水晶の様な硬質で光沢を持ち、魂の中から光の色を
放っているのが理想の魂。人の姿で見える霊体質(魂が霊界で着る肉体)は、こうした魂の中に集
約されており、霊体で見る場合には魂は見えないのです。
 魂に、その魂の心境(心の状態)を写し出す意味が日本神道の神鏡(玉型の鏡)の型。



既に実写されている空中浮揚

 私は魂とか空中浮揚の様を自分の目で見て来ましたが、こうしたものは実際に自分の目で見ない
限り信じられるものではありません。そこで、田教隆仁氏に未だ御連絡出来ておりませんが、テレビ
で世間に公にされた写真でもあるので田教隆仁氏撮影の魂の写真を引用させてもらいました。

 こうした魂の写真と同様に、既に[空中浮揚]の実態もニュースフイルムに撮影されています。大阪
のMBSの報道番組において、ある倉庫でフイルム缶が見つかり、そのフイルムを写したところ、昭
和初期か大正末期の頃であったか忘却しましたが、吉野山金峯山寺において多くの僧が一人の僧
を囲んで読経を上げる中、僧の輪の中に立つ一人の僧がゆっくりと空中に上がって行く空中浮揚の
様子と、金峯山寺の管長が大きな火鉢を瞬間移動させる様を写し出したニュースフイルムが残され
ていました。法力によるものです。
 残念ながら、このフイルムはまた倉庫に仕舞わてしまいました。現在の吉野山金峯山寺では、こう
した法力を出せるだけの修業僧は集まっていないと考えられます。
 もし、こうしたニュースフイルムが一般的に貸し出されていたならば、オウム真理教において変則
蛙飛びの様なものを空中浮揚と信じて、麻原彰晃(松本智津夫)の教えに狂う者を減らすことも出来
たはずです。

知らないと云うことは、自分を滅ぼすことにもなる

 そうしたことで、神霊世界を教えるものがあれば地位や金銭や名誉の為でなく、多くの人を助ける
為に積極的に公表すべきだと私は考えています。
 また、霊能者バッシングばかりして霊界否定論でテレビで有名になっている大学教授。読経の中
で空中に上がっていく僧侶や瞬間移動の様を見たならば、物理学では説明が出来ない事柄が神霊
世界にはあるということが骨身に染みて解ったはずでしょう。



一輪の言霊の経綸は深い仕組み

 大本教に在籍したことがある神道天行居(しんとうてんこうきょ)の友清歓真(ともきよよしざね)が
如何なる神からは解りませんが、大本教神諭が予告した九つ花に咲く一輪の言霊の経綸の九つ花
は九の数理盤(九の魔法陣)であることを教えられ、真ん中の41位は永久に変わらない数字だから
古事記における創造神・天之御中主様のことであると発表しました。大本教の出口王仁三郎聖師
は、それで自分の役柄がニセ役であったことに気付いたはず。

 一輪の言霊が[ラ]であると解っても、[ラ]の言霊が持つ意味が解らなければ、そこから先行きし
ません。九つ花に咲く一輪の言霊の経綸は、そんな底が浅い単純な仕組みではないのです。

 大本教神諭予告、綾部に九つ花が咲いたならば、万古末代枯れぬ花であるぞよ(明治31年
旧12月26日)とあるように、綾部でないと九つ花に咲く一輪の言霊の経綸の意味は解らない
うになっていたのです。
 大本教出口王仁三郎聖師が弟子に言い残した言葉、真性みろく神業は上野町から起きる。
部市上野町と呼ぶ特定された狭い地域の中に日之出神の舘、あるいは九つ花城と呼ばれる霊的
な神域があり、ここに九つ花を紐解かせる智恵を授ける働きが埋められていたからです。

