第五章・一輪の言霊の経綸は[ラ]

 大本教神諭が予告した[九つ花に咲く、一輪の言霊の経綸]の言霊は、アイウエオの第41
番目にある[ラ]にありました。

 しかし、それだけでは何の意味かが解りません。これは、漢字で表すと[良]の字。大本教が
告げた艮金神の[艮]に天の神たる点(テン)を付ければよかったわけです。

艮の頭に点(天)をつけると、良の字となる
艮金神国常立尊とは、ラ(良)ーの神
日本人は、旧約聖書の神を[鬼]で追った


       人の魂(心)の中には、創造神からの分魂(主の御子)で、
       人は神とも成れる魂(天神様の種)が存在します。
       これを良(ラ)の心の神で、悪魔を退ける心神となります。

自分の中の良心神に目覚めずに四十荒野を彷徨っていても
四十一で知る自分の良心神に目覚めるならば、悪魔を退けて
身の終わり(美濃尾張)の時は最後の高山に登る道を行く



古代アラビア半島で創造神はラーの神

 古代のアラビア半島で創造神はラーの神と呼ばれて来ました。このラーの神がエジプトに渡ってテ
ーベ市の守護神アモンの神と融合して、アモン・ラーと呼ばれるようになりまし。元々はラーの神。イ
スラム世界に渡ってアラーの神。

モーゼはアモン・ラーの神の元を出て[紅海]を渡り
四十年間も荒野を彷徨って、イスラエルを目指す

日本語はアの門(アモン)を出て、[後悔]を渡るならば
四十荒野を彷徨っても、四十一番目で神(良心)を知る
九つ花の真ん中の椅子を神ーが得る時が[椅子ラ得る]

それまでは、巡る回教[椅子ラ無]の神で荒振(アラブ)る神(艮状態)


人は、良(ラ)心神が無いと[後悔]は渡れない

大本教神典、主の神は35万年前に御引退
 神界での1年間は、この世では8765年間に相当し、神界で40年間の彷徨いは、40×8765≒
約35万年となります。計算式は合っているのです。間もなく主の神の復帰の頃となるのです。
 イエスの四十日間の荒野の彷徨いではなく、正しくはモーゼが演じた四十年間の荒野の彷徨いが
正しい型になるでしょう。これは日でなく、年(念)だからです。
 大本教神諭予告、この神は北を上にする。航海図は北を上にする。

貴方は【後悔】を渡ったか?
我れ好しでは、後悔は渡れない



始めにして終わりの神のラ神論

 西洋(旧約聖書)で創造神は始めにして終わりの神として知られています。大本教の出口王
仁三郎聖師が[ス]の神論を出した時、スはイロハの終わりである。そして、イロハの始めにはスー
ーーがあったなだと煙に巻いたようなことを言われました。では、ラ神論で始めにして終わりの神の
説明がつくのでしょうか?。

始めと終わり以外はラを閉じて、[今]がある
ラの神が表に現れる時、今の世は終わる
艮金神、今は退(艮の道)いているラーの神


大本教基本宣伝歌

神が表に現れて、善と悪とに立て分ける
善か悪かの判断は、良心神が決めること
 大本教の出口王仁三郎聖師は、霊界物語の中でこのことに触れて、輪廻転生が終わることだと
記しました。その通りで、万物を創造した神が人類の前に現れた時、これまでのような魂の輪廻転
生は終わってしまうのです。キリスト教で説く神の御国が到来はしますが、神の御国に入れるのは
善の人(魂)だけ。永遠の神、ラーの仕組み。



悪魂を地獄に落とす円真大王(羅王)

 仏教では、悪行を犯した者(魂)は地獄に落とされるとします。その冥府の長官を閻魔(エンマ)大
王、正式には閻羅(エンラ)大王と申し上げて来ました。羅(ラ)王のこと。そして、その配下の地獄
の役人が邏卒の鬼(牛虎)と表現されて来たわけです。節分の夜に鬼は外をされているもの達。
 しかし、牛虎の鬼とは各自の魂のことでもあり、閻魔とは円の真ん中にある良心神にもなります。
だとすれば、各自の魂の中にある良心神が各自の魂を天国や地獄にと導いていることになる
わけです。ラには[良も羅]もあるからです。
 すると、地獄とは何か?

