第十五章・弥勒菩薩と誠(言成)の花

 私が神霊界に修業に入って間もない頃のある休日。うたた寝をしていると不思議な夢を見ました。
その夢の中で、私は金ぴかの仏と取っ組み合いの喧嘩をしていたのです。その仏とは弥勒菩薩。
喧嘩の原因は仲違いからではなく、この役はお前がする役だ。否、お前がすべき役だ。否、お前の
方が適任だ。お前がすべき役だと、何かの役を互いに押しつけあっている夢なのです。
 私は弥勒菩薩に向かって、何で俺がしなければいけないのだと叫いています。その喧嘩の周囲を
多くの天人達が見守っていました。
 だが、弥勒菩薩との喧嘩は私が負けました。私は弥勒菩薩にぐるぐる巻きに縛られて自由を失い
ます 。弥勒菩薩は天人達に命じて、横に広げるたれ幕を持って来させると、天人達に命じてその幕
を広げさせました。そして言います。お前は、こういう役をするのだ。私がその広げられた幕を見る
と、幕に書かれていた内容は

三千世界に誠の花木を咲かせる者

 私はたれ幕の字を見て、三千世界に誠の花木を咲かせる者?。誠の花木を咲かせろとは何の意
味かと考えていると、弥勒菩薩は地上世界に行けと、私を地上界に叩き落としてしまった夢です。
 私は弥勒菩薩ではなく、本来は弥勒菩薩がすべき役を天上界での喧嘩に負けた為に、仕方なく私
がすることになって地上世界に降りた者であるとの不思議な夢なのです。

喧嘩は華(花)を宣する

 不思議なことに、私は日本の神達から[言葉の君]と呼ばれ、大本教神諭予告、九つ花に咲く
一輪の言霊の経綸を誠で紐解く御方が一人ある。それを持って、お釈迦様の悟りを芯とする三
六九花を[誠]印で紐解くことになってしまいました。九つ花と云う花(華)を宣したのです。
 お釈迦様の悟りを[誠]印で説法するのは本来は弥勒菩薩の役。何とも不思議な夢でした。もし、
これが[みろく]でなく、マイトレーヤであれば、大本教神諭予告、九つ花に咲く一輪の言霊の経綸は
三六九花では成り立たなかったでしょう。



何故に神々に良心がないのかの疑問符

 私は神霊界に修業に入って最初に感じたことは、どの御神霊も親切で優しい。愛が深く、慈悲をも
っておられます。人間世界で交わる人達とは段違いでした。神霊世界に関わっていることの方が実
に楽しいのです。
 だが、修行を続けていて私は奇妙なことに気付きました。確かに、どの御神霊も親切で優しくて愛
があり慈悲深い。しかし、神として出す言葉に嘘が出るのです。神と呼ばれる方達であっても時に
は間違うこともあるでしょう。その言葉が嘘に成ることがあったとしても止む得ません。
 しかし、神は言葉を申し示すから神であり、人々の上(神)に立たなければならない者達である以
上、自分が出した言葉が成就しないで嘘になったとしたならば、何故に嘘になったのか?。そ
の原因を探り、成就せずに嘘になった理由を神示を伝えた者に告げるべきです。神であるなら
ば結果責任が伴っているはずなのです。それが、神としての良心。

 ところが、そんな御神霊などどこにもいないのです。どの御神霊も嘘の頬被り。霊能者が告げる
御神示が当たらないと言うことはママありますが、霊能者が嘘を言っているのではなくて、御祭神そ
のものが出した言葉の嘘を頬被りをするのです。私は、神とは良心を失った方達の総称かとさえ
思ったほどでした。
 ある霊能宗教者、自分の御祭神が信者達に出した言葉が嘘であったと知った時、世間を騒がした
と腹を切られました。神霊の名代(御台)をする霊能者は辛い立場に置かれてはいるのです。
 そして、私は[獄]の字で、ある事実に気付いたのです。神々の姿を蛇や狐や他の獣達で映し出
す原因は[言]にあると気付いたわけです。神たる地位にある者が自分が出した言葉に責任を取ら
ないから蛇化や狐化をしている。私はその事実に出会った時、私達人類はその姿を見ることがな
くても、万物を創造された絶対神が居られることを確信したのです。

 私は主を知らないが、良心神に気付いた私を主は知っておられるだろうとは言えます。



お釈迦様とイエスの教えの違いに真理

 私は昭和五十五年に私の身に起きた摩訶不思議な霊体験を元として、その意味を知ろう神霊界
修業に入ったわけです。初めての瀧行を終えた後、神前で祝詞を上げる私の目の前に一匹のコブラ
が現れると、天に向かって走り上がろうとします。そのコブラの動きと同様のことが私の身にも起き
たのです。私は一瞬、自分はコブラだったのかと思ったほど不思議な光景。このコブラの動きに関し
て、私は不思議な方法でこの意味を教えられました。
 それはヒンズー教のヴェーダ典の一節

人の中に眠るコブラが目覚めて走り上がろうとする時
人は真理に目覚める

私はコブラ(蛇)の目覚めで真理に走ろうとしているのか?。

 それから数日後、祝詞を上げている私の目に一体の僧が立っています。その僧は私の正面に向
かい合って立っているにも関わらず、私の魂の目はその僧の周囲を360度で眺めて行くのです。不
思議な見え方でした。その時、私の心はその僧に対する尊敬の念で溢れたのです。誰であろ
う?。それは、お釈迦様の若き日のお姿であると出たのです。
 その翌日、祝詞を上げている私の前に、上半身が裸でザンバラ髪の者が立ちました。その人は、
私に向かって[友よ]と云います。イエスだとは思いましたが、私は友よと云う言葉に対して、私は貴
男を知らないと答えました。すると、その人はとても悲しい顔をする。その時、私の胸から男の声が
飛んだのです。イエスよ、そなたは教えを間違えた。
 その翌日、祝詞を上げているとまたもや上半身が裸でザンバラ髪の者が出て来ます。だが、その
光景は大きな十字架を引っ張る光景でした。自分がイエスであることを証明しょうとする光景。私の
目からは涙が溢れ、私は号泣の中にいました。その時、イエスは私に白色の正十字架を見せて来
たのです。この白色の正十字は何を意味するのか?。
 私はその一連の体験で、お釈迦様は真理を悟られた。イエスは真理が悟れなかった。お釈迦様と
イエスの教えの違いの中に真理は隠れていると読んだのです。真理は一つしかないはずです。ど
ちらかが間違った教えをした?。