 大本教が艮金神・国常立尊と[みろく]の神を前面に出したたのは、九の魔法陣(大本教は九つ
花)はお釈迦様の悟りを得る為の道であり、大本教霊界物語の中身の三五(アナナイ)教その
ものがお釈迦様の悟り前と告げてあるのです。
 アナナイとは、普通ならば『麻柱』と書かなければいけないものです。それを『三五』とした時点で、
お釈迦様(霊界物語では月照の神)に目が向いていれば、この三六九が何を告げるのかが解って
来たはずです。大本教霊界物語において月照の神(お釈迦様の本体)は、どれほど地位が高い神
かが書いてありまして、神の世界で働く天使達にとって、もっとも崇拝する御方。巷で自称仏陀と名
乗る者達とは月とスッポン以上の差があるのです。



神ラーの善悪の天秤、エンマの裁き

 多くの人は自分は死ねば天国だと思っておられるようですが、実際に天国界に入る人は僅かだと
云われています。大多数の人は中有界と呼ばれる世界に入っているわけです。当然、この世で悪い
ことばかりをしていれば地獄界に行くということになります。
 しかし、それは死んでみないと実証論とはなりません。どこまでも、仮定とか架空論
での語りとはなります。
 信じる信じないは各自の自由判断ではあるのです。

 仏教で死後に渡る川を三途の川と呼んでいます。これは死後の世界で三つの途があるから三途と
云います。
この世
三途の川(道)
天国界
中有界
地獄界

 これ自体は、西洋で出た神秘霊能者であるスウェーデンボルグも霊界を訪問して、天国界、中有
界、地獄界の三途であることを確認しています。但し、天国界も三層。地獄界も三層あり、合計三途
七層であるが、今日の通説になっています。

 問題は、誰が天国・中有界・地獄界行きの判定をしているかなのです

 貴方の葬式の時、御経を上げてくれたお坊さんが?。お坊さんが唱えてくれた御経が?。天国に
導く。そんなバカな話はどこにもないのです。

 前の項と重複する内容ですが、仏教ではこの役割を担っている方を閻魔大王と呼んでいます。正
式には閻魔ではなく、閻羅(ラ)大王とされています。その配下の者達をラ(羅)王の卒なので邏卒と
云います。邏卒とは霊界における警察官とか刑務官の職です。ここから、警察用語として警邏・巡
邏があるのです。その邏卒の姿は牛頭・馬頭で表現されています。
 羅の意味は、死(四)者「維」新と云う意味で、羅(四維)王が居られる城に入る門を羅生門、あるい
は来世門(死者に来世)と云います。すなわち、死者に来世を授ける神が羅王なのです。

 ところが、西洋では閻羅大王と呼ぶ存在を云いません。何で裁かれるかと云いますと、神ラーの天
秤に、その人がこの世で積んだ善と悪とを秤にかけるなのです。
 弁護士さんの胸のバッチがこの「天秤」になっています。善と悪とを天秤に掛けて裁くのが神の法
廷なのです。
 


 話は簡単なのです。貴方がこの世で積んだ善行から悪行を引くのです。その差引計算で残った善
行が多ければ、当然に天国界に進めるのです。善行が多ければ多いほど、天国界でも上の界にと
進むわけです。悪行の方が多ければ地獄界なのです。さほどの善行もなければ悪行も無い。天国
にも行けず地獄にも落ちない。そうした人達が行くところが中有界なのです。

 西洋では神ラーの天秤で説かれているのに、東洋(仏教)ではラ(羅)王の法廷に引きずり出され
て裁かれるとなっています。東洋人だけがラ(羅)王の法廷に出るのでしょうか?。

 魂とは丸い玉型なのです。丸い玉の中心には「核」と成るものが存在します。

 私達の魂(円)の中心点に核(芯)となるものが存在します。これをエンマ(円真)と云います。この
「エンマ」は各自がした善の行い、悪の行いを「良」心と呼ぶ基準で、これは善行。これは悪行と判断
しているのです。これが、エンマ(円真)の捌き(裁き)なのです。

 すなわち
エンマ(円真)のラ(良)神の裁き

 西洋の人が死後の世界で閻魔大王の裁きの場を知らないのは、生前に閻魔大王の存在を知らさ
れていないからであり、東洋の人が閻魔大王を知るのは、生前に教えられているからその存在を見
るだけのことで、それによって裁きの質が変わるものではないのです。