獄(、言、犬)は、\の中に言がある
蛇や狐の神とは、全て獄に墜ちた神達
 
大本教神諭
 今まで世に出ておられた神がこの世を持ち荒らしておいて、し放題にしておいて(明治35年
旧3月14日)。今迄の世に出ておられる神達で、誠とか良心を説く神はどこにも存在していま
せんでした。
 ある言霊の働きが、そうした神々を\(獣)の姿に追いやっていた。これが、九つ花に咲く一
輪の言霊の経綸の、たった一輪の言霊[ラ]が持つ働きなのです。

         私が悪かったと涙で改心の神霊 
         蛇や狐の神ではなく、天人にと戻る

 たった一輪の言霊なのですが、誰も知らなかったのです。



善と悪を天秤に載せて計るラーの神

 この世の裁判は、個々の犯罪について裁かれます。その人がトータル(通算)で善人であったのか
悪人であったのかの裁きではありません。この世では善行に善行を重ねて来た人でも、一瞬の魔の
囁きから過って犯した罪でも裁かれるのです。反対に悪行ばかり積んでいても、摘発されなければ
それで終わってしまいます。

 一方、エンマの裁判とは、人の一生を善行と悪行とを天秤に載せての裁判。いくら殺人も強盗
もしていないと弁明しても、いつもいつも自分勝手(我れ好し)なことばかりして周囲に多大な迷惑を
かけ、これと云う善行も積んでいなかったとなれば、当然にマイナス点にと作用して来ます。
 反対に、自分は大罪を犯した悪人ですと名乗っても、小さな善行であっても数々していれば、その
大罪の罪を補っても余る場合もあるのです。こうした場合はプラス点の者となります。

 エジプトにおける[Ra・ラ]神信仰において、[Ra・ラ]は善と悪とを天秤にかけて計ると知られて来た
はず。そして、このラ(良)神の判定とは、症状として現れた結果ではなく、その人が何をしようと
していたのかを見るのです。

 ある道を切り開こうと一生懸命に努力した。その努力は実らなかったとしても、そうした努力をした
ことは神の眼鏡に適った人になるのです。

    この世は、悪を一つも犯さずにでは渡れない
    自分が犯した罪悪以上の善行を積めばよい

 我が宗派を信じれば天国に、異教徒は地獄に墜ちるなどの宗教論理はどこにもないのです。



来世の授け、死者の維新のラ(羅)王

貴方が犯した全ての善悪を記録する閻魔帳(庁)
 日本人の大多数は仏教徒で、誰もが閻魔庁(冥府の長官・閻魔大王が所管する役所)については
知っているかと思います。この閻魔庁の役人たる邏卒が牛頭で虎パンツの鬼であることも知ってい
たはずです。他に馬頭も説かれますが、知っていながら節分の夜に鬼は外をしていたわけです。

 こうした時、仏教寺院は自分達は悪い鬼を追っているのだと逃げるでしょう。それならば、鬼の姿と
は何であるかを説くべきでした。人の心の醜さを表す鬼を追うのであれば、心を説くべきでした。
ところが説こうとはしなかったのです。そもそも、鬼と般若の違いが解っていませんでした。恨みとか
怨念は般若と化しています。ですから「般若心経」。追うのではなく諭す対象。

 人の魂は丸い玉型。その丸い玉の中には核となる魂があったのです。○(円)の中の真(核)。こ
の円(○)の真は、人がした善悪を全て記録しているのです。それが善であるか悪であるかを判断す
るのが円真たる良心神。全てを記録する閻魔帳。
 この世で悪を犯した者も罪を償えば、全て許されて来たのです。