私をも叱った私の胸の中からの声

 私は私の胸から出た男性の声が、イエスよ。貴方は教えを間違えたとイエスを叱ったことで、
ンズー教のヴェーダ典、人の中に眠るコブラが目覚めて走り上がる時、人は真理に目覚めるの体験
で、真理はお釈迦様の悟りとイエスの愛の教えの違いに隠されていると読みました。
 だが、お釈迦様の悟りが人には仏性が宿る。その仏性とは慈悲だとすると、イエスは自分一人が
神の子で神の愛を説き、お釈迦様は全ての人に慈悲があると云うだけならば、一人か全体かの違
いだけで愛と慈悲に大きな差異はないのです。お釈迦様の悟りは慈悲ではないはずです。だが、お
釈迦様が何を悟られたのかが、まったく見えて来ません。

 私の胸から聞こえた男性の声は、私の修業の様子を見に来た大きな白い翼を持ったガブリエルに
対しても出ました。貴方の翼をもぎ取ってやろうか。それで、私はガブリエルと呼ばれている天使も
間違っていることを知ったのです。翼に意味に取り(鳥)違いがある?。
 幼い日、私に臨んだ旧約聖書の神と名乗る神が私に言われた教え。旧約聖書は私の書ではある
が、そのままに読めば意味を間違える。旧約聖書を学んだ者は、神の言葉の意味を間違えてしまっ
たことになります。
 そして、遂にその声は私をも叱りました。当時の私は稲荷神界で修業を積んでいました。その声
は、おまえはいつまで狐に騙されていたならば気が済むのだ。それで、私は稲荷神(狐)達の云
うことをまともに聞いていたのでは騙されるだけということをも知ったのです。

私が探し求める道は、お釈迦様の悟りしかないと

 私はそれまで神霊の声を人の声と同様に耳で聞くか、想いとして感じていました。しかし、自分の
胸の中から肉声と同様の声が出るなど聞いたことも体験したこともなかったのです。何故、胸の中
から自分以外の声が出るのか?。人の胸の中にはあるのは魂だが、私だけでなくイエスやカブリ
エルをも叱れるこの声の主はいったい誰なのか?。疑問だらけでした。

 ある会場で講演をした時、二人の女性霊能者に抱きつかれました。貴男の胸の中に本当の天照
様を見たと。私の六根(胸)の中から出た声は本当の天照大御神様か?。



人の魂の中に、自分以外の神が居る?

 私は、イエスを叱り、ガブリエルを叱り、私をも叱った声が誰かと考えました。自分の魂が自分を叱
った。それは充分に考えられます。しかし、私を叱るのならばともかくも、イエスを叱りカブリエルも叱
る存在となれば、私が子供の頃に聞いた旧約聖書の神と名乗る神の教え、そなたにはボロ服(他
の人より劣った肉体)を与えるが、その代償として私の心を授けよう。それは、旧約聖書の神と名
乗った神が私に与えた主の分魂(心)になります。

 しかし、それは大本教神諭予告、九つ花に咲く一輪の言霊の経綸で、私一人だけでなく、全ての
人々、全ての神々の魂の中にも存在しているはずの良心神だったのです。無論、お釈迦様にもイエ
スにもカブリエルにも存在したはずです。イエスの云った私を見て父を見よは、自分の[良心から来
る行い]を見て父の御心を知りなさいと云うべきでした。それならばキリスト教徒も、イエス一人だ
けが神の御子などと云う間違った教義の中には入らなかったでしょう。
 私の場合は魂の中の声に直接に叱って貰えましたが、ほとんどの人や神達にはその働きが出て
いないことになります。それは、良心神を発露させる為には蛇(邪心の囁き)を帰らせる必要がある
からでしょう。人の中に眠るコブラが目覚めて走り上がる時、人は真理に目覚める。

真理(マリ)は魂(球体)で、心の棒に蛇は巻き付く

 私の場合は巳(蛇)帰るを起こしたことで、魂の中の主の分魂(良心神)が声が出せたのかも知れ
ません。あるいは大本教神諭が予告した、この世のエンマ(羅の王)の声だったのかも知れないの
です。



鍾馗神の案内で、盤古神に拝謁

 私が神霊界で修行中、ギョロギョロ目の面白い風貌の神様が現れました。服装は日本の武将風の
鎧姿。見ていて、五月五日人形の鍾馗様ではないのかと見ていると、私の導師であった霊能者か
ら、豊受神様からあなたの家の守護に鍾馗様が赴任されたと神界から伝言があったと云います。や
はり、鍾馗様でした。
 ある日、私の魂は鍾馗様に案内されてある場所に飛びました。そこには、中国風の甲冑に身を固
めた将軍達が綺羅星のように並んでいました。私はそこで一人の帝に拝謁したのです。その帝の名
前は盤古神でした。その横には、その少し前に拝謁をした西王母が座っておられます。?、盤古神
とは誰だろうと、読んだ本が大本教霊界物語。
 霊界物語によれば、国常立尊様御引退後、地上神界の主宰神と成られたのが中国で創造神とも
天子ともされる盤古大神とあります。すなわち、国常立尊様の御復帰までの間は盤古大神が地
上神界の主宰神であられるです。しかし、何故に私はその盤古大神に拝謁したのか、意味がさっ
ぱり解りませんでした。