 西洋であることが云われています。それは、死後の世界で自分の悪行を密告するものがいる。
その密告する者とは、自分の心(魂)の中に存在するエンマ(良心)が、この者はかくかくしかじかの
悪行と善行をしましたと告白するのです。これが各自の行為を記録するエンマ帳なのです。
 閻魔庁において、自分は知りませんと否定しても、どんなに白を切っても、全ての記録は映像とし
て現されるわけです。
 
 霊界で自分の悪行が全て明らかにされる。こうしたことは、スウェーデンボルグの説のみらず、退
行催眠によってもしだいに明らかにされつつあるわけです。



魂を汚すと、人の顔をしていても魂は毛物(獣)

 新約聖書のヨハネの黙示録の中に、人の顔をしていても魂は獣という内容があります。その後に
有名な悪魔の象徴として[666]の記号が書かれました。
 大本教の出口王仁三郎聖師は霊界物語の中で、六六六とは天地創造の神のことだとした時、新
約聖書の黙示録で[666]は悪魔の徴とされている正反対の説に学者や研究者は驚きました。

 基本的に聖書では魂(牛虎)論は示されていません。新約聖書黙示録のヨハネと呼ばれた方が神
霊世界から見た時、どの程度の段階の方であったのかがはっきりしていません。モーゼに関して云
えば、残されたモーゼ像には頭に牛の角があり、四十年間の荒野の彷徨いから読み取っても
牛虎神の仕組みの中にあったことは間違いはないかと考えられます。
 魂は丸い玉。水晶玉で解るように、魂が磨かれていると表面がガラスの様な光沢を持ち、魂の中
にある色がキラキラと輝いて非常に美しいもの。宝玉の輝きを持つのです。
 ところが、魂を磨かないでいると魂の表面が汚れから毛物状のものが出て来ます。この時、人の
顔をしていても魂は毛物で、その魂が持つ心の状態が[獣]で表す言葉の意味で現れて来るの
です。
 魂を汚しに汚しますと魂が真っ黒になり、悪臭をも放ちます。時には腐りきった玉や捻れた玉の様
な規格外の玉も出てしまうのです。

その魂の[心境]を、獣の姿に写し出す[神鏡(神獣鏡)]
 
 いくら私は善人ですと言い張っても、魂を見れば一目瞭然に解って来るのです。世間で百人が百
人とも、あの人は善人だと評価される人でも、魂を見れば真っ黒け。世間が知らないところでする悪
事の積み重ねが魂に出て来るのです。



創造神と人類の契約の示し[禊]ぎ

 旧約聖書が告げる創造神と人類の契約とは、男子の陰茎(ペニス)の割礼ではありません。
誰が考えても、そんなものを見ても意味がないのです。だが、誰もそうしたことに今日まで何の疑問
も持たなかったとは意外としか云いようがありません。

約のしは(示す契)

 日本神道では常に[禊ぎ]が云われます。日本の神社に参拝すると、神主さんがお祓いをしてくれ
ます。身に付いた諸々の汚れを祓う儀式。
 しかし、日本神道における禊ぎ本来の意味は

禊ぎは御祓でも、身削(そ)ぎ身殺(そ)ぎの意味
 自分の身(肉体)を削っても、殺してでも清めに清める意味です。となると、?となります。肉体に付
いた汚れは洗えば落ちます。何を洗えと言っているのか?。

自分の魂に付いた汚れを洗い落とすことが禊ぎ
汚れから毛物(獣)の魂とは成っては行けない
 それが、主の神と人類が結んだ契り。
 行者と呼ばれる人達は冷たい滝の水に打たれる行をしています。滝の水で身に付いた汚れを洗
い落としているのではないのです。時には滝行で命を落とすこともあります。滝行は身を削ぐ・身を
殺ぐ行をしている。自分の身を削ぐ辛さに耐え、自分の精神(魂)を鍛える。滝行は、本当はラ(裸)
になって受けるものです。 
 しかし、魂は肉体の中に在って、肉体から魂を取り出して洗い清めるわけには行かないのです。



