第八章・神の祭壇に牛と羊の血を捧げ

 旧約聖書には、神の祭壇に牛と羊の血を捧げなさいがあります。万物の創
造神と呼ばれるような神が、牛と羊の血を捧げて欲しいなどあり得ないことで
す。何の意味だったのでしょうか?。

 私は立派な羊霊の訪問を受けました。羊達は古代のユダヤ民族の族長であ
ったヤコブやヨセフの霊と名乗りました。羊霊が云うのには、自分達は霊界で
ユダヤ民族の救い主の登場を何千年にも渡って待っています。本当にイエス
は救世主だったのでしょうと私に尋ねました。

 私は何故に旧約聖書を信じた者達は羊なのか?。私は羊には何の意味があ
るのかと考えました。

羊の言葉は善(譱)となり
正しい我れは羊は正義(我羊)

 単に羊となって神の教えを聞いていたのでは、狼(獣になった良)に騙されて
食べられてしまうだけの羊達なのでしょう。

 神の祭壇に牛と羊の血の捧げとは、犠牲心の意味。犠牲の文字、牛と羊で
我は生きるの組合せ。霊界において義が厚き者は羊の姿。天の神の御使いた
る者は牛の姿で見られるのです。
 艮(牛虎)の反対側には坤(羊猿)。兄が牛で妹は羊。牛と羊、羊は偶蹄目ウ
シ科にあります。

 この世で自らを犠牲として他の命を救った者は神と呼ばれる祭壇に上がれる
のです。



人類は創造神を知らずとも恙なく生きられる

 西洋やイスラム世界では、旧約聖書の絶対成る神の信仰が行われています。ただ、キリスト教で
は絶対なる神と人類の仲介役にイエスを置いた為に、イエスそのものを主としてしまう誤りの教義の
中に入ってしまいました。
 日本では、日本書紀の創造神・国常立尊とは【日本の国に常に立つ御言】で神は言葉なりきを意
味し、災いや祟りの神と恐れられる艮金神とは人の中に存在する【魂】の論理だったのです。
 人は、創造神を知らずとも恙(羊の心)なく生きることが出来ます。為に羊の心を忘れてしまいまし
た。もし、羊の心を持ってしまったならば、人はこの世を恙なく生きることは出来ません。災いの
中におかれてしまうでしょう。
 それは、この世では狼(良心を獣とした者達)に襲われるからです。狼に欺されないようにしなけれ
ばならないのです。 

善良(羊)な者は狼に食べられる

人は誰でも神は誠と正義の権化と思いたい

誠と正義の神は存在しないのだろうか?
言が成る誠(真)と、正しい我れは羊の義(我羊)

 雪印食品の偽装事件において不正を告発した西宮冷蔵の水谷社長に対して、食品を扱う役所や
役所を管轄する時の大臣は誤った処理を行いました。政府の誰も[正義]を重んじませんでした。そ
して、国民の大多数が圧倒的な支持をしていた時の総理大臣も[正義]の人ではなかったのです。
 もし、その時の総理大臣たる人に正義の心があれば、ああした処置は行われなかったでしょう。

人々は正義の心を忘れた

 創造神が定めた神の憲法第41条は良心神で、他の律法より優先します。役所の言いなりの
管轄大臣など簡単に更迭出来たはずなのです。
 西宮冷蔵の水谷社長は正義を重んじた為に災いを受けました。主(誠と正義)の神は人類にとっ
ては災いとなる神。しかし、羊の心(善や正義)が無ければ神の御国などには入れません。正し
いことをする者は神の恵を受ける者だからです。



単に善人では天国の門は開かない

 一般的に、あの人はこの世では善人だったから天国に行けたであろうと人は誰しも思います。私も
最初は善人ならば無条件で天国に行けるのであろうと軽く考えておりました。しかし、神霊界に修業
に入って単に善人では中有界の上級界止まりと知りました。すなわち、犠牲を払っていない善人で
は天国に渡る資格がないのです。それは、犠牲の血を流していないからです。