 それから数年後、私の家の風呂場の前に、大きな[漢字]と書かれた浴衣を着た出口王仁三郎霊
が立っています。私は一瞬唖然として言葉も出せませんでした。人の家の風呂に入浴に来た?。そ
の出口王仁三郎霊を追って行くと、私の家の神棚にあった菓子を掴むと神棚の中にすっとー消えて
行くのです。何で、人の家の神棚に入るのだ?。しかも、菓子を持って?。
 言霊を使う霊能者の元で修業していると、大本教の出口なお開祖霊が私に懸かって来ました。開
祖霊はその場に居た霊媒者に移されたましたが、今度は出口王仁三郎霊が私に懸かって来たの
です。その時の出口王仁三郎霊の姿は、何故かイスラム教の宣伝使姿。
 大本教神諭予告、九つ花に咲く一輪の言霊の経綸が紐解けた時、何故に出口王仁三郎聖師霊
は大きな[漢字]と書かれた浴衣を着ていたのか、イスラム教宣伝使姿であったのか、その謎が解
けたのです。出口王仁三郎聖師は、まだラ(裸)になる前の浴衣姿。私に言葉を漢字に[変換]しな
さいと暗示して、貴男には[貸し]があると云ったわけです。

 私が大本教神諭予告、九つ花に咲く一輪の言霊の経綸が紐解けたのも、すべて出口王仁三郎聖
師の活躍の賜ではあるのです。



私の言葉に誠の神を見たと言う遊女

 私は蛇や狐と呼ばれている神達の元を去り、言霊を使っておられる霊能者の方の元で学んでいた
頃、一人の遊女(ホステス)に神の話をしました。私がこのホステスさんを遊女と呼ぶのは遊女の言
葉に意味があるからです。

 すると、その遊女は云います。私は神など信じない。どこを向いても蛇や狐の神ばかり。私はその
遊女の言葉に驚いて、貴女には神々が蛇や狐であることが見えているのですか?。と尋ねました。
 私の質問に遊女は答えます。そんなもの見えなくても解ることです。困って相談に行ったらどの神
の取次者も、助けて欲しければ大金を出せ。大金が無いのならばその若い肉体を差し出せ。そんな
ものは神ではなく蛇や狐の神に決まっている。
 私は今日まで本当の神様は存在しないと思っていた。でも、貴方から神様の話を聞いていて、本
当の神様がおられることが解りました。どうか私の様な立場(遊女)の者の為に神を説いてください。
誰もが涙すると思います。その為でしたら、私に出来ることならばどんなお手伝いでもします。聴衆
も集めます。会場も手配します。
 私はその遊女に尋ねました。貴女は私の言葉のどこに本当の神がおられると解ったのですか?。
するとその遊女は、貴方が語られる神の話ではなく、貴方が出される言葉そのものに私は本当の
神を見たのですといます。
 その時には、私にはこの遊女が言った意味が解りませんでした。だが、[言]が何を意味するか
が解った時、私の言葉に本当の神を見たと言う遊女の言葉の意味が解ったのです。私は私に
神は言葉なりきを教えたこの遊女は、私にとっては最大級の恩人と思っています。

 この遊女は当時、親が抱えた五千万円の借金に苦しんでおられました。その五千万円の借金が
払えるならば自分は身売りしてもよいと言います。それから半月後、その遊女の前に自分の愛人に
なれば親の五千万の借金を払ってくれると言う男性が現れて、その男性の愛人と成る為に去って行
きました。その時の五千万円は、今なら1億円以上に相当する価値です。

 私は神は「言葉」なりを見た遊女故に、神が救われたのではないかと思っています。



天峰の頂、五重の塔に瓢箪池

 私は大本教神諭が予告した、九つ花に咲く一輪の言霊の経綸を[誠]で解読して言葉での解説を
しています。しかし、それらは大本教の神典から学んだのではないのです。大本教が出した神諭や
霊界物語だけでは、誰がどう研究したところで解るものではありません。大本教が神旗とした九曜
紋で九つ花など解るはずもないことです。

大本教神旗 九曜紋 


私が説いた九つ花の原典


 私は、どなたかの神に教えられて説いているのではありません。私は天の最高峰の頂は東西南
北に走る白十字路で、その白十字路の東北側に朱色の五重の塔が建っており、西南側に瓢箪型の
池があるの霊的映像を見ていて、?と考えました。
 瓢箪からは駒が出る!。駒は馬と句。句は言葉。馬と言葉で許す?。そして、五重の塔を見てい
て、エジプトのピラミッドとどう違うのだろうかと考え出したのです。そこで、五重の塔をピラミッド
化した場合を図式して見ると、八十一の升目が出来ます。

将棋の駒は八十一の升目を走ります

 その升目の一つ一つが駒でなく、言葉(句)たる言霊の意味ではないかと考えたのです。
 その升目に1〜81の数値を振って行くと、総和が三六九に成る九の数理盤(九の魔法陣)が出来
上がります。真ん中の「41」の数値だけは絶対に変わることがない永久数とされます。真ん中に来
る言霊は、アイウエオならば[ラ]で、イロハならば[ミ]となるのです。ヒフミでは「ス」が来ます。大本
教が出した「ス」の神です。
 この「ス」の神が日月神示の岡本天明氏が出された「ヒフミ」で出されたものならば、まだ意味が解
ります。しかし、大本教は「イロハ」で出しました。
 81音の図にイロハ48音やヒフミ48音では無理があります。369(みろく)に織れないからです。ア
イウエオしかないとは思っても迷いは起きました。