この世は魂の修業場として創られた


この世は何の為に存在するのか?
 この世は何の為に存在するのかとなった時、霊能者(神秘主義者)と呼ばれる方達の表現の仕方
は様々ですが、ほとんどの霊能者は[魂の修業場]としてこの世は在ると言われます。大本教の
出口王仁三郎聖師は霊界物語の中において、この世は天人と成る為の苗床と表現しています。
 確かに天人と成る為の苗床であっても、天人に成る為にはそれだけの資格や業績が要ることにな
ります。死ねば天人でなく、その魂の行いに見合った霊世界に転任するだけ。

 私が出会ったある人は、自分は死んだら天国に行けると言われます。理由を聞くと、盆暮れにお
寺さんに付け届けをしている。葬式の時にお坊さんに御経を上げて貰ったら天国に行けると信じて
おられます。一昔前は、草場の陰からと云ったはずなのですが。
 残念ながら、お寺の僧侶が葬式の時に上げる御経で天国に行けるなどはあり得ないので
す。こうした誤りは今日までの宗教が[天国と地獄]論の二界だけを展開したことから起きました。
 自分は地獄に墜ちるだけの悪行を犯していない。罪を犯したとしても微々たるものだとすれば、誰
しも自分は天国だと頭から思いこんでしまいます。

 仏教においてお釈迦様は根本道場を創り、多くの僧侶達が修行に励みました。何もしないで天国
の門は開かないのです。

この世を楽だ[駱駝]で渡ると
裁く(砂漠)の道を行く

 もし、自分は天国に行けると言うのであれば、自分はこの世で何をしたか振り返って見る必要
があるでしょう。「天」国とは[点]の穴を通る様な狭き門。この世は楽だ楽だで遊んで暮らして来た
らば、その時点で天国に入る資格は無いのです。地獄界に墜ちるだけの悪行も犯していないとなる
と、天国とは別の霊の世界が存在することになるのです。



人の肉体には、魂を浄化する働きがある


魂は、何故に人として生まれ出る必要があったのか?

 仏教の開祖のお釈迦様は、釈迦族の王子として生まれ出られましたが、人は何故に生まれ出る
のか?、人は何故に死ぬのか?、そうした疑問を持たれ、王子の地位を捨ててまで修業の道に入ら
れました。
 人には魂と云うよりも、命あるものには全て魂が存在します。この魂に付いた汚れをどうやって取
ればいいのか?。
 魂が魂の世界で魂に付いた汚れを取ることは簡単には出来ません。この世に出て来なければ
行けないのです。一般的に肉体と呼ばれる存在は魂が着る服とされていますが、単なる服ではなく
て、肉体は魂の汚れを取る為の浄化の器官なのです。

 霊能者と呼ばれる人達の中には、非常に程度の低い霊界を相手にしている者やインチキ霊能者も
存在しますが、正しい霊能者の多くは汚れた霊魂を自分の肉体の中に入れて、浄化して霊界に戻
す浄霊作業をしておられます。
 この世を去った霊魂には自分の魂の汚れを取る肉体が存在していません。軽い汚れならば、
日本神道で云うお祓いでも、仏教で説く御経でも汚れを祓えますが、魂が汚れに汚れているとそうし
た段階では取れないのです。ここに「憑依」が発生します。

 行者の様に修業を積んでいない霊媒体質者の方が汚れた霊魂に懸かられて肉体的に苦しんだり
するのは、人の肉体が魂の浄化器官であることを意味します。この世に生きている時には魂を磨くこ
とをせず、魂の汚れから[獄]界に墜ちて、助けて欲しいと霊媒体質の者に懸かって来るのです。

肉は、人の内に人(霊界の自分)がいる
人は、霊界の自分自身を見ることがある

 もし、憑依という行為が無ければ、人は霊と呼ばれる存在があるとの認識に立てないでしょう。
憑依は表意(懸かった霊の意志の表れ)なのです



魂と肉体は意識でつながる




 魂は自分の心(想いの塊)であり自分そのものでありながら、別の生命体(霊界で生きる命)になり
ます。ですので、肉体が存在しなくなれば霊界に戻らなければならないわけです。
 肉体の意識(自我)を消して無意識界に入りますと、自分自身が心の世界(霊界)に入ってしまうこ
とになります。宗教において無我の境地が説かれるのは、自分の心を見つめること(吾が心を
悟る)。仮に肉体が自殺を考えても、心がそれを阻止しょうとする等があります。命の本体。