羊(善)の血を流す=世の為、人の為に尽くす
我れさえ好ければでは、羊の血は流せない

 世の中には自分という存在を犠牲にして、世の為人の為に尽くしておられる方達が沢山おられま
す。例えば、国境無き医師団に参加される医療関係者。青年海外協力隊。紛争地や貧困地で活動
されているNPOの人。社会福祉の為に私財を投げ出す方など諸々の場合があります。アフガンに
おける中村医師の活動やブータンにおける西岡さんの活動歴は、現地の人から生きた神様と尊敬
される活動です。これが善(譱)の羊の血の流し。
 また、世の為、人の為に尽くしたいが為に医療職、警察官職、消防官職、教員職、公務員職を志
す人達もあります。自分の為ではなく、世の為に人の為にと働いた行為は羊(善)の血を流した
ことになるのです。正義とはそういう意味。単にあの人は性格が丸い。穏やかだけでは天国の扉
は開かないのです。
 羊(善)の血は、一般の人が社会生活の活動において流す血であり、牛の血は主の神の為に流す
血を指します。
 大本教外伝、国常立尊様が悪神達の為に退所に赴く時、見送りの牛人(うしうど)に私の復帰は何
時になるかと尋ねられたならば、牛人いわく、節分の煎り豆に花が咲く時。国常立尊様はニッコリさ
れて退所に赴かれたとします。

 私は牛頭の人など存在しないと思っていましたが、牛頭の人が節分の煎り豆に花が咲くを演
じていました。仏教の祇園精舎の御守護神は牛頭天王。 



天国行きが権利と云うならば、義務は?

 世の中には自分は死んだら天国に行けるなどと言っている人達があります。人はこの世にオギャ
ーと生まれて来たならば天国に行けるのであれば、魂は何もこの世に生まれ出る必要はないでしょ
う。この世と呼ばれる世界を必要とはしません。この世で貴方は何をしたのかが大事。

本当の天国は、狭い[点]を通り抜ける如き国
一般的に天国と呼ばれる国は、輪廻転生があり本当の天国ではない
魂に輪廻転生が起きない最上天国界が本当の神の御国

 仏教やヒンズー教で[輪廻転生]が説かれて来たのは、この点(天)たる国に入るまで魂は何度で
も生まれ変わらなければならなかったからです。神の位を得た神霊でも、心を誤ると蛇や狐の姿に
身変えってしまうほど厳しい掟の中。
 死ねば天国行きが権利と云うのであれば、当然に義務も生じているのです。キリスト教では、この
義務をイエス一人だけが神の御子と信じれば天国に渡れると説きました。

聖書の我れは羊は、義(我羊)務を果たしなさい

 イエスは自らが十字架の上で磔になることで一種の犠牲を払いました。もし、人々の魂の中に良
心神が存在していなければキリスト教の教義でもかまわいませんが、お釈迦様の悟りで解る
様に全ての人に良心と呼ぶ神は内在するのです。

 我れ好し(善し)で自分勝手な好きなことのやり放題、自分がしている行為が不正だらけだと気付
かずに、自分で自分は善人だと言って天国に行ける天国に行ける等と云う愚かな人もいるのです。
 唯一の神は、たった一点。天(点)の国はラ(良)心神を持って入る国と告げられているので
す。その良心神は、天国に入る義務として善(羊の言葉)をしなければならないのです。



良心神とは、愛と善と誠

 大本教からは、九つ花(九の魔法陣)に咲く一輪の言霊の経綸が[ラ]神論であることは出されま
せんでした。代わりにアイウエオの第十三番目の[ス]の神論が出されました。アイウエオの第四十
一番目のラ神論でないと、お釈迦が悟った内容を[誠]印で説くミロク(三六九)菩薩を出すことは出
来ないのです。

