第七章・馬(午)の言葉、許すの救世主

 キリスト教ではイエス一人が神の御子で、イエスを救世主と信じるキリスト教
徒は最後の審判で神の御国に救われるが、そうでない異教徒は地獄に墜ちる
式の教義から一歩も抜け出せていません。
 いったい、どこにイエスが救世主である証拠があると云うのでしょうか?。ユ
ダヤの博士達は言いました。救世主は馬小屋から生まれると。

貴方が犯した罪をしましょう
それが、馬

 私は大本教の出口王仁三郎聖師とは違い、言葉の仕組みを九九(句々)は
八十一の将棋の盤面(九つ花)で解説をしています。




この九路盤を走るのが[駒]と言う馬
馬に句(言葉の区切り)という

 終わりの日、人の子が雲に乗ってやって来る。雲出(いづる)出雲の国には
「八十一」柱の神あり。
 八十柱の神には良心がなかったが、一柱の神には良心があった。

 大本教神諭予告、九つ花に咲く一輪の言霊の経綸の想像を絶する仕組み。
 身の終わり(美濃尾張)の日、貴方に良(ラ)心と呼ぶ神があるならば主は貴
方を許されるでしょう。



許すの馬(午)は、体験と云う馬に乗る

 古代のユダヤでは、救世主は馬小屋から生まれ出ると信じられていました。ユダヤ教徒が云う救
世主とは、自分が犯した罪を[許]してくれる存在。

 本当の許すは、その人が自分が犯した罪を悔い改められた時に云う言葉。
 人は誰でもそうですが、ことの善し悪しは自分が体験して始めて解ること。自分は何も知らない。
体験もしてもいない段階においては、ことの善し悪しを云うべきではないのです。自分が体験をして
みて、これは許されるべきものだ。これは許されないものだと判断出来るわけです。体験・経験と云
う馬には乗って見ないと何も解らない。反省も出来ないのです。

 仮に、貴方が雲の上の人(天上人)として世に生まれ出た時、貴方に多くの人々の心の悲しみや
苦しみが解るでしょうか?。優雅な生活の殿上人(天上人)に解るはずなどないのです。この世は魂
の修行場。魂が磨かれている人は、いろんな体験・経験を積んでいるのです。
 学ぶということは、多くの体験や経験を積むことから起きるのです。そうした勉強は学校では教え
てはくれません。社会の底辺の荒波に耐えることで荒波が魂を磨き育ててくれるのです。多くの偉
人は、貧しい環境下で生まれ出た人(魂)に多いのもその為です。

   他人の罪を許(馬の言葉)すことが出来る心は
   自分が体験や経験を積んで来て、初めて解ること
   人が自分を悔い改めるには、良心神が必要となる

 イエスに油を塗った売春婦。売春は悪であっても、その売春をしなければならかった売春婦の背後
にある事情。その苦しみや悲しみや涙を誰が知るのでしょうか?。多くの人々は、そこまで物事を考
えずに言い過ぎています。宗教の律法律法で全てが片付く世などはないのです。



自分は救世主とか仏陀だと名乗る者

 巷には、自分は救世主(キリスト)だとか、仏陀の生まれ変わりだと称している宗教者が無数に居
られます。そうした者を100人集めれば100人とも同じことを云うでしょう。

自分以外の者は、蛇や狐の神に騙されている

 それは、自分も他のそうした自称救世主とか仏陀の生まれ変わりと名乗る者から見れば、蛇や狐
の神に騙されている一員であるとを見られているのです。今の神霊界は大別すれば蛇霊系か狐霊
系のどちらかしかないとされます。
 悟りを得たお釈迦様は二度とこの世には生まれ出ずと云われました。そのお釈迦様に代わって
印でお釈迦様の悟りを説く者がみろく菩薩と呼ばれる者になります。そうしたことは仏教では常識
のはずです。自称仏陀は自分からニセ物だと発表していることになります。
 一方、自分はイエスの生まれ変わりだと称されてしまいますと、こればかりはどうにもならないので
す。何故ならば、悟りを得ることが出来なかったイエスは再来しなければならないからです。どのよう
な形で出て来るかは、こればかりは神のみぞが知るでしょう。
 しかし、絶対的に言えることがあるのです。