悟りとは、吾(自分)の(心)を知る

 悲惨な死を遂げた霊魂がさまようのは、肉体が死ぬ時の意識が過剰に残りますと魂にまで肉体の
時の意識が入り込み、自分がその状態に置かれていると錯覚錯誤を起こします。肉体の死が理解
出来なくなるのです。
 魂は無傷なのに、自分には傷がある等と思いこみます。すなわち、識が想を受けてしまう。受想行
識(想を受けて識が行う)です。想は心の走り。
 本当の霊能者は、汚れた想を取り除いて魂本来の心を取り戻させようとするのです。悪いを想を持
つと魂が汚れます。



魂と肉体は、同じ行動とは限らない

 魂の論議をする時、説明が困難になる理由に魂の行動と肉体の行動が必ずしも一致しない
云うことがあります。大本教では、魂の命令に肉体が従って行動している場合を霊主体従、肉体の
命令に魂が引きずられている場合を体主霊従と説明して来ました。それは、どちらが指導権を握る
にしても肉体と魂は一緒に行動していることを意味します。
 一般的には、霊主体従が良くて、体主霊従の方が悪いと捉えられています。だが、必ずしもそうと
は言い切れない場合もあります。地獄界から許されて出て来たような魂の場合、魂の本質は悪。為
に、どうしても悪に走ろうとします。そうした時、霊主体従であれば完全に悪に走ってしまうことになり
かねません。
 逆に体主霊従で魂が悪に走ろうとする時、肉体が理性で悪の行為を止めるならば、悪で来た魂も
肉体に従わざるを得ず、結果として悪の魂が肉体によって浄化されて行き真人間(善魂)と成って行
くことも出来ます。
 もし、肉体が無ければ汚れた魂が浄化されて行くことなどは無いのです。

この世は魂の修業場
魂を悪の道から更生させる場所
 私の場合、霊界に居る自分が見えて来ることがあります。その自分が神霊達に拝謁をしている。
その魂たる自分が座っている場所の感覚や、神霊が魂たる私に触られた時、その感覚が肉体の私
に直接に伝わって来るなどがありました。
 だが、私は魂が抜けた腑抜けの状態ではないのです。自分という[我]をしっかり持ちながらも、自
分の意識は魂と一緒に神界へと飛んで行ったりしました。

 大本教の出口王仁三郎聖師は、元伊勢宮から参拝せよと命令されて旅の準備をしていたならば、
お前の魂が参拝して来たから、もう肉体は来なくてもよいと云われたと書き残されたように、魂の行
動は肉体が掴みきれるものではありません。
 私の場合も、自分の魂の行動を見ていて霊界の自分は何をしているのだろうと首を傾げることが
数々ありました。だが、それは私に似た人物ではなく、まさしく私自身でもあるのです。

 ただ、魂たる自分と肉体の私の行動は一致していません。何故ならば、魂は霊界にあり肉体の私
はこの世にあることで、生活パターンが違うのです。でも、肉体が終わった時、私は霊界に居る私に
なるのです。



意識(想念)の合流、心が増す憎しみ

 どの宗教宗派でも、人を呪ったり恨んだり憎んでは行けない。それが、自分に返って来ると云う教
え方をされます。それ自体は返し矢の論理です
 その中で、憎しみの字は心と増が合体しています。何故、憎しみは心が増すのでしょうか?。

 あるところに、どうしょうもない男が居ました。自分では自分は偉い者だ。立派な者だと自分勝手に
思いこんでいました。この男の為に、周囲の者は被害甚大。誰もがこの男を憎んでいました。そうし
た中の1人が、この自分勝手な者の被害を大きく受けました。そこで、その被害を受けた者の心に
は、その男に対する憎しみが湧いたのです。すると、その憎しみはその者が抱いた憎しみよりも遥
かに大きな憎しみにと変わって行ったのです。憎しみの心が増大したのです。
 何故かと言いますと、その男を大勢の者が憎んでいたからです。だが、その自分勝手な者に勝て
ない。そこに、魂的には自分勝手な者よりも強い魂がその自分勝手な者を憎んだ時、その憎しみに
乗っかるような形で他の者の憎しみが集約されて増大して行ったのです。
 人は肉体があるから理性でセーブしています。だが、心の世界ではモロに出てしまうのです。想念
は走るのです。