 では、大本教の[ス]の神論で、どこまで良心神を説く[ラ]神論をカバー出来たかとなりますと、
本教からは[愛善]の教えが出されました。スの神論そのものは、神に対して素直になれの[素]
の論。これも主の糸(意図)するところではあるのです。素直でないと、神の教えなど耳には入らな
いでしょう。
 悪魔や獣の神でも[愛]は存在します。しかし、善は悪魔や獣の神からは出て来ないのです。
故ならば、善(譱)を学ぶ羊は狼(良心神を獣と化した者達)に食べられてしまう餌。悪魔や獣になっ
ていたのでは、自分を他の命の為に食べさせる[犠牲]心の意味が解っては来ないのです。
 獣の世界は力の強い者が勝つ。力の弱い者は食べられるだけ。正義(正しい我れは羊)は善
(譱)なのです。
 イエスは[愛]の教えを説来ました。たぶん、イエスは万人に対する愛を説いたはずです。それは、
誰も差別しない[公正]の愛。しかし、多くの人が感じる愛とは、我が子だけを愛する。自分の家族だ
けを愛する。自分の言うことを聞く者・利用出来る者だけを好む。人はそうした獣的な家族愛を愛
だと受け取ってしまうのです。
 愛する人の為に善悪を考えずに犯罪を犯す人は古今東西多いのです。愛の教えには、善の教え
が付かないと良心神に取っては代われないのです。

 お釈迦様が悟られた人に内在する良心神とは、万人の人が良いと思う心のことではない。

悪魔と正反対の立場に位置している神の働き

そして、この良心神の存在は誠(言葉で成る)でないと紐解けなかったのです。



羊(未)の君が来ると、未来が訪れる?

 旧約聖書を信じる者達を一般的に[羊]達と云います。その羊達の群れを神の御国に導く者を[羊
の君]と云います。単に羊達ばかりでは[狼]に騙されて餌食となってしまうからです。迷える羊達の
為に君と成る者を必要とする群(君羊)れ。
 何故、羊の君でないといけないのでしょうか?。それは、

羊の君は未(羊)来るで[未来]の世を携えている

からです。人類を主の神の御国(未来の世)に案内が出来る人?。

 東洋では人類の終末(最後の審判)前に現れて、誠印でお釈迦様の悟りを説くみろく菩薩が
救世仏で人類を平和の世に導く未来仏とされて来ました。それが、旧約聖書では羊(未)で来
る君となるだけ。すべては言葉による意味なのです。

羊の君(未来)=みろく(三六九)の真柱

 大本教の出口王仁三郎聖師は救世主は源の義経(現実的行動としては源の日出雄)だと名乗っ
て蒙古に渡りました。当時の多くの知識人は、それが何の意味か解らなかったわけです。私の言葉
の発想(八艘)飛びは、源の義経の霊に出会ってから起き出しました。

九つ花の仕組みの
九郎(苦労)判官の(我れは羊)にある

 大本教の鞍馬山神業。何故に鞍馬山に行ったのか?。鞍馬山の大僧正とは金星から降った救世
主たる霊を云います。西洋では主のシンボルから生まれた金星のビーナス神(主の娘)も、日本版
は鞍馬山でカラス天狗を相手に修業した牛若丸(源の義経)の話になるのです。
 一度、[ス]の神論を空(カラ)にすれば本当のトリの意味も解るでしょう。何故に人はこの世で
これほど[苦労]をしなければ行けないのか?。それは、義の経(みち)があるからなのです。
 貴方の苦労(九郎)を判官(判定)させて貰います。苦労知らずでは、九つ花に咲く一輪の言霊
の経綸は読み切れません。と言う意味合いでしょう。

良心を持っていても、正義で働かないと意味がない
正義であっても、良心を持たないと意味がない



魂の美(大きな羊)しさ

 美しいとは何でしょう?。美しいは、大きな羊と書きま。誰も大きな羊を見たからと云って、その羊
が美しいとは思わないのです。

それは、大きな善(譱)のこと

 大きな善を積んで来た人の魂は美しいのです。外見はいくら美人でも、その中身は汚れている人
はいくらでもいます。反対に、外見はいくら醜くても中身が光輝いている人もいるわけです。

 躾は、その身を大きな羊にさせることにあります。躾(身羊大)が出来ていない者には善は積め
ないのです。子供に金さえ与えていればよい。そうした考えは根本的に間違っているのです。躾が
大事なのです。

