第十章・命とは?

 このホームページの[第一章・お釈迦様の悟りとは?]において、命(いのち)
とは息(い)の霊(ち)であることを示しました。すなわち、自らの心が[霊]である
と云うことです。
 その説明に日本の御言(みこと)を使いましたが、日本では神霊を○○の命
(みこと)と云います。これらは、神は御言(命)なりき。この[命]の字を単に見
ているだけでは気付かないことがあります。そこで、命の字を立体化させると


 神社のお社風に見えて、屋根の下には[叩]の字が秘められていることがよく
見えて来るでしょう。

何故、命に[叩]が必要なのだろうか?

 毎日毎日、美味しい物を食べて酒に酔い、遊び惚けているような命ならば、
万物を創った神にとってそれは必要のない魂(命)となるのです。



命の字に秘められた[叩]には

人を叩く者よりも、叩かれる者になりなさい
 
 イエスの有名な教えに、我が頬を叩く者があれば、反対の頬も差し出せがあります。イエスの教え
の躍如たるもの。
 しかし、この教えを聞いて意味が解る者がいるかとなった時、この教えが本当に解るようであれば
天使クラスの者でしょう。この世で、この教えに従って頬を出せば、そうかそうかと云われてボコボコ
に叩かれてしまうでしょう。イエスの言葉にあるように豚に真珠を与えてしまった教え。教えは大衆の
理解度に合わせて説くべきで、万人が天使クラスの者ではないのです。
 イエスの教えは言葉が足りません。同じ説くのであれば、人の足を踏む者には踏まれた者の痛
みが解らないと説けばよかったのです。
 命の字には、叩くの[叩]が入っています。これは、俺の言うことを聞かないと叩くぞ。しばいてやる
ぞとわめく三流ヤクザの所業ではないのです。人を叩く者よりも、叩かれる者となって痛みを知り
なさい。

      人を叩く者は、他の人の痛みが解らない
      痛みを知らぬ者は、命の尊さが解らない
      この世では、多々苦(叩く)が魂を鍛える

 それは、人は人の痛みを知る者になって欲しいと云う森羅万象を創られた神からの願い。人を叩
いて自分の主義主張を押し通す。それでは、もはや人でも獣でもないガラクタの玉。魂の命を粗末
にしてしまった者なのです。



サマリヤ人の旅人は誠(良心)の行動

 同じく、イエスの有名な教えにサマリヤ人の旅人の話しがあります。たぶん、ほとんどのキリスト教
徒はこのサマリヤ人の旅人の行動を[愛の行動]と勘違いしているはずです。これは誠(良心)の行
動なのです。

 そこで、一つの事例。ある駅前の大通りの歩道に一人の男が横たわっていた。時間は午前11時
頃。酔っぱらって寝ているのでもない。身なりも浮浪者風でもなく普通の身なり。ところが、その側を
通る人達は誰一人として声を掛けるでもなく、その横たわった男を避けるようにして歩いて行く。大勢
の人が歩いているにも関わらず声を掛ける者が一人もいない。近くに交番があり、通報すれば警察
官がやって来るはず。だが、警察にも通報もされていない様子。
 そこをたまま通りかかった車に三人の者が乗っていた。車の中からその光景を見た一人が、様子
を見に行こうと言ったところ、他の二人は関わらない方がよいと反対した。車を運転していたのは反
対をした者。反対をした者達はかまわずに車を進めた。
 様子を見ようと云った一人は、他の二人と一緒に会社に戻ったが、即座にその場所まで行くと、そ
の横たわっている人に声を掛けたところ、その人は大丈夫ですと起きあがってその場を去った。そ
の者の行動は厳密に言えば就業時間中であり、勝手に職場を離れて就業規則に違反した行動にな
ります。その者はそれで罰を受けるのならば罰を受けると言ったでしょう。