死(四)者の維新、羅王の来世(羅城)門

 応仁の乱の頃、京都千本九条にこの門をくぐれば来世が授かるとする羅城門(羅生門)がありまし
た。ところが、この羅城門(羅生門)に鬼が住むと人々は云い出したのです。黒沢明監督の映画[羅
生門]で有名な門です。
 羅(四羅)は、死(四)者の維新(新たに生まれ変わる)の意味で、羅王は地獄に落ちた死者に
も来世を授けていたのです。よって、羅城門は来世門とも呼ばれて来ました。この羅王をエンマ
(閻魔)様とも申し上げたのです。



生まれ変わりが無ければ、神もない

 バラモン教を親とする仏教やヒンズー教には[輪廻転生]論があり、人は生まれ変わると説かれて
来ました。
 だが、学者と呼ばれる方達は頭から輪廻転生論を否定して、それならば何故に人は前世を記憶し
ていないのかと攻撃ばかりして来ました。

 今の世の貴方、前の世の親を親とはしていません。前の世の兄弟を兄弟とはしていないのです。
今の世で出た環境。前の世の環境とは違います。顔も違えば背丈も違う。前の世の親や兄弟や友
達。覚えておく必要があるのでしょうか?。
 自分は前世では王であった。なのに今世は社会の底辺か!。なまじ自分の前世を覚えていると、
魂の修業の邪魔になります。自分の前世を知らずして、その偉業を尊敬することもあるのです。

前世の自分と今世の自分、同じなのは心(魂)

 同じ親から生まれた兄弟でも[性格]は違います。生まれながらの心(性)には格があるので
す。心(魂)だけは、肉体の親から貰ったものではありません。前世から続く自分なのです。自分が
肉体の親となった時、子となった者との間には縁があって親となります。その子の心を正しく育てて
やること。悪い性格は直してあげる。これが、子は神からの預かりものの意味なのです。

 この世に生まれ出て、その人には何の落ち度もないのに不運な一生で終わる人もあります。そうし
た時、死ねば終わりと云うのであれば神など無いのと同じなのです。

新しい人生を授けてこそ、神は存在することになる
ラ王の意味を認識すべきでしょう




最後の審判と性器の割礼

 旧約聖書を母胎とする宗教には、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教があります。その中のユダヤ
教における特徴は、最後の審判時において主の神との契約において[割礼]をしてるかどうかで天
国と地獄が決まるとします。
 ドイツのヒトラーがユダヤ人大虐殺を謀った背景に、この割礼問題があったとの説があります。こ
のままでは割礼の風習を持たないゲルマン民族は滅びてしまう。それならば、旧約聖書の契約が成
就しないようにユダヤ人を滅ぼしてしまおう。そう考えたとの裏の説です。
 この割礼問題はキリスト教徒にとっては一種のタブーと云われます。ただただ、イエスを主の神の
一人御子だと信じることで、この割礼問題に封印をしています。

 確かに、霊の世界を覗いて見るならば、霊界にはこの性器の割礼の絵が出て来ます。それを直訳
すれば、旧約聖書には何等の間違はないのです。
 問題は、映像をどう「言葉」に解釈したかにあるのです。

主と約のしは、魂の禊(示契)
性器は、まれながらの(心)

 日本では男子の陰茎(ペニス)を息子と云います。仏教は隠語で摩(ま)羅(ラ)と云います。
大本教の出口王仁三郎聖師は綾部の上野町と寺町の境を金竜池と称し、その周辺を下半身露出
させて歩いていたと地元の古老達は云います。御苦労なタヌキ(田抜き)の演技でした。
 もし、男子の陰茎の割礼が条件ならば、女性はどうするのでしょうか?。魂の心棒の点検であれば
男子にも女子にもあるのです。