大きな羊達が登る国は、美登里(みどり)の国
美登里(緑)の国の高山を[万寿山]と云う

 魂の命は永遠性を持つとされています。実際に霊界を見聞しますと、途方もない年月を経た魂に
出会うことがあります。仏教において無限地獄が説かれますが、魂の世界で無期懲役刑にされたな
らば、それこそ何十万年も霊界の刑務所に閉じ込められることにもなるのです。魂の世界において
は永久性を保つ為に刑期も長くなるのです。
 そうした永遠性を保った魂の世界において、万寿山とは万年の間は天人の地位を保証すること
になります。キリスト教ではイエス一人を神の御子と信じれば最後の審判時にイエスに救われて神
の千年王国に入れると説いて来ましたが、それよりは寿命が十倍は長い神の御国。寿命で他界に
転任するときは、別れに万歳万歳と見送って貰う万寿の国です。
 この世で何の善徳も積まないで、俺は偉いのだ。立派なのだ。死んだら坊主の御経で天国だと云
っている
慢心者は、万寿(とし)獄に墜ちて行くことになる



幸いなるかな貧乏人

 イエスの有名な教えに、金持ちが天国に渡るのは針の穴にラクダを通すようなものだ。幸いなるか
な貧乏人があります。本当に金持ちでは天国には行けないのでしょうか?。貧乏人であれば幸いな
のでしょうか?。
 西洋のある文豪。小説で大金持ちになった。牧師に尋ねると、金持ちでは絶対に天国に行けない
と言う。そこで、全財産をキリスト教会に寄進して、やがては野垂れ死にをしたと伝えられます。
 イエスの教えは素晴らしいのですが、どうも言葉足らずが多いようです。

自分の財(貝)を他の人にけてしくなったの貧乏人

 少し前の時代を知る人ならば解ることですが、昔の貧乏長屋に住んでいる人達は貧しくても心が
豊かで、長屋の住人達は助け合って生きていました。貧乏人ということではなく、心そのものが豊だ
ったのです。そうした場合、魂は美しい。
 一方、金持ちと呼ばれている人達は全ての金持ちではありませんが、人を人とも思わない不遜な
態度の人が多いのです。心が貧しい。心が貧しければ天国の門などはくぐれません。地位や名誉の
為に自分の魂を悪魔に売った人は多いのです。

心が豊かな(ボロは着てても心は錦)人は天国に
心が貧しい(外見の価値しか見ない)人は地獄に
良心神の存在を見失うと、神の教えもムダになる



この世の苦(9)は、天で禄(6)と化す

 大本教の出口王仁三郎聖師が霊界物語の中で天地創造の神を[六]の記号を持って表した時、
誰もその意味が解りませんでした。これは、漢字の[六]の数字では意味が解りにくいからです。 
 アラビア数字の[6]が解りやすいのです。6と9は正反対の立場を示します。よく知られている陰陽
の玉の図。これも、6と9の組合せに見えるはずです。

この世は苦(9)界、苦労を積んだ正しき人は
天国の住人で、天から禄(6)が授けられる

写真の原理

 この世は、あの世の写し世と云われます。この世にあるもので霊界にないものはないけれど、霊界
に存在してもこの世に無いものはあるとされます。この世では消え去ったものも多いのです。
 そして、霊界で起きたことが全てこの世で同じ形で起きるかと云うと、そうとはならないのです。そ
れは、写真の裏表では見え方が違う様に、霊能者も正反対に映像を見ている時があります。また、
言葉の意味が形を変えて現れることも多いのです。為に、言葉を換えて見る必要はあるのです。

 この世で9(苦)を背負って来た人達は、犯(獣と化す)罪をしていなければ、その9(苦)は霊界に
おいて6(禄)の花として咲きます。この世(9)とあの世(6)では立場が逆転をするからです。よっ
て、天からの[禄]を受ける。主は天では6(禄)の神であり、この世では9(苦)を授ける祟りの神・災
いの神となるのです。
 6の花は、天に禄の元になる種がない為に、この世でしか育てることが出来ない九つ花が種(良心
神)。旧約聖書の[羊]にも意味は秘められるのです。