一人の人間が、全人類を救うなどの所業は不可能

 全人類に救世の仕組みをしようとすれば、全ての人が持っている[魂]の中に救世の種を入れ
ておくより方法はないでしょう。自分の良心神に貴方は天国に貴方は地獄に、そう決められたら文
句の言いようがないはずです。自分は間違っていましたと改心出来るのも、自分に良心神があって
こそ出来ることだからです。



救世の救でなく、九(球)に秘められた意味は?

 救世主論議をするとするならば、自力の救世主論と他力の救世主論で語れるかと思います。私が
このHPで述べている自己の魂の中に内在する良心神(主の分け御魂たる御子)とは、自力救世論
になるかと思います。自己の九(球)の玉に救いを求めるものだからです。

九(球)を制する九制主(球制主)

 私達の魂たる玉を制するのは、本来は魂の核に存する「良」心神であらなければなりません。だ
が、私達は自分の良心神の声を忘れて、邪(蛇)の囁きから来る誘惑に負けてしまいます。

 大本教霊界物語において、みろくの神の御紋章は○に十の定めなりとあります。

 記号的に見ますと、どのようなものかと言いますと、下記の写真は平成になってから元綾部小学校
跡地に建てられました大本教の新神殿群の壁などに見られます。
 日本では「島津藩」の紋章として知られるものです。


大本教平成建立神殿群の壁の紋章

何故に
出口王仁三郎聖師は島津藩の紋章と示さなかった?

大本教は「水晶ミタマ」を宣伝した
○十の○(丸)とは水晶玉


水晶玉に白の「十」字形が入る
(写真の水晶玉はインターネット上から借用)

為に、○に十での説明



九(球)を制する主
丸と九
九(苦)を制して十(神)となる



救世主は女神形で主の娘(女の良)


汝の魂に内在する良心神は、水(瑞)の女神

 大本教の出口王仁三郎聖師は非常に面白い演技をされました。男でありながら女装をして変性
(へんにょう)女子と名乗っていました。開祖の出口なおを変性男子としたのです。そして、救世主は
変性女子(瑞霊)だと説きました。瑞霊とは水の女(汝)の意味。
 キリスト教は、イエスが救世主だと信じることから成り立っています。ところが、後発のイスラム教
の開祖マホメットは、イエスは自分と同じように預言者と言ったことから、キリスト教徒とイスラム教
徒は犬猿の仲になってしまいました。
 では、マホメット(ムハンマド)にイエスは単に預言者だと教えたのは誰かとなった時、それは旧約
聖書での天使カブリエルされています。キリスト教徒は、この意味を理解しようとはしません。男子で
は救世主(水の女)は名乗れないのです。

  古来より、救世主の星は太白の金星と云われて来た
  金星のビーナスは、ギリシャ神話で主(ウラノス)の娘

 旧約聖書において、バビロニアの大姦婦と呼ばれて来たのはギリシャ神話の中のビーナス神。主
の娘の立場を忘れて他の神達と姦淫をしたです。
 人々の良心神は、主の神を忘れて他の神と姦淫をしているのです。人の魂の中の良心神は
女神形でも変性女子。
 大本教からは、この型演技が出来る女子が出口一族や幹部の女子達から見つからなかった(霊
界物語第十三巻信天翁)。開祖の娘は[りょう]でも、良(りょう)子ではなかった。良子と云う遊女の
型が必要だったのです。

 また、大本教三代教主補であった出口(高見)日出麿さん。その日出麿さんと同郷であったことか
ら大本教機関誌の編集長であった日月神示の岡本天明さんは倉敷出身でしたが、