 ユダヤ教の司祭(ラビ)達は、天の神の律法の意味がまったく解っていなかったのです。律法に従
うよりも良心の行動が大切なのです。
 倒れている人を見ても関わらない方がよいと反対した二人は、自分の家族を愛することにかけて
は誰にも引けを取らない人達。倒れている人の様子を見に行こうと言った人は、家族愛の力はさほ
ど強くないが、誠と良心の人。反対した二人は、自分の家族に対する愛は強くあっても世の為人の
為に役立とうとする良心を無くしている人なのです。
 
今の世に求められるのは、サマリア人の旅人の心
良心の中には多くの愛が含有されるが
愛に良心は僅かしか含有されない
キリスト教徒は、自分の魂に内在する主からの分魂である良心神の存在にまだ気付いていない。



目には目を、歯には歯を

 イスラム教世界においては、イスラム法典の目には目を、歯には歯をが説かれます。人を殺せば、
自分が殺される。自分が犯した罪の分だけ罪を償わなければ行けない。そこで、イスラム教聖職者
と呼ばれる者達が裁判をします。
 この[目には目を、歯には歯を]は、イスラム教聖職者達が考えていることとは意味が違うのです。
人は誰であっても自分に良心があれば、その良心は人に言われずとも自分が犯した罪の分だ
けは償おうとします。
 目には目を、歯には歯をは他の者が神に代わって犯罪者に同じ罰を課す意味ではなく、自分の良
心が負わなければならない罪状を指すのです。自分が犯した罪に匹敵するだけの償いはしなけ
ればならないのです。
 仏教において[因果応報]が説かれます。自分が犯した罪が因となって、報いとして果が現れる。
イスラム法典における目には目を、歯には歯をは、仏教の[因果報応]を語るのです。自分の魂
の中にある良心神(エンマ)が、この世で罪の償いをさせているのが因果報応。この世ではこれが形
を変えて現れるのです。
 自分は今世では何も悪いことはしていません。それは、過去世で自分が何をしたのかを覚えてい
ないだけで、良心神(エンマ)は記録しているのです。人は知らずとも、因果は現れて来るのです。

因果報応=目には目を、歯には歯を
 
 イエスは人を叩く者にさらに叩かせて、マホメットは叩き返せと教えた。イエスの教えはあまりにも
左に寄りすぎた為に、マホメットが修正に入ったら、逆に右に寄りすぎました。旧約聖書には魂の論
理は書いてないのです。



人は神を知らない方が幸せか?

 日本古来の某神道系に所属する教師として活動されていた某霊能者の方は、その神道系に所属
する教師の中ではbPの呼び声が高く、その霊能者の方が住む地方では他宗の霊能者をして、あ
の先生ならば間違いはないとまで云わせるほどの実力を持った霊能者でした。実に多くの人を助け
て来られました。
 この霊能者の方いわく、人は神様など知らない方が幸せだ。普通の人に生まれて、普通の人
で暮らし、普通の幸せを得て、普通に死んで行く。その方がどれだけ幸せであっただろうか。
くら世間から先生先生と崇められても、自分自身の人生は幸せではなかったと云われます。
 私にしても神の世界に関わらなかったならば、どれだけ人としての幸せを得られたかは解らないの
です。神の世界の代位者(宣伝使)に撰ばれた者から見れば、神など人に祟る存在にしか過ぎな
でしょう。

人は、て示す祟(出示)りを受けて神を知る

 霊能者と呼ばれる者は別として、ほとんどの人は神霊の姿を見ることはありません。為に、神霊が
その存在を知らせる為に祟り(出て示す)を起こして来ます。私にしても、実に摩訶不思議なことに遭
遇しなければ、神霊世界に足を踏み入れることなどしなかったでしょう。

 俗に言われる不成仏霊から来る霊障にしても、霊が自分の存在を知らせようとすれば、誰かに祟
って行くより方法がないのです。霊など無いと頑なに否定すると人と、人は死ねば霊界に行くと認識
出来ている人とでは、死後の世界で行き先に格差がつきます。どんなに善人であっても、霊界否定
論者であれば天国界には簡単には渡れないのです。