誰かを憎むと、他の者の憎しみも合流して増大する
 ある処に二人の霊媒者がいました。この二人、仲が悪い。会うといつも喧嘩。1人が、あんた。昨
夜私のところに殴り込みをかけたでしょう。何よ、あんたこそ、私の寝込みを襲ったじゃないの。そう
やって、肉体が言い争いをしています。
 これは、肉体ではなくて、各自の霊が前夜に実際にそうした行動をしたのです。それを肉体が知っ
ていて、翌日に出会うと喧嘩をしたわけです。霊媒者は典型的な霊主体従で、霊の行動が解ってい
ます。私もその前夜、二人の霊媒者の霊が互いを襲う様子を寝床の中で見ていたのです。
 人を恨んだり呪ったり憎んでは行けないと云う意味は、人に恨まれたり呪われたり憎まれるような
人間は、しょせんはそれだけの魂の持ち主にしかすぎないのです。本人は死ねば天国と思っていて
も、墜ちて行く先はとんでもない地獄界。そんな者を恨んだり呪ったり憎んで、他の者の恨みや呪い
や憎しみまで余分に背負って犯罪者に成る必要はないのです。



心眼と無我の境地

 霊能者と呼ばれる人達は、通常の人には見えない霊的世界を見ます。しかしそれは、別に霊能者
と呼ばれる人達にだけ備わっている特殊な能力ではないのです。全ての人には霊能力はあります。
その能力を発揮出来るか出来ないかの違いだけであって訓練しだい。霊的世界を見る目を[心眼]
と言います。心(魂)の目で見るのです。

艮(魂)の目で見るから心眼(目艮)

 心の目(心眼)で霊的世界を見る為には[無我]になれと云われています。この無我とは、我(自
分)を消してしまうことです。自分の頭(脳)の中を空っぽにしてしまうこと。脳の中にある想念を消し
てしまうことです。空の悟りです。
 仏教における禅宗は[瞑想]で空になることを説きます。しかし、瞑想は難しいのです。想念との闘
いになります。霊能者と呼ばれる人達は瞑想の方法ではなく、一心不乱に御経を上げることで空に
なることを教えます。
 特に般若心経が優れていて、般若(鬼)心経を一心不乱に上げ続けると無我の境地に突入し
て行きます。想念が出ずに、一切が空になる。その時に霊的世界を見てしまうが起きるのです。そ
の為には般若心経程度の御経は暗記しておく必要があります。悪霊からも逃げられます。
 この心眼と呼ばれるものは肉体の目ではなく心(魂)の目である為に、肉体の目が開いていようと
瞼を閉じていようと関係はありません。
 仏教では額の真ん中に第三の目(霊眼)があると説きますが、ここから脳の中の霊的スクリーンに
直接映像が映し出されて見るのです。為に、目で見る情景と同じ形で霊能者には映像が見えている
のです。
 その霊視能力に魂を飛ばす能力が備わりますと、遥かなる彼方を見たり、過去や未来を霊視する
と云う常識では考えられないことが起きます。自分が見ているのではなく、魂が瞬間移動で次元時
空を越えて見に行くのです。



魂を飛ばす千里眼(瞬間移動)