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 ただ、私は昭和五十五年、私の目の前を真っ暗闇にして響いた神の声があり、その神の命令で
その場所に一人の女子が現れるのを待ち続けました。その女子は昭和三五年生で名は良子。
大本教が神旗とした九曜紋で知られる福島県会津若松市出身。出会いの場所は米印のユニオン
ジャックが旗印でした。
 やがて、その良子と呼ぶ女子は大阪の[十三]に消えました。十三に消えた良子?。その[良]の
字で、九つは花の真ん中に来るのは十三の[ス]の仕組みで消されている[ラ]の言霊。そして、そ
の[ラ」の言霊が神霊世界でどのように働いているのかつぶさに見てきたのです。神々は[良]心を
失って蛇や狐の姿に化している実態。誰もが[ス]の神論で踊っている状態です。



五重の塔を図式化

 仏教の五重の塔は、宇宙を表しているとされています。五重の意味は空(天)・風・火・水・地の五
元素。
 私は五重の塔を真上から見たならばどうなるかと考えました。すると、下が見えませんから全てが
見える形を考えました。そこに誕生したのが将棋の八十一路盤と同じ九の数理盤。仏教の曼陀羅
図の基本形。これらは句(駒)で全て神(言霊)を表していると読んだのです。
 大本教神諭には面白いことが書かれています。一番番頭が悪かった。次に来るのは一番番頭た
る[八]体の神。大本教では八王と八頭の神。八体の王たる神とその宰相達のこと。
 日本神話では八岐大蛇(八の頭と八の尾)を意味して来ます。悪の字の亞は、主の代理たる
立場の者が主を裏切った意味で言葉上は連動しているのです。
 この八王の神の段階で裏切りが生じた為に、主は表の神としては立たれなくなったが大本教霊界
物語の骨子なのですが、真相は解りません。
 九つ花は八十一音で表します。しかし、私達日本人が使っているのはイロハ四十八と濁音など二
十五で七十三音しかありません。八体の言霊(神)が主を裏切って八音足りていなくても、別にお
かしくない意味にもなるのです。

五重の塔を上から見たとすると
全体を見た時
一層目を見た時
二層目を見た時
三層目を見た時
四層目を見た時
五層目を見た時


五重の塔を断面化すると
五段ピラミッド




参考/九つ花と光の波動

 大本教神諭が予告しました九つ花とは、大本教神諭が表した「九二」とこたちの御言(ミコト)で縦
と横の二つの九で表される御言(言葉)の仕組みであったとしても、言霊は光の波動(音)ということ
になります。

言葉=光(こ)止(と)波(は)

  当然、そこには一つ一つの枠の中には光の「色」が存在していなければなりません。その色が何
色であるかが解らなかったのですが、http://www.stkm.net/hikari/hyo/dai1hyo.htmさんの「光」の
サイトに光の八十一パターンがありましたので、それを参考に九つ花に色を入れてみました(リンク
欄から同サイトに入れます)。
 下段は数値があると見づらいので、数字を抜いてあります。なお、この「光」のサイトで使われてい
る色名は私達が通常に云う色名とは違っています。為に少し見づらいかも知れません。



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平成17年12月追加分



言葉の発想(八艘)飛び

 私の日本語による言葉の教えは不思議な教えです。言葉が発想飛びしています。それにはある
理由が存在するのです。

 ある日祝詞を上げていましたところ、不思議な光景が見えて来ました。そこは日が差さない暗闇の
世界。私が体験した何の光も差さない状態ではないので、うっすらと光景が見え来ます。目を凝らし
て見ると、棚台の上に一つのさらし首が載っていました。頭だけですが髪型から推察して武将の首
と見ました。その首からは恨みが漂って来ます。
 私は神前からその首に向かって言いました。何時までも恨みを抱いていても仕方がないでしょう。
もう間もなく、みろくの世がやって来ます。恨みを捨てて、私と一緒にみろくの世に入りませんかと。
すると、さほど日が差さない世界に一気に光が入ったのです。すると、その首は目を見開き、私に向
かってニコッと笑いました。私はそれでよしと、その光景を閉じたのです。

 その数日後、私の横に緋色の鎧に身を固めた武者が立ちました。その顔を見ると、先達てのさら
し首の武将。今日は首が体と一緒になっています。よかったなと思いつつ、いったいこの武将は誰
だろうと思っていますと、源の義経霊と出たのです。源の義経は衣川の戦いで死にはしましたが、
その首はなかったとされます。家来が敵に取られまいと切り落として、どこかに埋めたのでしょう。未
だに首の所在は判ってはいません。

 大本教の出口王仁三郎聖師は不思議な行為をしています。救世主は源の義経(蒙古においての
名乗りは源の日出雄)だと言って、蒙古に救世主を名乗って渡っています。大本教神業にも鞍馬山
神業が存在します。そこまでならば、源の義経のジンギスカン伝説の型取りと判断出来るのです
が、源の義経霊が立ってから私が言葉を判断する時、言葉の発想飛びが起き出したのです。一つ
の言葉が違う意味を導き出すのです。源の義経の八艘飛び。そして、私は義の意味を考えました。
源の義経とは九郎判官(裁判官)。

全ての経は、義が源(源の義経)
苦労(九郎)を「判官」する

 旧約聖書には、「義」の者が一人でもいれば私は人類を滅ぼさないとあります。出口王仁三郎聖
師の救世主は源の義経だは、「義」の道(経)を告げたのでしょう。



吉良上野介と浅野内匠頭

 ある夜、私が眠りに就こうと布団の中にいますと、ドタンバタンと霊が暴れまわります。うるさいな、
誰だと目を開けると、吉良上野介霊と浅野内匠頭霊が取っ組み合いの喧嘩をしているのです。私は
その二人を見ながら、これが吉良上野介の顔で、これが浅野内匠頭の顔かと眺めていました。喧嘩
をしたいのならば喧嘩をすればよいが、別に私の家の中で取っ組み合いの喧嘩をしなくてもよいもの
にと、喧嘩の仲裁をするでもなしに考えていまた。
 大本教の演技はイロハの47(んを除く)。仮名手本の忠臣蔵。大本教三代目教祖は直日でも
本名は[アサノ]。今の大本教は何を教えても仮名手本のイロハを持ち出して、いくら出口王仁三郎
聖師が真性みろく神業は上野から起きると予言していても、上野を介して吉と成る[良]の教えを出
せば、大本教は直日の[アサノ]に忠臣を誓ってイロハ47の教えで吉良上野介の首を取ると云う。
三代目教祖の直日の[アサノ]がこの世を去るまでは、何も動くなかと寝てしまいました。
 私の言葉の謎解きは、多くの霊が出て来て、私の前で演技をするのです。私はそれらの演技を言
葉に翻訳しているだけです。