内なる神と外なる神

 大本教の出口王仁三郎聖師は、霊界物語の中で神から来る内流と外流について説いておられま
す。しかし、普通の方がそれを理解するのは少し難しいでしょう。

 絶対神の分魂である[良] 心神から直接に来る神の流 れが内流。
 誰かを介在させずに直接に 唯一なる神とつながる神の御 子。
 自分の魂の内にある神 で、自分の誤りを叱り、自分 が犯した罪を苛む神の働 き。
 現世御利益には関係ない 神ですが、その魂を天国界に と導けるのです
 信仰神や守護神等、自分の魂(良心 神)以外の外部の神霊から来る神の流れ が外流。蛇霊の囁きも外部から来る神霊 の声。脳に働きかけるのです。
 但し、その神霊自身の魂に天の神の分 魂である良心神が働いているならば、そ の神霊を通じても間接的には唯一なる神 とつながることにはなるでしょう。
 魂の論理や愛善などを教える宗教なら ば、その教えに大きな間違いはないでし ょう。
 逆に、魂は人の脳にあるなどと主張す る宗教では、蛇神の教えに狂っていること になるのです。

人の死は脳死なのか?、心臓停止なのか?
人に命令系統、脳と心(魂)の二本立て



人の死とは?、霊子線の切断

 一般的に私達はこの世を去ることを「死」と云います。最近、人の死は脳死なのか心臓停止なのか
が云われます。
 医学的には脳死が云われるようですが、宗教的には心臓停止で固まりつつあるようです。では、
霊界ではどうなのでしょうか?。

 霊的世界から見た死は霊子線の切断

 霊子線と云う言葉は、大本教霊界物語の中に出て来ます。その後、岡本天明氏が出された日月
神示にも出ているようです。しかし、霊界物語や日月神示の中に詳しい説明はないようです。一部
の霊能宗教家の方が霊子線の存在を説かれているようですが、一般的宗教界では知られておりま
せん。仏教の経典を調べても、霊子線に関しては書かれていないないようです。
  霊子線は一部の霊能者しか見ていません。私達の頭の頂点、脳天と天上世界(神界)を結ぶ糸
があるのです。この糸を「霊子線」と云います。
 この霊子線を切断することが、霊界から見た時の「死」になります。この霊子線が切断されていな
ければ、仮に医師が御臨終ですと云ったところで、息を吹き返すが起きるわけです。霊子線が切断
されると、魂は霊界にと旅立つことになるのです。
 この霊子線の切断の権限は「神界」に所属するものであり、勝手に自殺すると罪になると云われる
のは霊子線が切られていなのに死ぬことは許されないからです。

 但し、幸福の科学さんにおいては、霊能者と呼ばれる方達が云っている構造と違う形を説いておら
れるようです。両方を示します。

 通常の霊能者が告げる説

幸福の科学さんで説かれている説

 通常の霊能者の方の説でも、幸福の科学さんの説でも霊子線が切れた時、魂は霊界に入る。そ
の点に関しては同じになります。
 ただ、通常の霊能者の方達が云われている天上界(神界)とつながる霊子線が切れた場合は、間
もなく心臓が停止して脈が止まり、肉体から魂が離脱してもよい状態になるに対して、幸福の科学さ
んでは霊子線の切断後、魂が肉体から離脱するのに1日〜2日かかかるようなことを説いておられ
るようです。

 霊子線に関しましては、霊能者の方達の一部の人が知るだけであって、全ての霊能者がそれを知
っておられるものでもありませんので、両説を出しました。
 霊能者の方で霊子線は見られた方は「銀色」の糸(シルバー・コード)と云われています。私自身
は、脳天から黄金の綱が天上世界につながっている一人の女性に出会いました。この女性は特別
の人であったようです。本来は「銀色」の糸かと思います。