 霊感と呼ばれるものを持つ人は意外と居られます。特に女性に多い。しかし、霊能者と呼ばれる
ほどの霊能力を持つ人となると数が極端に少なくなります。そうした中で、俗に千里眼と呼ばれる遥
かに遠くの存在を見る者となると稀少的価値の存在となります。
 霊能者として活動している人でも、優れた霊能者以外は千里眼を待たれません。霊視(心眼)
と呼ばれるものは単に霊的世界を見るだけであって、千里眼とは別の能力になります。
 千里眼だけの能力では神霊に仕える霊能者の様な活動は出来ません。霊視(心眼)は霊的世界
を見ている為に霊界の存在を証明することが簡単には出来ません。為にニセ霊能者がバッコ出来る
のも、霊視は現代の科学では証明することが不可能だからです。
 しかし、千里眼ならば現実界の風景を見ている為に、その千里眼の持ち主と千里眼で見ている
場所に人を配置しておけば、千里眼で見ているものがどれだけ正しいかを科学的にも証明が出来る
ことになります。

 私はそうした千里眼の持ち主に出会いました。ところが、本人はそれが千里眼であることを知ら
ず、その周囲の者は不思議な能力を持っているだけとしか認識しておられませんでした。この人は
霊能者として活動している人ではありません。神霊に仕える霊能者の場合は、神霊そのものがその
場に飛んで映像を見せているので千里眼とは言えない場合があるのです。
 この千里眼と呼ばれるものは、本人はその場から動いていなのにも関わらず遠くの存在を見てし
まいます。どうして見えるのかと言いますと、その人の魂が瞬間にその場所に移動して、霊能者が
霊視(心眼)で霊的世界を見るのと同様に現実の光景を肉体に見せて来るのです。これは、肉体と
魂がまったくの同一の存在ではないことを語ります。
 肉体は魂の服にしか過ぎないと言われることの一つの証拠であり、魂は瞬間移動をする証拠とも
なるのです。 



魂の分派と成長

 霊能者ならば宗教宗派を問わず、誰でも魂は輪廻転生していると言われます。しかし、そうしたこ
とを信じない者の反論として、魂が輪廻転生をしながらこの世に生まれ出て来るのであれば、太古
の人口は今の人口と違って僅かな人であっただろう。それなのに、人口が増えると云うことは変でな
いかの意見があるでしょう。
 前項で説明して来たように、魂と肉体は同じ生命体ではありません。肉体は魂が着る服であっ
て、輪廻転生と呼ばれるものは人として生まれ出ることが確約されたものではないのです。
でなければ、猿や牛や馬や犬や猫や虫としても生まれ出ることもあります。人は万物の霊長類と云
われるように、霊(魂)がまとう肉体の服としては、長たる最高位にあるのです。

地獄の獄(\と言)は
罪を犯せば獣()界に生まれ出る
 それとは逆に、獄(\)界に居る魂でも人間界に生まれ出たい魂は無数にあります。人の雄と雌が
性交渉で多くの子供を産むならば、人の肉体を持って出る機会を待つ魂にとっては朗報。それだけ
チャンスが広がるわけです。
 また、魂そのものに雄魂と雌魂があり、魂の世界における結婚は男の魂に女の魂が飲み込まれ
て一体化する陰陽の合体(一心同体)魂で 、新たな魂の子孫を創り出しています。また、魂を割るこ
とで子魂も創れるのです。クーロンの魂と言えます。魂も増殖しているのです。

人に両親と呼ぶ親があるように
魂にも魂の親神がある
 霊能者が貴方の本守護神(親神)様は何々様ですと指摘される様な場合は、その人の魂の産み
親を指しています。人々が信仰する信仰神と魂の親神は別の存在になります。

 本守護神とは御親神
信仰神は指導神
 私達の肉体の御先祖霊様は肉体の御先祖様であって魂の親神様ではないのです。自分の魂の
親神様に出会う。それは、魂にとっては長い旅路。御親神に会うには、自分で神界の神位を上
がらなければならないのです。

 ※ なお、魂の分派や御親神に関しましては、第十六章・日本語は神の教えの神言葉の章で詳し
い解説をしています。



悪い心(魂)を阻止する母胎の悪阻

 霊能者と呼ばれる者ならば、誰も魂(心)の存在を見て教えを説いているはずかと思います。そうで
ない霊能者と云うのであれば首を傾げることになります。生まれ変わりを言いながら魂の説明が出
来ないでは話にはなりません。
 しかし、そうした時に魂の理論に反撃を加えようとすれば、あることが言えます。人の魂(心)は生
まれ変わっているのならば、過去世の学習が何故に出て来ないのか?。一から、1+1=2を勉強
するのか?。