神の世界の大芝居
役者は、この世の者だけではない

 大本教に仕掛けてある仕組みは、通常の宗教団体とはわけが違います。これを、大本教の出口
王仁三郎聖師は大本教に現れるのは神の世界の型と云ったように型があるのです。
 私達が知る仮名手本のイロハ47士の忠臣蔵。相手は吉良上野介。そこまで、神は仕組んで
おられるわけです。ほとんどの人が自分の頭の中で想ったり考えている神とは桁違いの神。気が
遠くなるような神。遥かなる将来まで見越して、神の計画書は立てられているのです。
 人々が云う神は、人が困った時にだけ助けくれればよいのだの神。病気治しや現世御利益は低
い神の担当なのです。



日本語は[巳帰る]で天使長?

 私は神霊界修業を続けていて、どうすれば人類に助かる道があるのか、その道を模索続けていま
した。そして、最終的に辿り着いたのは九の魔王陣(大本教神諭では九つ花)の仕組み。その九の
魔王陣を[米]型にした時、これがメシヤの意味であることを知りました。この教えに従った者は救
われて、そうで無かった者は救われないのでしょう。
 私が子供の頃、姿を見せずに私に臨まれて永遠の神、旧約聖書の神と名乗られた神は、私のこと
そなたは日本の国の天使長たる立場の者と告げられました。
 私が神霊界修業の初めに体験した出来事は、ヒンズー教のヴェーダ典。人の中に眠るコブラが目
覚めて走り上がる時、人は真理に目覚めるの体験。
 旧約聖書の天使長は最後の審判で蛇の尾を踏むミカエルとされます。蛇の尾を踏めば蛇は走
り去るでしょう。ミカエルとは巳(蛇)帰るの意味なのか?。
 日本語においてのみ巳(蛇)帰るを[ミカエル]とすることが出来るので、日本の国の天使長たる立
場の者と告げられたことになるのでしょう。
 私は神霊界修業の過程において、誰に語っても絶対に信じて貰えないような数々の摩訶不思議を
体験して来ました。それら全てが日本語で主の神を語る言葉の解読をさせるためものになってい
たのです。
 永遠の神、旧約聖書の神と名乗られた神は、そなたには人類の誰一人として歩かなかった道
を歩かせる。確かに、誰も言葉そのものの仕組みをもって主の神を説くなどはしていません。日本
の神達、あなたは[言葉の君]とお呼びするお方。ユダヤ人以外の国の異国の言葉で異国の人が
主が説ける摩訶不思議なのです。
 永遠の神、旧約聖書の神と名乗られる神は、そなた一人だけにこの神の仕組みを見せる。私自
身、どんな仕組みなのかさっぱり解りませんでしたが、大本教神諭が予告した九つ花にて考えられ
ない仕組みを知りました。問題は、私にどれだけ言葉を正しく明らかにする解読能力が備わって
いるかでしょう。



立派な山羊(羊?)の訪れ

 私が未だ九つ花を紐解く前、私の寝床に威風堂々の立派な羊、あるいは山羊なのかも知れませ
んが訪ねて来ました。だが、私に何を言いたいのかが解らないので、力が強い霊能者と霊媒者の
力を借りまして、その山羊か羊か解らない者を霊媒者に降ろしてみたところ、その名乗りは古代ユダ
ヤ民族の族長であったヤコブやヨセフの霊だと云います。
 彼等が私を訪ねて来た理由は、自分達は古代ユダヤ民族の族長であった。霊界で旧約聖書にあ
るユダヤ民族の救い主の登場を待ち続けていたが、イエスが登場して来たがユダヤ民族は救われ
なかった。本当にイエスは救世主だったのかと私に尋ねる為に訪ねて来たと云います。彼等は神の
御国ではなく、霊界の荒野の様な場所に住むと云います。
 私は何故に私にそんな質問をするのかと尋ねたましたところ、数千年間に渡って霊界からこの世
に現れる魂を見続けていたところ、初めて見る色を出す魂の方がおられる。イエスの魂が放った色と
は違う。もしや、貴方こそ旧約聖書に予言されている方ではないかと思って訪ねて来たと云います。
私は旧約聖書に如何なる予言が書かれているのか詳しく知りませんので、私は私の魂が放つ色は
どんな色ですかと尋ねましたところ、私の魂が放つ色は緑(翠)色だと云います。
 私は彼等の質問に、私が子供の頃に旧約聖書の神と名乗る神からイエスは千年級の者と聞かさ
れていたので、イエスは主の一人御子ではないが、それなりの魂の持ち主だとだけ答えました。

古代ユダヤ民族は自分達の罪を山羊に背負わせた

 私は山羊か羊かは解りませんが、何故に古代に旧約聖書の神を信じていた者達は山羊か羊の姿
に身変えっているのか、その謎を考えました。古代のユダヤ民族は、自分達の罪を山羊か羊に背負
わせて荒野に放ち死に至らしめました。

聖書の教えは「羊」にて、羊の言葉
詳しくではなく、譱(善)の教えを説く

 天主たる神が、あれをしてはいけない。これをしてはいけない。日々の日常を詳しく指図はしない
でしょう。羊の言葉は譱(善)の語りなのです。
 自分が犯した罪は自分で刈り取るのであって、罪を誰かに背負わせるものではありません。いく
ら善人でも、それは通らないわけです。