 黄金の綱しか見ていない私に何故に霊子線は銀色の糸と断定出来るかと云いますと、銀色の糸
にはもう一本あって、臍からも出ているからです。
 この臍から出ている銀色の糸に関しましては一部の霊能者の方は知っておられるのですが、これ
も神界につながってはいるようなのですが何を意味する糸なのかまでは、私も完全に掴み切れてお
りませんので、説明が出来かねます。

  (平成17年12月追加分)



信仰する者は儲(信ずる者)かる

 一般的に信じる者は救われると云います。信仰をしていない人から見ると、稲荷神信仰などは商
売繁盛、金儲けをさせてくれだけの信仰ではないか。そうした声は出るでしょう。蛇神や狐神信仰は
現世御利益だけの信仰だからです。
 一方、西洋で行われている唯一なる神の信仰とは現世御利益信仰ではなく、死後の世界(霊界)
でよりよい世界に行けることを目指す後で楽園の信仰と言えます。

唯一なる神信仰は、楽園[桃の実]信仰
蛇神や狐神信仰は、現世に限定の御利益信仰
 神を信ずる者はこの世での儲け(信ずる者)を取るのか、この世での儲けは度外視をして、絶対な
る神の元で後に楽園(天国)を手にするのか、それは同じように神信仰をしていても、どちらを撰ぶか
はその人の考え方になるでしょう。
 ただ、何神信仰であろうとも神を信じる人と信じない人では救いの順番が違って来るのです。信じ
る者は救われる。神の存在を信じない者を神が救う必要はどこにもないからです。

 @愛善の人で、神仏を信仰する人は宗派を問わずに最優先で救われる
 A自分勝手でも、神仏を信仰している人ならば@の人の次に救われる
 B愛善の人でも、神仏の存在を否定するならばAの人の次にまわされる
 C自分勝手で、神仏の存在を否定する人は神仏から見放されてしまう

 なお、ここで云う信仰とは、菩提寺に盆暮れのお布施を渡しているだけの信仰ではなく、観音菩薩
信仰、不動明王信仰、稲荷信仰のように実際に神霊活動をしている御神霊そのものを信仰して行く
形態のことになります。
 教会によっては悪神を御祭神とするものもあります。一般の人にはその見分けが出来ない以
上、その人の信仰が何を目的としていたのかが問われるのです。



蛇や狐神信仰では、蛇や狐を越えられない

 私の神霊界修行は修伏見稲荷山から始めさせて貰いました。狐神の総本山。その当時、伏見稲
荷大社の稲荷講に所属する教師としては実力bPの呼び声が高かった霊能者の方を導師として始
まったのです。
 私は稲荷講の人達の信仰態度を見ていて、貴方達は神様から何かをして貰おう、して貰おうの信
仰をしている。そうではなく、自分が神様に何をして差し上げられるかの信仰に方向転換をしなさい
と忠告しました。
 すると、導師がその理由は何かと尋ねられたので、神様から何かをして貰おう、何かをして貰お
う信仰では、その人は信仰する神霊を越えることが出来ない。逆に神様に何かをして差し上げる
信仰ならば、その人はその神様以上に成ることも出来る。現世御利益だけの信仰を取るのか、自
分が神と成る為の信仰を取るのかを言っただけと答えました。導師は私に神様を越えられるかと
聞くので、私は人は普通の神様ならば成れますよと言いました。
 私は絶対神だけを本当の神とする立場で、人はこの世での在り方しだいで霊界で神と云う名が付
く立場には上がれると云います。
 すると導師は、さすがに別格官幣大社級たる御方の云うことは違う。おかげさまで、私は稲荷神霊
界から別格官幣大社級たる魂の持ち主として、通常の霊能者の方とは違った扱いで神霊世界を見
聞させて貰うことが出来ました。