 人が前世を記憶していないのは、過去世を覚えておくことは魂の磨きの障害になるからで
す。しかし、1+1=2などの学であれば別に記憶していてもよいはずと考えられます。
 俗に鳶鷹と云う言葉があります。鳶が鷹の子を産んだ。親は無知で何の学もないのに、子はもの
すごく聡明。一度教えられれば何もかも覚えてしまう。
 何故でしょうか?。魂が過去に学んだことは魂(心)の質として残っているからです。魂が過去世
で学んだことの知識の戻りは早いのです。誰かに教えて貰わなくても自然に出て来るものもある
のです。

 霊能者ばかりが集まった中で、人の魂は母親の胎内に何時入るかの論議になったことがありま
す。その中ではつわりの頃ではないかとなりました。母親とは違った心(魂)が母胎に入ることでの
自分の心(魂)との違和感。
 母胎に入った魂の悪の心(魂の汚れ)を阻止しょうとするのが悪阻(つわり)。

 霊能者も悪霊や汚れた霊を体内に入れて浄霊する時には、気分が悪くなって吐いたりします。汚
物を吐き出したり下痢をすることで、その魂の汚れたものを流すのです。
 龍神の浄霊ともなると、男子でも臨月間近の妊婦の様に腹が汚れで膨れあがることもありま
す。
 霊能者の間では知られていることに、仮に流産で世に出られなくても、その魂は一つの目的を果
たしたことにはなります。母となってくれた人の母胎に宿っただけで魂の浄化にはつながってい
るのです。霊能者が中絶は重い罪と云うのは、この世に魂の修業に出て来る魂の向上の機会を奪
うことになるからです。 

快楽の結果の中絶は魂の殺人罪

 そうしたことをはっきり言わない霊能者は、霊能者としては失格者でしょう。



心(魂)に聴く耳を持たない恥知らず

 世間には、人は話せば解ると言う人達が居られます。そうであって欲しいと誰でも思いますが、そ
うした人達は体験不足です。いくら話をしても、最初から話を聴く耳を持たない者達も居るのです。そ
うした者達は常に問答無用で来ます。他の人の話は聴かないが、自分の言うことを聴かない者には
脅しや暴力で従えようとします。
 それは、自分で自分がする行為は常に正しいと思っており、人の意見や忠告を聴く必要は無
いと思っているからです。誰かが間違っていませんかと話をしょうと思っても問答は無用。常に自
分だけが正しい者と思っており、他人の行動に関しては善人面であれやこれやと非難をします。そ
して、他人に向かっては自分の話はよく聴けになるのです。

 しかし、そうした者の話はほとんどが間違っている場合が多いのです。自分勝手、自己中心主義
の何ものでもない場合がほとんどと言えるでしょう。
 他の人の話や講演などを聴くと、自分が知らなかったことや体験していないことを数多く学べ
ます。いろんな知識を心に蓄積出来ます。それが博学(広い知識)につながります。
 ところが、こうした者は他の人の話や講演など最初から聴く気はないのです。自分の魂の向上を計
る気がないわけです。こうした者の魂は捻れて潰れているような場合が見られます。すなわち、
魂(心)に他の人の意見を聴く耳が備わっていない。間違ったことをしても、自分で自分を恥(耳心)
じるということは絶対に出来ないのです。

 人は一般的に間違った行為をした時、それを誰かから忠告されたならば自分を恥じる。それは、
良心呼ぶものが備わっているからです。だが、魂が捻れて潰れているような場合、良心と呼ばれ
るものも潰れています。心(魂)に聴く耳を持たないことから恥を知ることがなくなります。
 こうした方達にいくら話せば解ると臨んでも、自分の魂を潰している様な方には通らないということ
も知っておく必要があります。

他の人の話を聴(耳徳)くことが
魂の[徳]につながる
 徳と聴の漢字の右の部分は[省みる心]の意味でして、良い話を聴くと感動につながります。自分
の魂の反省につながるのです。


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