旧約聖書の神との名乗りから

 私が神霊界に修行に入った時、日本の神達は貴男の本守護神は[国常立尊]様であると教え
てくれました。日本書紀には創造神として名を残すだけで、大本教が節分の煎り豆の[鬼は外]で追
われている鬼門の[艮]金神とは国常立尊であると世に告げるまで、日本人の誰がその神名を知っ
ていたかと云うほど世の中からは消された神です。現在でも国常立尊様を絶対神として奉るような
宗教団体も神社もさほど見あたりません。

 一方、私が幼い頃に臨まれた神は永遠の神・旧約聖書の神と名を告げられました。もしも国
常立尊であると名乗られていたならば、私は日本神話の世界から一歩も抜けられなかったでしょ
う。旧約聖書の神との名乗りから、人類の祖とされているアダムとイヴに囁いた蛇。蛇の囁きで神
の御国から追放されてしまった人類で、蛇とは何かに目が向いて行きました。日本では蛇は神と
して祭られていまして、誰も蛇の意味など考えないのです。
 そして、旧約聖書の神と名乗る神は、旧約聖書は私の書ではあるが、文面通りに意味を読み
取っては行けない。この国は私の教えが満ち溢れた世界で唯一つの国から、国常立尊たる日
本の国に常に立つ御言(命)の日本語をもって、旧約聖書の預言者が見たであろう映像を日本
語と云う言葉に再度変換させて、言葉に隠された神の真意を読み取って行きました。

 大本教神諭が予告した九つ花に咲く一輪の言霊の経綸。九の魔法陣の中心にある[41]の数
字。大本教霊界物語の第十三巻、美濃か尾張の国の中から現れる女子だけでは誰も意味が解らな
いでしょう。
 旧約聖書の神との名乗りで、モーゼの四十年間の荒野の彷徨い。モーゼはエジプトのアモ
ン・ラーの神の元を出たで、日本語のアイウエオはアの門から始まって[ラ]に到達するまでは
四十の彷徨いで、後悔(紅海)を渡らせる良心神の意味が解ったのです。
 旧約聖書も仏教(牛虎の牛頭天皇)も日本神道も、全て言葉を創った神の仕組みの中にある
と言えるでしょう。



言葉を創った神の存在証明

 私は霊能者として活動されている方々のような優れた霊能力を保持してはいませんが、神霊世界
に修行の足を踏み入れて神霊世界の一端を垣間見るだけの霊能力はありました。
 そうした中で多くの御神霊に出会い、特に稲荷神霊界には大変なお世話を受けました。私は子供
の頃、自分に臨んだが神が私は私であり永遠の神、旧約聖書の神と名乗られたからと云って、それ
は創造神だとは思ってもいません。そんなことは誰にも証明出来ないのです。名乗るのは誰にでも
出来るからです。
 ただ、私は神霊世界を垣間見て来て、イエスが見せた奇跡の数々にしても神霊世界ならばそうし
たことは出来ると云います。インドのサイババの奇跡にしても同じこと。奇跡を持って、それが主の
神であると説くのはあまりにも無理があります。霊界には巨大な霊力を持って奇跡と云う魔法を
操る大蛇霊(龍神)の存在があるからです。

 創造神とは、言葉を創った神とされています。言葉の仕組みだけは、いくら奇跡を見せて自
分が主の神と名乗っても創れるものではないでしょう。巷に私が救世主だ。仏陀の生まれ変わり
だと称して奇跡を見せる者はいくらでもいます。その背後の神霊を見れば巨大な大蛇霊(龍神と称さ
れる霊)だったりするのです。

 私は日本語と云う言葉を持って、日本に限っては言葉を創った神が存在する証明(言葉で正し
く明らかにする)だけは出来たと思います。私は日本語の中に主の神が存在する証明の仕組み
を見ただけであって、別に主の神そのものを見たのではないのです。霊界に現れる映像(絵伝)を見
て日本語に翻訳して来ただけです。私が見たのは牛頭の主だけ。それが仏教で云う牛頭天皇なの
か、単なる牛人なのかは私には解りません。

 大本教外伝、国常立尊様が配所に赴く時、見送りの牛人いわく。国常立尊様のご復帰は節分の
煎り豆に花が咲く時になりますと。大本教神諭、綾部に九つ花が咲いたならば、万古末代枯れ
ぬ花。



誠でないと真理(ダルマ)の手足に成らず

 私は大本教神諭が予告した九つ花に咲く一輪の言霊の経綸が、お釈迦様の悟りを告げる[ラ]神
論であると判った時、正直言ってお手上げでした。人々に良心神を説いても信徒など集まりませ
ん。人々が求める神は病気治しや現世御利益を授ける神なのです。それが蛇や狐の神であっても
かまわないわけです。人々は、今の[苦]を救ってくれる神を望んでいるからです。
 自分の魂を磨いて本当の天国に行く?。先の天国よりも、今の現状を何とかしてくれです。先の
地獄など誰も考えも思いもしないことです。大本教が今に残ったのも病気治しで大きくなったからで
しょう。しかし、私は病気治しが出来ない。溺れる者に良心神を信じなさいと云っても溺れてしまうだ
け。と云って、そこらの宗教家の様に天国行きだと空切符を切って商売も出来ません。

 お釈迦様は空前絶後の荒行を体験された後での悟りであり、私も一部の御神霊が貴方様の御苦
労はと嗚咽されるほどの地獄道を歩んでの学び。仮に私と同様の体験をされたとしても、私と同様
には理解は出来ないでしょう。お釈迦様の良心神の悟りが何時のまにか慈悲に変質しても何の不
思議もないのです。それは、人々が良心を欲しなかったからです。