 伏見稲荷大社から伏見稲荷山に上がる参道に、二体の大きな神狐像があります。一体は稲穂を
銜(くわ)えていますが、一体は鍵が付いた巻物を銜えているのです。通常の神狐像とは趣を異にし
ています。私は鍵の付いた巻物を銜えている神狐像を見て、鍵が掛けられているあの巻物には何
が書かれているのか?。ずいぶんと考えました。

 大本教の出口王仁三郎聖師は日本で初めて言霊学で[ス]の神論を持ち出されたのですが、この
言霊学は伏見稲荷大社の社主であった荷田家から学んだと云われています。狐像が持つ鍵の付
いた巻物。それは大本教神諭が予告した九つ花に咲く一輪の言霊の経綸で、稲荷の意味をも
紐解かせるのです。
 大本教神典、国常立尊の世の大立替に白狐(稲荷)は下郎役で奉仕する。日本の神界をも巻
き込んでいるのです。



罪を財で売り買いする贖罪とは

 キリスト教では、自分が犯した罪をキリスト教会に大金を寄進することで、その罪を許してもらう贖
罪が説かれて来ました。それは別にキリスト教会だけではなく、仏教においても高額の戒名料を出
せば極楽に行けるなどと云うのと同じです。それでは金持ちならば天国に行けるが、貧乏人では
地獄界に墜ちることになってしまいます。

地獄の沙汰も金しだい
エンマ大王が買収出来る?
贖は、貝(財)で売買





罪が他に移転するだけで、罪そのものは消えない贖罪

 日本の某宗教では、信徒さんに大金の寄進を要求されます。聞き及ぶところでは100万円単位で
の寄進。寄進額が少ないと地獄に墜ちると説かれると聞き及びます。大金(財)を宗教家に寄進し
て罪を逃れるのが贖罪。
 金持ちに成る為に手を染めた悪事の数々。その罪の元になった金を寄進で捨て去ることで金に執
着した罪は消えて、地獄の沙汰も少しは軽くなるだけで最初から貧乏人には関係ないことです。で
は、その悪事の罪分の刑は誰が勤めるのか?。この場合は贖罪として金を受け取った宗教家が
その罪を代わりに被り、地獄界に墜ちて刑期を勤めるのです。
 大本教神典、

地獄を覗けば、宗教家で一杯だ

釈迦の説法、蛇霊と化した長者
そうした説法も頭にあらず、金、金、金の亡者となっているのが蛇教の宗教家

悪銭は身に付けず
悪銭は社会福祉に役立てれば生かされて
罪も消えて行く



生命保険は掛けて、霊界保険を掛けぬ人

 大体の人は生命保険を掛けておられます。この世で自分にもしものことが起きた時、残された家
族が困らないように保険をかけておられるわけです。では、貴方はこの世を去って死後の世界に渡
った時、その死後の世界(霊界)で自分が困らないように霊界で使える保険を掛けておられる
のでしょうか?
 某宗教団体の教祖様があることを述べておられます。現在の宗教団体には邪教集団が無数にあ
る。しかし、信仰をしている人達がその教団が邪教であるかどうかの見分けは難しい。だが、例え間
違って邪教を信仰し献金をしても、その信仰が誠の心からの信仰であれば天の神様に献金したのと
同じことにはなると云われています。
 確かに、この教祖様が云われるように、その宗教教団が邪教であるかどうかは霊能力を持たない
一般の人が祭神なり教祖を霊視して、その背後に居るものの正体を見分けることは難しいの
です。出来ません。どの宗教団体を信仰しょうとも、その人の信仰心が正しければ天の神様にと
つながって行くのです。その宗教団体にした献金は霊界保険として積み立てられるわけです。
 しかし、そこに一つの問題があるのです。その宗教団体(霊界保険の販売社)が信徒から集めた
霊界保険金を霊界で還元される霊界保険金として運用せずに、教祖や教団幹部の贅沢や遊
興の為に使っている場合が多いのです。こうした場合は信じる宗教団体にいくら寄進をしたとして
も、霊界で還元される霊界保険金とはならないのです。紙くず同然の証書の発行。