人の魂の中に主の[息子]があり、息子を点検する
魂の中の芯(真)となる棒を息子と云う



神も時節には敵わない

 大本教神諭に面白い内容のものがあります。神も時節には敵わない。おいでおいでをしなくて も、時節を待っていたならばやって来る。だが、単なる時節の待ちではないのです。
 魂は丸ければ、魂の中心となる核から[心棒]が育ちます。地球と呼ぶ星も球体で、人の目に は見えなくてもN極とS極を結ぶ心棒(軸)があります。玉が歪(不正)んでいると心棒が出来ませ ん。魂に花が咲く時節を待つことは神も[辛抱]。
魂の心棒[辛抱]なくして育たない
魂に[心棒]が出来た者は主の息子
十(神)として立つのは辛(立十)棒
 ほとんどの人は、正直に生きる者を面白味のない奴だ。あいつ はバカじゃないのかとバカにしてきたはずです。
 正直と云うことは、魂の中に真っ直ぐな心棒が出来ているの です。だから、曲がったことは大嫌いとなります。ほんどの人 は、この心棒(辛抱)が出来ていないのです。
 魂が磨かれて玉(魂)が丸くなる。そこから心棒が出て来るまで には大変な年月を必要とします。 
 これが玉と棒の性器の点検]。大本教神諭、この神は北を上 にする。人々に創造神の[深謀]が見えていたのでしょうか?。



不正に走ると魂は歪(不正)む

辛抱(心棒)が出来ない玉

 世の中には何事にも自分の思い通りにならないと我慢が出来ずに、すぐに頭に血が上り、大声を
出して喚く、時には自分の意見を通す為には暴力を振るう人達がいます。いくら注意してあげても、
持って生まれた性分だ。そう言って、自分の悪い部分を直そうとはされません。更に、自分がする不
正を不正とは理解出来ない。こうした人の魂は、必ず歪(不正)んだ玉になっているのです。
 魂とは丸い玉。玉は丸ければ、目には見えずとも必ず[心棒]が存在するわけです。そうした
人は性格が穏やかだとか、性格が丸いと言います。こうした人は魂そのものが丸く。魂の心棒がし
っかり出来ていることから、何事にも[辛抱]が出来るのです。 
 そして魂が丸いと基本的には不正に走らないのです。

改心(替い芯)が可能な玉

 一方、世間では良い人だと評価を受けていながら、魂がどす黒く汚れている人がいます。確かに、
性格そのもは穏やかで丸いので魂も丸いのです。辛抱も出来ています。ところが、世間の目に触れ
ないところで悪に走っている人がおられます。こうした場合は魂は汚れに汚れてどす黒く汚れてしま
うのです。
 この場合は心棒も汚れており、魂の芯を替えないとダメです。あまりにも汚れてしまうと魂そのも
のが悪臭を放つのです。善人の仮面を被っても魂に嘘はつけないのです。
 丸い玉ならば、自分がしている行為は間違った行為であることを理解は出来るはずです。魂を歪ま
してしまうと改心は出来ませんが、単に汚している場合は改心が出来るならば[替い芯]が出来るで
しょう。
 単に心が改めるだけが改心ではないのです。



宿命のカルマ(前世の業)

 霊能者は、一般的にこの世は魂の修行場(罪の祓い)と云います。そうしたことを日本神道では
[禊ぎ]で教えて来ました。では、仏教ではどのように教えて来たのでしょうか?。
 仏教では[輪廻転生]を説いて来ました。この輪廻転生とは、人は人として生まれ変わると説いた
のではないのです。人でなければ牛や馬や犬や猫や昆虫と云うように、他の命あるものに生まれ変
わることをも説いて来ました。そして、人がこの世に生まれ出る原因は前世からの業(カルマ)を
取り除く為とも説いて来たのです。
 ところが、私達はそうしたことを自分の菩提寺の和尚から聞くなどまずないでしょう。質問すれば答
えてはくれるでしょうが、ほとんどの人はカルマ(業)と云う言葉すら知らないのです。通常の国語辞
書を引いても[カルマ]と呼ぶ言葉は載ってはいません。それほどまでに知られていない言葉です。
しかしKarmaで引けば、仏教で[業]を指した言葉と解るはずです。

カルマ(Karma)=業(前世の悪罪から来る症状)
 このカルマ(Karma)は[運命]とも訳されます。すなわち私達は運命としてカルマ(前世の業)
を背負って生きていることになります。幾多の魂を見て来た時、どうしょうもない前世の業(カルマ)
を引きずっている人があります。そうした時、私は世俗を捨てて僧侶とか尼になりなさい等と云いま
すが、御本人には意味が解らない様です。誰も自分が前世でどの様な罪を犯したのかが解りようが
ないのです。ただ、前世で犯した罪を祓う為の[業]として現れる事例は非常に多いのです。