この型は「九ラ式」として成り立つ

主を忘れた遊女も主の胸に戻るならば、その装いも新たに嫁ぐ六(禄)付きの神の花嫁



救世主役は百害あっても一利無し

 巷には自分が救世主だメシアだと名乗る人達が何人もおられますが、魂の本当の救世主はお釈
迦様の悟り、人には良心と呼ぶ神が内在するの良心神と呼ばれる存在。この存在が出来ていれ
ば、良心神は主からの分魂で在る為に救世主と呼ばれ者を必要とはしません。
 大本教が宣伝したように、人は神の子神の宮であって、キリスト教の様にイエス一人だけが神の
子だと、何もかもイエスに罪を押しつけるようなことをしなくてもよいのです。
 しかしながら、お釈迦様の悟りは人類の終末前に現れて誠印で説くみろく(三六九)菩薩が出て来
ない限り、仏教徒ですら解らないと予告されたように、三六九花(九の魔法陣)を見るまで誰にも解る
ようなものではなかったわけです。
 為に、全人類を救うなどの所業は不可能としても、ある程度の人達を救う権限を持った魂は用意さ
れており、そうした魂の持ち主が終末に備えてどこかに隠れているということは想像に難くはありま
せん。
 しかしながら、全人類を救う救世主は居ないにしても、救世主に似た役が出来る魂の持ち主にとっ
て、その役は百害あっても一利無しの厳しくて辛いものでしょう。何故ならば、自分が助ける者達が
積んでいるであろう罪や汚れを先に背負わなければならないからです。

 助けた者の罪や汚れを後から背負えばよいでは無いのです。先払いで、救う者達の罪分だ
けは祓(払)っておく必要があるからです。

私は、救世主が居たならば草履取りで仕えたい

 救世の役を命じられる者がどれだけ辛くて悲しい道を歩んで行くか、涙なくして語れる道では
ないでしょう。為に、私はそうした方が出て来られたならば草履取りで結構ですから私を使ってくだ
さいと云います。実際に、ニセ救世主と解る人でも人々を助けようとしていた霊能宗教家に対しては
草履取りで仕えて来ました。そのことが言葉の解読に役立ったのです。



父親と歩くバージン・ロード

 日本人の大多数は仏教徒ですが、結婚式だけはキリスト教会で挙げたがる女性が多いようです。
キリスト教会で結婚式の時に花嫁が父親と一緒に歩く道をバージン・ロードと云います。バージンと
は未だ異性とは交わっていない処女のこと。

 旧約聖書。結婚式の時に女子は処女である証を立てなさい。処女でなかった花嫁は石を持っ
て打ち殺せとあるほど処女性は神の前では重要なのです。旧約聖書を信じる未婚の女性であれ
ば、この教えは今も大事に守っておられるでしょう。日本神道においても、神に仕える巫女は処女で
あることが絶対的条件だったのです。
 神に誓って、自分は未だ処女ですと父親と一緒に歩くのがバージン・ロード(処女の道)。父親は、
自分の娘は処女であることを神に対して証明する役。神の前で嘘の証言をした結婚式では、神に
背いたことになります。
 そうした背徳さえ忘れた人達。神をないがしろにしている日本人とも云えます。

 日本の未婚の若い女子。いつの間にか結婚式まで処女であることの大切さを見失った。性の
乱れは蛇霊の囁きから起きて来ます。霊能者は色欲に狂う人の背後に蛇霊を見るのです。

女子が性を乱した時、創造神の怒(女の股心)を見る

    日本神話の天の岩戸開け
    女子が下半身露出させて踊る時、萬(万)の扉(戸)は開かれる
    旧約聖書は男子の陰茎で、生まれながらの心の器の心棒を点検
    日本神話は女子の陰処で、最後の審判・天の岩戸開けを告げる



耶蘇(八十)教と蘇民将来

 自分は救世主だと名乗る某霊能者、常に乞食の様な姿をしておられました。備後風土記に記載さ
れる説話。貧しかった蘇民将来は貧しいにも関わらず乞食の様な姿をした神に宿を貸して栄え、そ
の子孫は厄災を免れることを神から約束された。一方、金持ちの弟の巨旦将来は裕福なのに乞食
の姿をしていた神に宿を貸さなかったことで滅びました。これより、神は乞食の様な姿をして人の前
に現れるとされて来ました。その霊能者はそれを演じようとしていたようです。
 蘇民将来は災いを防ぐと云うことで、厄神祭の時の茅の輪くぐりの由来となっています。