 大本教神諭に、この教えは誠の者でないと、そのお世話が出来ぬとあるように、九つ花に咲く一
輪の言霊の経綸は誠が無い者にはお世話が出来ないでしょう。何故ならば、これは真理(ダル
マ)の教えだから、誰かが真理(ダルマ)の手足となって自分の手足を差し出してお仕えしなければ
ならないわけです。どれだけの人がそれを理解出来るのでしょうか?。

自分から望んで真理(ダルマ)の手足になる


 大本教教神諭予告、達磨(ダルマ)大師として現れた。ダルマとは[真理]のことで、高崎のダル
マではありません。高崎の達磨人形を描いて、主の神のお姿だと云った霊能者もいましたが、ダル
マ(真理)を磨き達しなさいで達磨大師と云います。



日本神話に踊ってしまった日本神道

 私は子供の頃、永遠の神・旧約聖書の神と名乗る神から、この神の教えは世界の宗教書には
載らず、日本神話や日本の民話、わらべ歌にこそ秘めてあると聞かされました時、日本神話ま
で仕組んだの意味が解りませんでした。
 しかし、神霊界修行を積んで来て、日本神道をいくら持ち出しても、世界で見れば日本神道は
ローカル宗教にしかならないことも解ります。何故ならば、日本神道と呼ばれるものは太陽神・天
照皇太御神を天皇家の御先祖とする皇室神道から一歩も抜け出せていない面が強いからです。
 太陽神・天照とは、天地創造の神を意味していないのです。私達が所属する小宇宙だけでも
太陽のような恒星は二千億個からあるとされます。全宇宙を支配する神は、太陽や月などの神の論
理で語っていると実に小さな存在になってしまいます。視野が狭くなるのです。

 外国人でただ一人だけ霊界を探訪したとされるスウェーデンボルグは、第二天国界の住人の一人
一人が霊界の太陽を持っていると書き記しました。住人の数だけ霊界では太陽があることになりま
す。
 そうした証拠の一つとして、誰でも瞑想で太陽を造り出すことが出来るからです。まず、青空を
イメージする。その青空に白雲を出す。そこまで出来れば太陽に近づけます。白雲を減らして太陽を
探しに行く。熱を感じる方向に熱を感じる方向に視線を向けて行けば、やがてギラギラと輝く太陽が
見えてくるはずです。だが、現実界と同様に太陽の直視は出来ません。その手前で止めた方がよい
のです。現実界の太陽と同様に霊界の目に危険が及ぶでしょう。
 それは、創造主は太陽をも造られた証拠。日本では、天皇家を絶対視させたい者達の仕組みの
為に天地創造の神の存在が見事に消されてしまったと言えるでしょう。
 私の魂は神霊界の伊勢神宮において三週間ほど神官霊達から修祓を受け、伊勢の内宮神から絢
爛豪華な大神霊行列を見せて貰い天照皇大御神に仕官も考えましたが、天照皇大御神の着物の
胸に金鶴、裾に六甲紋の金刺繍があったことで、カゴメ唄を思い出して止めました。

かごめ、かごめ篭の中のトリは
いついつ出やる
夜明けの晩に、鶴と亀がすべった
うしろの正面だあれ

 私が子供の頃に臨まれた神は云われました。私の教えは日本の民話やわらべ歌に入れてある。
 伊勢神宮に示されるのはダビデの紋章(カゴメ紋)。 

 私の後ろの神(正面)は誰?。

神の芝居の大舞台、誰が「トリ」を務めるのか!
尻殿(しんがり)と云う



国常立尊と旧約聖書の神

 大本教が艮金神・国常立尊説を世に出た時、知識人や宗教研究者の間で国常立尊と旧約聖書の
神は同一神かが論議されました。どちらも祟りの神です。
 私が神霊界で修行中、出口王仁三郎霊が二回も私の前に立ってくれました。一度は大きな漢字で
[漢字]と書かれた浴衣を着用。一度はイスラム教の宣伝使姿。その時は何の意味か解らなかった
のですが、日本名[大国常立尊]様とはイスラム教でアラーの神と呼ばれる神で、ラーの神を漢字
で表せのアドバイスだったようです。
 私自身は子供の時に旧約聖書の神と名乗る神が臨み、日本の神達は貴方の本守護神は[国常
立命」様と教えてくれたことから、旧約聖書の神と国常立命様が同一神であることは解っています
が、九つ花に咲く一輪の言霊の経綸に辿り着くのは容易なことではありませんでした。

 子供の時、姿を見せずに私に臨まれた旧約聖書の神と名乗る神は、そなたを社会の底辺に置く。
社会の底辺を這ってでも生き、人の心の在り方について学ばさせる。その為かどうかは解りません
が、私は社会の底辺で[人の心の在り方]について学んで来ました。そして、人類の誰一人とし
て歩いたことがない言葉そのものが主を語る不思議な仕組みを知ったのです。それは、人の心の
在り方を説く。
 日本の神の中には、貴方は人類の罪を背負ってこの世の地獄を歩かれていると云われますが、