 宗教団体が信徒さんから集めた献金で、社会の弱者を助ける老人ホームや社会福祉施設や
お助け病院を運営される。それならば、信徒さんが寄進をされた献金は霊界での保険金として
積み立てられており、死後の世界で通用する保険金としてその宗教を信仰していた人達に還
元されまする。
 宗教団体に所属しない個人が弱者を助ける為に社会福祉に寄進するのも、それも一種の霊界保
険金となって霊界でその人に還元されるわけです。

     世間は自分に何もしてくれなかったではなく
     自分が世間に何をして差し上げたか



赤信号、皆で渡れば恐くない?

 今の世は、人々の心に[道徳]心が無くなって来ました。間違ったことをしている人に注意をする
と、何でこの俺だけに云うのか?。皆がしているではないか。俺ばかりに云うな。そうした反発が出
ます。注意することが危険な世になっています。

          天国に進むつもりならば
          地獄に墜ちたい人の行動を見習う必要はない
          地獄界に墜ちて、しまったと思っても後の祭り
 
 悪党は云います。人は死ねば終わりだから悪いことをしなければ損だ。

この世で[得]して、霊界の[徳]を獲ず
この世で[損]して、霊界の[尊]を獲る

 自分は死んだら天国だと思っていても、閻魔庁に呼び出されて裁判の時、その言い訳は自分は知
らなかった。知らなかったことはその者の罪ではありません。しかし、知ろうとしなかったことは罪に
なるのです。
 皆がしているから自分もやった。しかし、それがしても善いことか悪いことかぐらいは学べたはずで
す。赤信号、渡っては行けないことぐらい常識なのです。皆がしてるから自分もやった。そうした言い
訳は閻魔庁には通用しません。
 他の人の悪しき行動は反面教師として自分は行わない。それが、より天国界にと自分を進め
ます。この世は天人界出身者ばかりを集めているのではないのです。地獄界から許されて、未だ反
省が完全でない魂も数多くいるのです。この世の損得で物事を判断しないようにしなければいけな
いでしょう。



殺人罪や盗みよりも、魂を潰す我れ好し

 大本教神諭を読むと不思議なことが解ります。一般的にはどの宗教でも、人を殺してはいけない。
他人の財を盗んではいけない。邪淫はいけない。どん欲はいけない。そうした教えの羅列。
 ところが、大本教神諭は一貫して【我れさえ好ければそれでよい】。そうした自己本位、自分勝
手な行動を非難しています。何故なのでしょうか?。
 ロシアの文豪・ドフトエスキーの名作[罪と罰]において、主人公は問う。戦争で多くの人を殺せば
英雄なのに、今日の糧に困って過って人を殺した。それは罪なのかと。

 殺人と云っても殺人鬼のような者もいれば、不運としか言いようがない過失で殺人罪に問われる
者もあります。その日まで盗み一つしたことがない者が,魔がさして盗みを働いてしまったなどもあ
るのです。そうした時、そうした者の中には自分の良心の呵責に泣き、悔いて反省を続ける者がい
ます。その魂は汚れているのでしょうか?。
 その一方、確かに殺人も泥棒もしていない。しかし、毎日毎日自己本位、自分勝手を続け。周
囲の者に多大な迷惑をかけている。自分の誤りを一切認めようとはしない。決して反省したり
悔いることもない。そうした者の魂はどうなっているのでしょうか?。こうした者の魂は潰れてお
り、良心と呼ぶ働きそのものが出せないのです。

 魂の世界から論じた時、殺人罪や強盗だと言って十把一絡げで教えを説くということは正しいやり
方ではありません。魂を汚したとしても、悔い改めるならばその罪は許されて来たのです。だが、
を潰してしまうとその魂は消滅処分しかなくなってしまいます。