六(禄)の国の色は緑(美登里)色



金持ちでも天国に渡れる

 俺は偉い者だ。立派な者だ。社会にさほどの貢献もせず、自己勝手なことばかりして自分は死ね
ば天国に行ける等と身の程知らずをわきまえずに言っている人達がおられます。

      偉い人とは、人とは違う業をなした人(偉業)
      立派な人は、一つの派(道)を立てた人

 日本有数の企業に京セラがあります。この会社は稲盛さんが一代で築き上げた企業。昔ならば、
松下電器の松下幸之助さんと同じ道。松下さんも稲盛さんも、一代で一つの道を造り上げられた
方。
 この稲盛さんは、自分がここまでこられたのは世の助け人の助けがあったからこそ出来たと言わ
れ、7億円もの私財を投げ出して、親から虐待されている子供達の為の施設を京都府精華町に創ら
れました。
 悪いことをせず、額に汗を流して誰よりも働き大金持ちとなった。そして、世に感謝して社会
的に恵まれない人達や弱い人達の為に私財を出して社会に貢献をする。こうした方達は神か
ら感謝をされる方でしょう。
 自分が困っている時、世の中は自分を助けてくれなかった。だから、自分は世の為人の為には何
もしない。それは大きなはき違え。そんな世の中だからこそ、自分は世の為人の為に役立ちたいと
自分を向上させる。その結果、自分が大成したすれば自分を大きくしてくれたのは世の中。
 心の持ち方で、感謝にもなれば恨むことにもなるのです。何故に自分の上には災いが起きた
のか?。物事は転じて魂の福に持って行かなければならないのです。



あの世の地獄より、この世の地獄

 非常に優れた霊能者の方であれば言われることがあります。それは、非常に神格が高い魂を持っ
た子は気の毒で見てはおられない。この世の地獄の中に置かれてしまう。
 この世のエリートは、若い時からふんぞり返る様な地位が与えられます。しかし、神霊界における
格式が高い魂は、この世の地獄の様な環境の中で育てられるのです。
 よく知られていることに、大本教の出口なお開祖や天理教の中山開祖等、神の御代(御台)となっ
た宗教開祖は地獄の様な環境の中に叩き込まれました。それは、人の痛みを知る者となる為。

この世の地獄は、肉体の死で終わりの時が訪れる
 この世では、どんなに辛い人生が訪れたとしても、その期間は100年もないのです。この世
でどんなに長生きしたいと願っても、必ず肉体には死の時が訪れます。はっきり言えば、肉体が老
化してくれば誰でも死を考えるはずです。若い時の様に自由に体は動けない。諸々の病も出て来る
のです。
 しかし、魂の世界(霊界)において魂は永遠性の命を持ちます。霊界において無限地獄界に落とさ
れたならば、その刑期は何万年、何十万年とも続くのです。それは、悪いことをするなと云う脅しで
はないのです。私は損得勘定を言うのです。

 この世での僅かな期間、その僅かな期間の僅かな得や刹那心から自暴自棄になって自殺をしたり
犯罪を犯す。その結果、地獄界に墜ちる。そんな[損]な行為はしなさんなと言うのです。
 日本の神は、貴方はこの世の地獄を歩いておられると云われます。神業で、何でこんなに辛い人
生を歩かなければならないのか?。私も死ぬことを考えたことは幾度もあります。しかし、この世の
地獄ならば肉体の寿命が来たならば終えられるのです。
あの世の地獄とこの世の地獄なら、この世の地獄を撰んだ方が良い



我れさえ良ければで餓鬼地獄

 大本教神諭の中に、地獄の釜の蓋開けと云う内容があります。地獄の釜の蓋開けとは、日本で
はお盆として知られている行事のこと。地獄に墜ちている御先祖様が年に一度だけ許されて
子孫の元に帰る。それをお迎えして楽しくひとときを過ごした後、また地獄に戻られること。
べ物を一つのお盆に盛ってお供えするのがお盆の行事。
 御先祖様達は天国に行ってはいませんよ。地獄ですよと教えられている行事をしておきながら、自
分は死ねば天国だと思いこんでいる浅はかさ。

 お盆の行事と言えば、施餓鬼供養。お釈迦様の高弟であった目連尊者の母親は、目連尊者に
とっては良い母親ではあったが、我が子さえ良ければそれで良いで、他の子供達に対する恵の心
がなく餓鬼地獄に墜ちていかれました。そこで、餓鬼地獄に墜ちている者を救う手段として施餓鬼供
養。しかし、布施の意味が解っていない人達ばかりなのです。
 ある女性は云います。自分が困っている時、世間は自分を何一つ助けてくれなかった。だから、世
に困っている人達が居ても一銭の金も寄付するのは厭だ。そう言って、カラオケや海外旅行や自分
の子供の為には惜しみもなく大金を使われます。お寺さんには布施をしているから自分は死後は天
国に行けると思っておられます。
 だが、こうした人が死後の世界では餓鬼地獄界にと墜ちるのです。お釈迦様の教え、この世は苦
界。苦が自分の良心を育てる意味が解っていないのです。