蘇民将来とは、神を助けた将来

 キリスト教のことを耶蘇教と云います。これは、イエスが処刑の後に蘇ったことから耶蘇教と呼ば
れるのですが、もう一つの意味は八十(ヤソ)教。イエスは神の愛の教えを説きましたが、八十一で
構成される九つ花の真ん中に位置する良心神の教えは説かなかったのです。エスは処女母胎と
します。当然に、良心(両親)の存在は抜いてあるのです。

最後の審判の後は、甦るでなく蘇るになる
 輪廻転生の中においては、甦るは魂を更生させて赤子で生まれ出ることを意味します。しかし、最
後の審判と呼ばれるものの後に来る新しい世においては親となる者を必要としますので蘇るが起き
ることになります。神を大切にした者達は蘇民将来。
 別に神は乞食の姿をして現れるのではないのです。どのような姿や立場の者であっても、そ
の人の外見や地位でその人の価値を判断してはいけないということです。どこに、神たる方が
人の姿でいるのか誰にも解らないからです。

 神に助けて貰うではなく、神を助ける者が新しき世の住人なのです。 



苦(九)界の中で育つ良心神

この世は苦界と云った釈迦
 
 仏教を開いたお釈迦様は、この世を[苦]界と云われました。霊能者と呼ばれる者達のほとん
どは、この世は苦界と云われます。だが、ほとんどの人はこの世のどこが苦界かと首を傾げるでしょ
う。苦界と云う意味は、別に肉体的な辛さだけを意味しているのではないのです。この世が苦界で
あることが認識出来ない人は悟りの道にはほど遠いのです。

人の痛みを知ることが、に通じる路の神経

 大本教神諭は、九の魔王陣を九つ花と表現しました。九(苦)界で咲く花。人の魂の中の核に
して天の神からの分魂である良心神は、主(創造神)の自らの心を秘めた息の子(息子)であり、主
の娘ともなる立場。この良心神は、苦(九)の中でしか育てることが出来ないのです。為に、九つ
花でないと意味が解けません。
 日本の宗教界の一部に、お釈迦様は[この世は苦界と悟られた]ことが悟りだと説いている派もあ
るようですが、人には良心と呼ぶ神が内在していると悟られたから、この世は[苦界]と認識された
のです。

十の神記号、西洋の宗教の特許ではない
 
  神を[十]字記号で表現するのは西洋の宗教の特許ではありません。十は[テン]の神を指すので
す。

(苦)を背負い(神)と成るのが魂の(九十)業試験

 〇、一、二、三、四、五、六、七、八、九と来ても十に進めないと、また〇、一、二、三、四、五とや
り直しをしなければならないのです。死ねばテン(十)国とは行かないのです。その前に必ず[苦]が
襲って来ます。
 西洋で試練は神が人に与えるプレゼントと云うように、苦(九)は魂の卆業試験として乗り越えな
ければならないもの。体験・経験の馬が魂を救い罪を許されるのです。



神が魂に与える公平と平等


  絶対神(創造神)は、人類に災い(苦)を与える神
西洋で、人がこの世で味わう苦(試練)は絶対神からの贈り物と云います。
苦を試練と取るか、単に苦と取るかでは百八十度も違うのです。



  旧約聖書の信徒達は、主を災いの神として受け止め
  日本人は、主を祟りと災いの鬼として煎り豆で追った
 絶対神からの試練と呼ぶ贈り物。それは魂の大きさによって違います。小さな魂には小さな試練。
大きな魂には大きな試練を贈るのです。主の神から魂に対する試練は公平に贈られています。大き
な苦(試練)を背負う人は魂が大きいのです。
 古来より苦は自分を磨かせると云い、苦労知らずは魂が腐ると云って来ました。我が子を甘やか
してはいけないのです。魂が大きい人は課せられた苦を苦とも思わない場合が多いのです。

  私は、神からの試練(苦)を葉の(九つ花)でった
試=言式


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