人は誰でも軽魔(業)を背負う

 優れた霊能者は、この世は魂の修行場と言い、その魂が持っていた業(カルマ)を祓えばこの世に
二度と生まれ出ることはない等と云われます。言い換えれば、この世に人として生まれ出ること
は魂としては完全ではないのです。
 この世で悪行をして来た人達。多くの人は悪党も死ねば仏様だから、死者に鞭を打つななどと言
われます。悪を犯す人達は、命とは何であるかに対してあまりにも[無知]だったのです。無知(鞭)
に学ぶ懲らしめがいります。エンマ大王の懲は[心の徴]。

は死(四)ず、この世を去ったでは消えない
 自分が前世で犯した罪。仏教では、それがこの世で[因果応報]として現れると説いて来ました。
その因果応報の[因]となるものが業(カルマ)。悪業を積んで来た魂は地獄に落とされます。地獄
の刑期を終えたとしても、悪業を積む因子(遺伝)までは取り切れてはいないのです。魂として欠陥
がある部分。それは軽い魔として、この世に持って出るのです。

 私達は、この世に自分の魂を磨く為に生まれ出て来ます。それならば、別にこの世に出て来なくて
も霊界で磨けばよいではないかとなりますが、霊界は想念の世界・心の世界であって、同じ想念・同
じ心を持った者達ばかりが集まる集団なのです。為に、そうした仲間達の間ではドングリの背比べ。
そこには進歩が存在しないのです。
 違う想念や違う心を持った者達と交わることで、違う考え方や違う心を知ることが出来るわけ
です。それがこの世なのです。ですから、学びの修業場なのです。

 仏教では、この世に生まれ出て来るのは自分の業(ゴウ)を修める為と云います。仏教の世界で業
とは「カルマ」の名で知られています。

修業=業(カルマ)の修正

 人は完璧ではありません。何等かの欠点をもっています。それは、その魂も完璧ではないというこ
となのです。自分の欠点により為した失敗。それが業(カルマ)とか因縁と呼ばれるものになるので
す。それら業(カルマ)や因縁を修正させる。それが修業なのです。


 私達は霊界から見た時、何度でもこの世に生まれ出て来ます。それは、自分の欠点を更生させる
為です。すなわち、この世に

甦(よみがえ)り=更生(甦)をする為

 しかし、いくらこの世に何度生まれ出て来ても、更生出来ない魂があります。
 それは、後世に更生することが「公正」を学ぶことだと知らないからです。

[公正]を学ぶ為に、[後世]に出る

 自分が何の為に、今の世に出ているのか?。その意味をはっきりと認識しなければならないので
す。我れさえ好ければそれで好し。それでは「公正」になりません。大本教神諭が一貫して「我れ
さえ好ければそれで好し」を批判したのは為なのです。
 単に「空」だ「空」だと云っているだけでは、「公正」とは何を学ぶことか解らないでしょう。

この世は聖人君子では渡りきれない
 世の中には、俺は偉い者だ立派な者だと自分勝手に思っている人達がいます。この世は聖人君
子で渡れないようになっているのです。この世を聖人君子で渡ろうとすれば、高い山にある寺院な
どに籠もって住み俗世とは縁を切る。そうした覚悟が必要となるでしょう。俗世を離れて修行に修行
を積まないと行けないのです。
 俗世では、どんな人でも必ず悪業に手を染めます。自分がした悪業に対してどれだけの反省をす
るか!。自分がした悪業の償いとして、どれだけの善行を積むのか!。善行を積んで行けば軽魔
(カルマ)は消えるのです。



この世が魂の修行場の機能を失った時

 この世は魂の修行場として創られたものです。魂を向上させる為にこの世に降りた魂が魂として向
上するのではなく、魂を堕落させる場となった時、この世は魂の修行場としての存在価値を失い
ます。
 今の世は誰が考えても魂を向上させるのではなく、逆に魂を堕落させる世となっています。だとす
れば、この世の存在価値があるのでしょうか?。 