     良心の良を閉じて食良心を閉じて墜ちた鬼地獄
     他の者にもけてあげるで知るに、真の布施の心
     に、自分が犠牲と成る心が在るを供えなさい

  良心と呼ぶ神の存在を忘れて、地獄界に墜ちて行く



食するは、他の命を殺していただく

 あるテレビタレント、食の字は人に良い食べ物と云う意味と云いました。なるほど、良の上の部分
を人と読みましたか。人は誰であれ、この世で生きていく為には[食]しなければならないので
す。それは、多くの命あるものを好むと好まないに関わらず殺していただく。それには、自分の
良心を閉じなければならないことです。
 食の上部は屋根で人でなく良を閉じた意味。命あるもの達のことを思っていると食べられません。
この世では生き行くことが出来ないのです。
 仏教においては、命あるものを殺していただくことを嫌って精進料理が造られました。日本の神道
においても、魚や鶏肉は別として四つ足の獣の肉は御神霊には差し上げません。
 人は命あるものを殺して食べる定めの中にあるということは、
自分は、他の命あるものの犠牲の上に生かされている
 
 そうしたことを自覚出来るか出来ないか。もし、そうしたことが自覚出来ているのならば、自分もま
た他の命ある者の為に役立とうとするでしょう。犠牲心を持たない者には天国の扉は開かない。

餓鬼は、美味しい物を食べてああ美味いだけ

 そこに犠牲になった命があったことなど何一つ考えず、常に自分のことばかり。決して、他の人の
為に自分も犠牲を払おうなどとは思わないのです。
 仏教を開かれたお釈迦様は、その前世の修業僧の時代。飢えた虎に出会い、いつもいつも
自分は命あるものを食べて来た。今度は私を食べよと飢えた虎に我が身を与えられた。その
功績で次の世に仏陀に成られたと伝う。

 他の命の為に善の血を流した者は、神の祭壇に上がる



後の祭りよりも、この世で改心

 世界のどの宗教でも、罪を犯したり不道徳なことをすれば地獄に墜ちると説きます。そうした時、一
部の学者の方は宗教は在りもしない地獄論をデッチ上げて、人類を脅迫していると云われます。
 一部の宗教団体がニセ霊能者を使って、あなたの御先祖様が地獄で苦しんでおられるなど
嘘八百を並べて大金を巻き上げている事実はあるとしても、それで地獄が無いと断言出来るはず
などないことです。
 そうした学者は、そうした学者が言った言葉を信じて、人は死ねば終わりだからと不道徳なことに
走って地獄に墜ちて行く者に対して責任が取れるのでしょうか?。こうした宗教団体は、教祖以下
信徒諸とも地獄界に行くのです。

 女性週刊誌等では、人は死ねば終わりだから同じ一生ならば面白く遊ばなくては損だと言って、売
春婦でもないのに二千人近い男性とセックスをした女性の話が誇らしげ書いてあったりします。確か
に、○○×子と呼ぶ人は死ねば終わりであり、来世に○○×子と呼ぶ人がそのまま生まれ出るの
ではないのです。その意味では人は死ねば終わりです。
 もしも、許されて人として生まれ出られたとしても次は□□△子さんとして出るであって、その魂
(心)が輪廻転生を起こしているのです。嬉しいとか辛いとか苦しいとか感じる意識(魂)は永遠
性を持って生きるのです。そうした思い(想い)を持った感覚の本体そのものが、この世で犯した罪
や不道徳な行状によって地獄界へと落とされて行くのです。

 地獄界に墜ちて、しまった。地獄が在ったと知った時には後の祭りとなります。地獄界に墜ちて
から、済みませんでした。地獄が在るなど知りませんでした。許して下さい。神様をお祭りします。そ
れは通じないのです。

仏教で説く施餓鬼供養にしても[後の祭り]に過ぎない
 この世は魂の修業場。この世に生きている間に、自分が犯した罪の改心を済ませておかな
ければならないのです。


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