     葉のは、社会の底辺をう必要があり
     この世の地獄を見なければ紐解けないラ神論

 旧約聖書、神は言葉なりき。大本教神諭、世界で一人だけ九つ花に咲く一輪の言霊の経綸を知る
者が出る。



私は主(創造神)など知らない

 私自身は、大本教霊界物語に書いてあるような悪神が主の神を[艮]に追いやったなどの事実が
あるのかどうかは知りません。宇宙を創造した大根元霊神を如何なる悪神とも言えども追いやるなど
出来ることではないかと考えます。
 ただ、森羅万象ことごとく創られた神が人類の上には臨まれなかった。地球と呼ぶ星を管轄する
神界の正義派の神々は悪神達に追いやられてしまった。そうした事実はあっただろうとは思い
ます。何故ならば、どこを向いても蛇や狐の神ばかり。誠や正義の良心を重んじる神達が見えて来
ないからです。
 私を見た幾人かの霊能者の方。貴方は救世主ですか?。メシアですか?。と尋ねられます。私は
そうした質問には一切答えません。たった一人の者が出て来て、私が救世主です。メシアですと言
って済む問題ではないでしょう。私はそうした名乗りをする者は最初から信用するなと言います。
そんな証明など誰も出来るはずがないのです。
 私は社会の底辺に身を置く、どこの馬の骨やら牛の糞か解らぬ身分に過ぎぬ者。人間的にも
欠点だらけで、決して立派な者ではありません。世間には私など及びも付かない立派な方達がたく
さんおられます。私はそうした方達を見ると、ここに生きた神がおわす。生きた御仏がおわすと、た
だただ頭を下げさせて貰うだけです。それだけの者にしか過ぎません。
 どこでどう間違ったのかよく解りませんが、子供の頃、夜空を見つめていて、私の肉体の父母は優
しい親で、その恩は山より高く海より深いけれども、天にまします我が魂の父母の元に帰りたいと泣
いたならば、永遠の神、旧約聖書の神と名乗る神の声が私に臨んだだけのことです。それだけのこ
とにしか過ぎないのです。

 私の元には幾多の霊が訪れます。それらの霊は、貴方に従っていれば主に会えるのではないか
と言います。私は主を知らない。でも、私と一緒に歩くと言うであれば、主に会える道を一緒に探し
ましょうと言うだけです。そして、ようやく辿り着いたのが大本教神諭予告、九つ花に咲く一輪の
言霊の経綸で、主の仕組み(神の計画書)を知っただけです。



蓬莱山証覚寺風来鶏の~言葉

 私は大本教神諭が予告した九つ花に咲く一輪の言霊の経綸が解読出来た時、参ったと言うのが
私の本音でした。これは誠(言葉で成る)の意味が理解出来る者でないと、教えそのものが理解
出来ないでしょう。
 私が九つ花を紐解く前、ある方の代理で大本教参与職たる幹部とその弟子達の前で言葉で成る
[誠]で神の講義をしましたところ、ユダヤの教えに固執して帰れ帰れの大コールを受けてしまいま
した。次に出口王仁三郎聖師が関係した言霊学会で講義をしたところ、間違った内容もありました
が、言葉をもって神を説く方式に割れんばかりの大拍手を頂きました。
 但し、その時の講義の内容は今とは月とスッポンほどの違いはあります。それほど、九つ花の内
容は高度の内容にはなるのです。

言葉の教えは、理解出来る者と理解出来ない者がある

 今の大本教に[誠]の世話が出来る者は居ないと思っていても、私の解読は出口王仁三郎聖師
の働きがあってのこと。私のことなどどうでもよいのですが、出口王仁三郎聖師の名声だけは世に
残したい。大本教が出した内容は旧約聖書の比ではないのです。大本教神典は解読出来るならば
神の宝庫。大本教に誠の者がいれば「ス」神論でなく「ラ」神論だと気付く様に綾部の町に十回に渡
り新聞折り込みで全戸無料配布で出したのが神言葉。ペンネームは蓬莱山証覚寺風来鶏。
 たぶん、大本教の宣伝紙(使)は風来鶏の意味すら解らずに、風来坊と混同して私を攻撃するだろ
うと見ていますと、風来坊は[イロハ四十八]でやっけてやると宣伝紙に載せて来ました。
 私は出口王仁三郎聖師が予言した場所に住んでいるのでいにるか蓬莱山。葉のしさに
めよで証覚寺大本教神諭、早く気がつかないとトリが飛び立つのトリなれど、主の風の方
向を見定める風来鶏。元々は天津神界に所属する天使の一員。それでトリを名乗ります。私は神
の世界では涙の渡り鳥。天に戻る日を心から待ち望んでいるだけです。

 神は言葉なりきの説明は紙を食べます。綾部の町に無料で全戸配布を続けるのは宗教家でな
く、信徒を持たない私には金銭面での荷が重すぎました。しかし、インターネットの時代となり、無料
で見ていただけるので再開に踏み切りました。 



人の氏名に織られた言葉の使命

 私が綾部市中に新聞折り込みで十回に渡り全戸無料配布で神言葉を配布した時、私を新聞店を
通じて探そうとされた方もありました。私は新聞取次店に名は告げていません。名を出せば、これだ
けのことを書く人であれば、病気治しをしてくれるであろう。困っていることを解決してくれるだろうと
人が来るでしょう。
 しかし、私は心の立替を説いているのであって、病気治しや現世御利益の神の御台ではありま
せん。言葉で成る「誠」の神の御台。私が示せるのは、神の御国に入る道があることを教えるだけ
です。それは、ラ(良)心が魂の真ん中の椅子を得る時はイスラエル(椅子ラ得る)に進むのです。モ
ーゼ神と同様の役割です。
 神言葉の配布者が私だと知るのは印刷所のみ。その印刷所の社員に、どの宗教も説いていない
こんなことが、どうして言葉で解るのですか?、と質問されました。
 私は神霊界の命令である場所に住んだのです。その場所は、大本教の出口王仁三郎聖師が一
部の信徒達に、大本教には内密にその土地を死守せよと命じた土地の中の一つ。大本教信徒の子
孫の方が持っていた土地。私は神霊界から命令されてその土地に住んだ後、いろいろの夢を見て
来ました。その夢の中で、私が知る人達が演技をするのです。その演技内容と、その人の氏名
から源義経霊が現れてから出て来た発想飛びで言葉の意味を解読して来たのです。
 大本教霊界物語の中で出口王仁三郎聖師は、霊界物語の中に自分と同じ名前があるからと言っ
て、自分が神界の御用をしていると思ってはならないと信徒達を戒めています。 

指名された氏名に、言葉の仕組みの[使命]があった

 旧約聖書の神と名乗られた神は、私の周囲に言葉の仕組みを解読させる氏名を持った人達
を配置しておられたのです。私は何も知らないまま神の舞台で踊っているだけです。後で、なるほ
どと気付くだけなのです。


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