(人賞)いを終えた(魂)はされる



我楽多(ガラクタ)の玉

 大本教神諭は、一貫して我れ好しを批判し続けて来ました。こうした、我れ好しの自己本位自分勝
手な者の魂は潰れていますが、こうした魂の持ち主を一般的にガラクタ(我楽多)玉と云います。我
れだけが楽しければよい。れ(自分)が好きなことやしいことはくするが、自分が嫌いなこと
や苦手なことには向かって行こうともしない。常に御都合主義。多彩であるとか多趣味と云うことは
違って全体的に向上心がないのです。
 こうした自己本位自分勝手な者は性格に丸味がありません。それは、魂そのものに中身が無く
丸い玉にはなれないわけです。この世は魂の修業場、あらゆる学びから自分の魂に欠けている
部分を補正し更生させなければ行けないのです。為には、自分が厭なことや苦手とすることにも
向かって行かなければならないし、その努力をしなければ行けないのです。なのに我楽多の魂は楽
な方に楽な方にと流れて行くわけです。
 そうした[辛抱]を積み重ねて行くならば魂の中身は充実し、丸味を帯びて来て魂に[心棒]が出来
て来ます。

鬼に金棒ではなく、魂には心棒(辛抱)
 魂は自分の玉を丸く(苦手な部分を補強)する為に生まれ出 て来るのであって、好きなことしかしないのであれば、魂の中 身はスカスカで受ける外圧によっては魂そのものが変形を起こ しやすくなります。外圧で潰れて捻れてしまえば元の魂にとは 戻れません。
 魂に大黒柱たる心棒は一本でも、良(ラ)心が魂の真ん中に あれば、心棒(辛抱)そのものはいくつも出せます。それが魂 の変形を防ぐのです。
歪んでしまっている魂



自分を大きい者と思って臭い魂

 霊の世界に関わった者ならば、鼻を摘まないといけないような悪臭を放つ霊に遭遇することがまま
あります。ぬかみそ臭いというのか、肥溜めの中にいる霊と云えばよいのか、鼻が曲がるような匂い
を持った霊が存在するのです。こうした霊は、生前自分は偉い者だ。立派な者だと思いこんでしまっ
たのでしょう。自己中心主義者が墜ちる道。

分はきい者と思って、臭(自大)い魂

 万物を創造した神でもないのに、自分は偉い者だ。立派な者だと思いこんでしまったならば、
その魂は成長を止めてしまいます。この世は魂の修行場であり、解らないこと知らないことが山ほ
どあるのです。人である以上、謙虚でなければなりません。霊界などないと頭から否定論に走る。そ
うしたことも謙虚さを失うことになるのです。
 結果的に、非常に不自由な想念の元にあって、死後の世界(霊界)で腐汁(不自由)地獄と呼
ばれる獣の肉が腐った臭い汁の世界から脱却出来なくなります。また、自分は偉いとか立派だ
と思うと魂の[更]生が出来なくなり、便(人更)の意味が解らずに便所の中の肥溜めの様な世
界に落とされてしまうことにもなりかねません。すべて呪縛の中にあるのです。

魂の世界では、自分の呪縛を切れば自由に放たれる

 俗に幽霊と呼ばれる霊は自分で自分を呪縛しています。自分の想いたる想念が自分で自分を縛
ってしまうのです。こうしたことから自縛霊と云います。また、ある土地に想いを持って縛られている
場合は地縛霊と呼びます。幽霊に足が無いのではなく、地縛霊の場合はその土地に自分の足を縛
りつけているからその場所以外では足が見えて来ないだけで足はあるのです。全て、自分自身の
不自由な想念が引き起こすのです。



心無い者の魂は?