 宗教の世界で語られて来た最後の審判、この世の終わりとは、この世が如何なる意味で造られ
て来たのかを知らないと意味が解らないのです。何も考えずに人は死ねば天国などと言っている
と、とんでもないことになります。
 旧約聖書に私は義がある者が一人でもいるならばこの世を滅ぼさないとあるのもそうした意
味。心が正しい者達。それは、この世を創造した神の宝(天人)となる者達。義を知る者が人類
の王であれば、この世は滅びないのです。

人々が正しいことをする世であれば
この世に終わりと云う言葉はない

 人は、自分は神(大いなる力)によって生かされていると知るべきです。それは、例え神という
存在を見なくても、大自然を見るならば大いなる力によって自分は生かされていると云うことが見え
て来るはずなのです。大自然を見た時、どれだけ自分がいと小さき者かを感じるはずです。私は大
自然に触れる度に神の存在を感じるのです。
 俺は学者だ。偉い者だ。どんなに学問を積んだところで、この世を創造した神の智恵に及ぶもので
はありません。学者に神の解明など出来ないのです。また、宗教家であっても神に仕える霊能者で
あっても、この世を創造した神のことなど解るものではないのです。
 人は人であることに謙虚さを持たないと行けないのです。



形あるは滅びても、形なきは滅びない

 お釈迦様の教えに、形あるものは滅びるが形なきものは滅びないがあります。私達人間は肉体と
云う形あるもので、どんなにこの世に未練があって生きたいと願っても、人には肉体と云う形があ
る以上滅び(死)を迎えます。それが早いか遅いかの違いだけです。
 しかし、私達の[心]は目には見えるものではない(形がない)以上、滅びることはないのです。

神には形がないので、神が坐す形を[]型で表す
鳥居本来の目的は、悪人は通さない見張りの刑事

 日本神道では神霊が坐す神殿の入り口には鳥居を建てます。この鳥居本来の目的は、悪とか
魂が汚れた者は通さないにありました。しかし、現実にはどんな悪人でも通れるのです。それは、
鳥居本来の働きが機能していないからです。自分は鳥居がくぐれないとなれば、誰でも自分の行為
行動は間違っていたのかと思い知ることが出来たでしょう。
 全ての霊能者、この世は魂の修業場で肉体は魂の服であるとまでの論理は一致します。そうした
霊能者の中で高度の神霊界に関わっている霊能者は、この世は魂の刑務所だとまで言い切る方も
います。この世は魂の更生場。

魂の刑務所で、自分勝手な気ままは許されない
魂は更生の為に型(枠)務所の中で道徳を学ぶ
四(死)んだ後、十(神)と上がる心の徳(十四心)



最高の立法府の規定、第41条

日本国憲法第41条

 日本国憲法第41条は、最高の国権たる機関を規定します。それと同様に、神が定めた律法は
第41位の言霊で告げる[ラ]神論の良心神が最高の律法であって、人であれ諸々の神であれ、
その規範は良心に乗っ取って定めなければならないのです。そうでないと、している行動が天則違
反となります。
 国家がある法律を作ったとしても、その法律の内容が人の良心の働きを阻害する法律であれば、
そうした法律は問題があった時点で停止させなければいけません。
 政(まつりごと)をする者に正義や誠や良心がないと、結果的に苦しまなければならないのは
一般大衆や正しい者達になるのです。

 ユダヤ教においても、イスラム教においても、何がなんぼで、こうしなさい。ああしなさい。そんなこ
まごましたことを万物を創造した神が人類に対して指図したと考える方が間違っています。宗教家
と名乗る者達の中には、神の名を利用して来た者達が多数居るのです。そうした者達が勝手に
神の名を使い自分の頭で決めたのが宗教の律法。
 中世のキリスト教社会において、イエスと同様の奇跡を見せる霊能者達は魔女の烙印を押されて
火炙りの刑に処されました。それを命じたのは神ではありません。牧師(神父)と名乗る者達が神の
名で勝手にしたことです。
 神学校を出て来た優秀な者達であったとしても、神霊世界に関わることが出来ない牧師達は自分
達の頭の中で勝手に描いた神観を元として神を説いて来たのです。