 霊能者と呼ばれる人達は、宗教宗派を問わずに[魂]の存在を説きます。しかし、その魂の説き方
にボールのような玉だと云う時やボウフラのような存在だと云う時があります。基本的には魂はボ
ールの様な玉でなければならいのですが、魂たる玉がない霊が存在して来るのです。
 私達は人の行動を見ていて、心ない行為をする人の存在を知ります。例えば、赤信号の交差点で
止まった車の運転席のドアを開けて、灰皿にたまっている吸い殻をわざと道路にばらまくような人が
います。心ない行為。
 世の為に人の為に行動している人がテレビ等で報道されると、偉そうにするのじゃないと云って無
言電話をかけたり中傷する人がいます。こうした人も心ない人達。自分で自分は偉いとか立派だ
と勘違いしているから、そうした行為をする(他人を非難する前に、我が身を直せ)のです。
共物に落書きをするような行為も心ない人の行為。
 こうした人は自分の魂を磨き育てているのではなく、心そのものを無くしていく行動をしておら
れます。こうした場合、魂が魂として存在して来ないのです。こうした霊が多数集まっているとボウフ
ラが集まっているような状態で見えて来ます。霊能力がある人が神社等(産土神)に行くと、ボウフラ
のようなものがたくさん見えると云うことが起きるのです。ボウフラではなく、魂を無くした霊達が神域
に集まって、次の命として生まれ出る機会を待っているわけです。

心無い行為で魂を失う

 有能な霊能者達は、こうした霊の生まれ変わりは非常に難しいと云います。空中に浮遊して雨で
大地に落下して草などの命になる。幾度か草としての命を過ごして、次は虫や動物等に生まれ変わ
る。そうした長い積み重ねを終えてようやく人間として出る。そうしたチャンスを待つしかないとしま
す。しかし、それは途方もない時間の経過であって、現実的には不可能に近いのです。そうした霊
は霊能者から見ると、ゴミや塵の類でしかないのです。
 人は万物の霊長類で、神に一番近い立場。この世の生き方しだいで神霊として上がれます。
だからこそ、この世では善いことしなさい。学びなさいとなるのです。



肉体に死がないと苦界は終わらない

永遠性の命を保つ魂

 魂と呼ばれるものは魂を腐らせてしまうとか魂を潰してしまわない限り、ほぼ永遠性を持った命と
云われてきました。霊能者と呼ばれる人達が何万年前に人であった霊に遭遇した等と云いますが、
生まれ変わっていない魂の場合、そうした古代人の姿をした霊と出会うこともあるのです。
 仏教において無限地獄界が説かれていますが、途方もない時間地獄に叩き落とされる霊も出るの
です。それは、魂は永遠性の命を持っているからなのです。

魂の修行場には期間がある

 この世は魂の修業場として創られたもので、肉体の死を持ってその修業期間が終わります。
霊能者と呼ばれる人達が自殺は行けないと指摘するのは、この世は魂の修行場である以上、どん
なに辛くても苦は自分に課せられた修業であると思って死を迎える日まで生き抜くことが大切だから
です。死ぬ覚悟があるならば、だいたいのことは出来るのです。

      肉体は魂の浄化の[器官]で
      死でこの世の修業の[期間]を終わり
      あの世に[帰還]する

 肉体を失えばこの世に残っている意味がありません。そうしたことが理解出来ていないような霊
の場合、死後の世界で結果的に迷って不成仏霊化をするのです。

 私を見た霊能者の方の中には、貴方はこの世の地獄を歩いておられると指摘されますが、私はこ
の世の地獄を歩いて来たことで多くのことを学ばさせて貰いました。幸せな人生であれば何も解ら
ない者で終わったでしょう。
 人はこの世でどんなに生きたいと願っても死を迎えます。どんなに辛い人生であっても、眠って
いる時はその辛さを忘れるように、死を迎えることでこの世の地獄(苦界)は終わるのです。
かし、自殺をすると苦行が終わらないのです。

 お釈迦様の疑問、人は何故に死ぬのか?
そこには答えがあった







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