 もしも、自分の中の良心が神であると気付いていたならば、イエス一人に罪の償いを押しつけ
ている教義が根本的に間違っていると気付いたはずです。単に[羊]達を追う牧師であってはい
けなかったのです。



一輪の言霊、ラ神論の秘密は瓜二つの

 大本教神諭は、九つ花に咲く一輪の言霊の経綸。これを誠で紐解く御方が出て来ると予告しまし
た。大本教出口王仁三郎聖師は、その九つ花を「九曜紋」とされ、その九つ花の一輪の言霊は「ス」
とされました。
 だが、九曜紋では「みろく」の意味が出て来ませんでした。

 大本教神諭が予告した「九つ花」とは、九の魔方陣のことで、これならば一輪の言霊をもって、お
釈迦様の悟りを引き継ぐ「みろく」ともなります。
 ラ神論で展開される良心神は、大本教神諭、この神は病気治しの神ではなく、心の立替の神に合
致します。

しかし、どうして大本教からラ神論は出さなかったのでしょうか?。

 九つ花に咲く一輪の言霊のラ神論そのものは、天行居教の「友清歓真」さんが発表しました。しか
し、その扱いは真ん中の「41」の数字は永久不変数で、天之御中主様のことである。そこで止まっ
てしまったのです。

 「ラ」が意味する漢字には、良心神の「良」。死者の維新の閻羅大王の「羅」。余分なものを身につ
けない「裸」。宇宙は螺旋運動をしていますの「螺」等があります。
 しかしながら、まったく気付かれない草冠に瓜が二つぶら下がっている「ラ」があるのです。この
「ラ」は環境文字に分類されており、コンピューターの機種によっては表示が出来ません。そこで、文
字としでてはなく、像としての表しになります。


 私も、最初はこの文字は「ラ」神論には何も関係していないものと思っておりました。それは、この
「瓜」が単なる瓜だと思っていたからです。
 それは、瓜二つの意味は一つの「瓜」を半分に割った意味だと思っていたからです。
 この瓜は、瓜のことではなくて「地球」の意味だったのです。


狐は、瓜の獣?

 大本教神典に国常立尊様の世の立替にあたっては、白狐(稲荷)は下郎の役で奉仕するがあった
かと思います。
 そうした時、狐の字を見ていないわけです。何となく、見逃してしまいます。

瓜は丸いか?
西瓜(スイカ)は丸い


 私がまだ子供の頃、姿が見えない声が臨んで、私達が住む地球と同型のものがあると告げられま
した。そして、その地球において人類が待ちに待った未来の世が開かれると言われる。それは、未
来永劫の国だと。
 しかし、そんな存在は科学でもあり得ないとするし、私自身神霊世界に関わって幾多の霊能者の
方を知りましたが、霊能者からそうした存在が語られることはありませんでした。また、この世に出て
おられる神々からも、そうしたお話はありませんでした。私もそんなバカな話などあり得ないと思って
いました。
 しかし、神霊世界に関わって二十数年。西暦2007年に「8の字」神業をさせていただいた時、稲
荷神界の主立った御神霊が腰に「瓢箪」をぶら下げておられると霊能者の報告。

狐の神が腰に瓢箪(瓜)をぶら下げる?

 再度、狐の意味の紐解きとなりました。
 「8の字」神業の意味を理解した時、ようやくこの「ラ」の意味が理解出来ました。

新しい地球(永遠の神の御国)
造物主が隠しておかれた世界

 私達は三次元と呼ばれる世界に住んでいます。私達が住む地球と同型の地球は三次元ではな
く、また、幾多の霊能者からもその存在に関して言及がない以上、四次元世界に存在するとも思え
ません。
 おそらく、五次元以上と呼ばれる世界に存在すると推察が出来ます。




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